第4部22章『暗黒騎士』8
湖畔近くなり、人里の香りが漂ってくるようになった。煙、ものの焼ける匂い。森の中には倒木が見られなくなり、切り株が目立つようになってくるとその証だ。獣道に人間の足跡が混じっていることもある。村が近いのだろう。
なるべく人里を避けながら南下をしてきた翼竜の騎手は、その場で歩みを止めて翼竜の背から降り、小休止しながら迂回するかどうかを考えた。
商道に出くわす回数が増えてきたので、そろそろ都も近いのだろう。
懐に忍ばせていた地上世界の地図を広げてみると、どうやらこの辺りはアルエス湖という湖の周辺である。水辺には人間が住みつき易いから、人里の気配がするのも当然だろう。
地図を再び折り畳んで胸当てとスーツの隙間に入れると、騎士は傍らの岩に腰掛けて、また一時森の美しさをゆったりと眺めた。
主人がこの通り寛いでいるなら当分は自分も休めると、翼竜の方も木に当たらぬよう気をつけながら大きな羽を伸ばして体を解した。
「済まないな、パース。今晩は飛ぼうな」
その様を見て、騎士もそう言った。この大陸の自然があんまり素晴らしいものだから、ゆっくりと地の道ばかりを進んできたので、そろそろ翼竜の方は本来の活動場に戻りたくなっているのだ。日没まではまだ時間がかなりあるから、進めるだけ進んではおこうと思う。が、そろそろ嫌でも人間と遭遇するようになるだろう。
騎士にとって、それはどうということもないのだが、ギャアギャア騒がれるのは好ましくないし、口封じの必要が生じて殺すような面倒も避けたいので、目的地に着くまではできれば静かに済ませたかった。
人間を手にかけたことは勿論あるし、自分が危険に陥ることもまず有り得ないのだが、殺しに快楽を感じる性分ではないので、必要がない限り敢えて殺しはしたくないのである。
どの国も、町も、じきに定められた審判の時を迎える。その時一掃する方がずっといいのだ。それは大義を持って行う尊い行いだから、ただの殺しとは違う。
彼は礼節を持って紳士的に振舞うことを信条としているし、野蛮な行いは恥であると考えているので、自身に課している戒律の為にも、なるべく人間との遭遇は避けた方が無難であった。
自分一人なら、マントで身を隠せば人に見られても人間のフリをして誤魔化すことができる。だが、この大きな翼竜と一緒では、間違いなく人間ではないと見抜かれるだろう。本格的に調査を始めたら、何日間かはこの翼竜と別れていた方がいいかもしれない。
そのようにあれこれと思索しながら、騎士は乾期の高く抜けるような空を見上げた。
寛いでいた翼竜がふと、ある方角を向いた。その獣独特の機械的で鋭い反応は確実なセンサーである。何かが近づいてくるのであろう。
騎士は動かずにジッとしていた。魔物であれば、こちらの気配が解って、あちらの方から離れていく。自分よりずっと強くて恐ろしい竜という生き物がいることを感じるのだ。
だが、今回はそうならなかった。やがて耳に届いてきたのは、子供のすすり泣く声だったのだ。
それを聞いた瞬間、彼は真っ先に《弱った》と思った。子供は特に傷つけたくない。それに、戦う必要はないのに、敵いもしないのに、子供と一緒に大人がいると――――しかもそれが戦士などだったら尚更――――無条件で戦いを挑んでくるのだ。
さて、面倒は避けよう。
彼はそっと身を起こし、翼竜の所に戻った。そしてヒラリと背に乗ると、できるだけ静かに移動するよう指示を出した。完全にとはいかないが、もう少し小型の魔物のような足音にはなる。
この足音を聞き、すすり泣きはパタリと止んでしまった。
よし、今のうちに通り過ぎてしまおう。
だが、そう思ったのも束の間、更に面倒なことになりそうな兆しが現れた。遠くの方から微かに、人の名を呼ぶ者の声が響いてくる。そして蹄の音。馬だ。子供を捜して馬でやって来たのなら、まず兵士だろう。
どうやら、一番面倒な組み合せに遭遇したようだ。もし目撃されたら――――彼等には訳が解らずとも、この翼竜や自分の姿の特徴が人間世界に広まれば、そしてそれが魔導大隊の耳に入れば、奴等に気取られぬよう事を行えという主の命が果たせなくなる。それに、騒がれたらもっと人間が集まってくる恐れもある。
仕方がない。ここは先手を打っておくか。どうせ死ぬ者達なのだから。
騎士は背から武器を抜き出すと、目を細めた。
「ミルア――――っ!」
アトラスの足音で少女の声が掻き消えぬよう、馬歩を調整しながらソニアは森の中を進み、耳を澄ませた。森の木々がぐるりと四方八方を取り囲み、気根植物や蔓が垂れ下がっているものだから、少女の声など簡単に吸収されてしまうかもしれない。
湖の岸は浅いし、あの辺は崖もなかったので、事故には遭っていないと思うが、魔物と遭遇していたら事だ。ソニアは「急げ」を繰り返しに口にしながらアトラスを進めた。
木立を抜けた所で、湖へと流れていく小川に行き当たった。浅いが幅があるので、これを越えてはいないと思われる。流れの下にある丸い石がキラキラと輝き美しい。
ソニアはアトラスを反転させて方向を変えようとした。
――――が、そこで小さい者が木立から飛び出して来た。一瞬魔物のようにも見えたが、それは少女だった。量の多い鳶色の髪がボサボサと跳ね踊っていて、ワンピースもダブついている。少女は涙でぐしょぐしょの顔でアトラスの前に立った。身体全体が強張っている。
