第3部21章『孤島の聖堂~帰還』5
島を発って一刻ほどで水平線に大陸の岸が見えてきた。ナマクア大陸東岸にはあまり高い山脈がないので、近づくまでは陸がわからない。その代わり、気づいてからはあっという間に波の打ち寄せる岸壁に達した。
ソニアはゼファイラスに方向転換をさせ、今度はこの海岸伝いに北上するよう飛んでもらった。2人はもう随分心を通わせられるので、ソニアがもっと高くと思えば高度を上げるし、右と思えば右、左と思えば左に行ってくれる。
群島域を抜けてきた進路を地図上で考えた時に、おそらくここはトライアの主都より南側に位置しているだろうと思ったので、北上するのである。もしかすると今はまだテクト領かもしれない。何処でもいいから、大きな港町が見えれば現在位置が判るだろう。
あまり高速で通り過ぎないよう、速度も下げていく。
しかし、陸上の道を標識を見ながら進むのと違って、空からというのは実に己の目と地形の記憶や知識を頼りとするものだとソニアは知った。これだから、鳥は目がいいのだろう。こんなに上空から小動物の姿を捉えて降下し、仕留められるのだから。
町とは言えない規模の孤立した民家が幾つか通り過ぎていく。そして、小規模な港町も流れていった。あの大きさでは、瞬時に地名が浮かぶほどの名のある町ではないだろう。そんな町がまた幾つか過ぎ、ソニアはひたすら北上を続けた。
そうして飛ぶこと四半刻、やがて行く手に大きな港町が見えてきた。他と比べて勾配のある丘や岸があるので、遠くからでもその存在がわかった。ソニアはもう少し速度を下げてもらい、目でよく町の様子を見た。大中小様々の船が沢山出ている。
あれ? もしかしてここは……
ソニアは更に速度を落としてもらった。ちょうど近い所に小型の漁船が浮かんでおり、そこからギャアッという悲鳴が上がる。漁師たちが見たこともない大型の魔物に驚いているのだ。しかも、どう見ても最も恐れられている竜という種類のようだから完全にパニックを起こしていた。しかし船の上とあっては何処にも逃げる場所がない。いざとなったら海に飛び込むくらいだ。
ソニアはしまったと思い、マスクをスライドさせて顔を出し、声を張り上げた。
「――――――ゴメン! 驚かすつもりじゃなかったんだ! 怖がらないで!」
そう言って遠ざかっていくので、漁師たちは固まってしまう。今言われたことの意味が解らなくて皆で顔を見合わせ、でもやっぱりまだまだ恐怖した。
ソニアは、お前の大きな姿を人間というものは見慣れていないから、あのように驚くが、きちんと説明すれば解ってくれるから心配するなとゼフィーに教え、お願いして暫く沖の方で待機してもらうことにした。 桟橋の突端スレスレまで近づいてもらい、そこでソニアは飛び下り、ゼフィーには