「――――ミルア? ミルアなの?」
少女はぎくしゃくと頷いた。ソニアはアトラスから降りて、彼女の無事を確かめる為に身体を触った。
「怪我はないかい? 大丈夫?」
また少女は頷いた。強張り過ぎて声を失ってしまっているようである。少女はおそろしそうにソニアのことを見ていた。見知らぬ全装甲の戦士に怯えてもいるのだ。
「おや、怖いんだね?」
ソニアは兜のマスク部分をスライドさせて顔を見せた。慈愛という名の青くて深い湖のような瞳が少女に微笑む。微風に波立つように、その瞳はキラキラと瞬いた。
女性で、しかもそのような美しい目を持つ人だと判ると、少女の緊張がホッと解れた。ソニアが手を引くと、ピタリと寄ってくる。
「さぁ、馬に乗って帰ろう。皆、心配してるよ」
ミルアは頷き、「ごめんなさい」と囁いた。
ソニアは頭を撫でて彼女を抱き上げ、アトラスに先に乗せた。馬が初めてらしいミルアは、がむしゃらに鞍にしがみ付いている。
「……きれいなちょうちょがいたの。……とってもきれいだったの。ミクスお兄ちゃんの言うこときかないで……迷子になって……ごめんなさい」
「うん、うん、わかったよ。ミクスお兄ちゃんも心配してたから、彼にもそう言っておあげ」
「うん」
さて、アトラスに乗って戻ろうかと地面を蹴りかけた時、ズシンという重量感のある音が聞こえてソニアはその場に固まった。
馬じゃない。それよりずっと大きい。
魔物との戦闘経験が豊富だから、ソニアには今の足音だけで多くのことが解った。向こうはこれでもなるべく足音を忍ばせている。そっと降ろしているのにこの重さなのだ。相当大きい。だが、かつて出会ったようなパンサー系ではない。彼らには肉球があるのでこんな足音は立てないだろう。テクトに行く際に遭遇したように、また大蠍や火蜥蜴が出没しているのだろうか? でも、甲殻類ではないと思う。直感が、もっと違う生物だと告げている。しかも、何か別の危険信号を発している。
「こ……こわい……。さっきも、こんな音がした」
ミルアはアトラスの上で縮こまって震えている。アトラス自身もただならぬ気配を感じて肌をブルンと震わせていた。目を剥き、首筋には血管が浮いている。
これまでにも何度か感じてきた戦慄がソニアの肌を撫でた。向こうもこちらの動きを読み取っている。隙を窺っている。
そしてこれは…………殺気だ!
青い小鳥が何処からともなく舞い降りてきて、ソニアの肩に止まった。セルツァだと解った。
「……ギリギリまで何もしないで、セルツァ。お願い」
それで、小鳥は小鳥のままでピロロロロと返事をした。
ここは川辺で視界が開けている。急に動くと相手を刺激しそうだから、大胆な行動は取らない方がいいと本能が感じ取っていた。
こちらの感覚も鋭いのを相手は理解したようだ。一直線だった殺気が解け、あらゆる角度からソニアを値踏みするように回り始めたのである。彼女自身が敏感で気の操作に長けているから解ることなのだが、このようなことができるのは、余程高等で齢の高い魔物か、或いは気の操作に通じている人物だ。
向こうからは、もう十分こちらが見えているのだろう。一体……どのような相手が森の中に潜んでいるというのか。
ミルアがたった1人でこのような場面に遭遇しなくて良かったとソニアは思った。刺客だといけないのでマスクを元に戻し、体の一切を鎧甲冑で蔽った状態で辺りを睨む。
見ている。向こうもこちらを。それをビリビリと感じる。
ソニアは全く動けなかった。少しでも察知が遅れたらミルアを守れないかもしれないくらい相手が手強いから、全神経を集中させているのだ。
セルツァからも緊張が感じられたが、彼の場合は歴戦の慣れがあるようで、おそれの類は一切感じられなかった。頼もしいことだ。
だが……困ったものだ。なかなか動きを見せなくなった。向こうもひたすら観察することに切り換えたらしい。そうなると、こちらも動けない。遠ざかってくれさえすれば、ミルアを連れてここを離れられるのに。
ソニアはゴクリと唾を飲み込んだ。
武器を構えた騎士は、翼竜を少々進ませて人間の姿が見える所にまで来て歩みを止めた。何があったのか向こうが解らぬうちに仕留めてやろうと思っていたのだが、驚いたことに相手は素早くこちらの動きを察知したようだった。
ホゥ、人間でこんなことができる奴がいるのか。彼は面白く思い、すぐに殺すのは止めて、相手がどれほどの人物か見極めることにした。
離れていても、直接触れなくても、心で感じようとするだけで相手のことが解ることがある。スッと、水が染み込んでくるように。
だが、この人物のことはよく解らなかった。何かに守られているのか、バリケードがあるように情報が浮かんでこない。これもまた、ある程度のレベルに達している証でもある。大したもんだ。
騎士は次に、目で相手をよく見た。白い馬に子供。そして戦士が1人。その鎧の何と素晴らしいことか。彼は一目で、その鎧がその辺の代物ではないことが解った。人間世界で、あれほどのものを作れる匠が存在しているというのか?
彼の好奇心は大いに刺激され、目的が変わった。この人間と対面し、正々堂々対決したい。面白そうだ。
騎士はニヤリと笑み、翼竜を前に進めさせた。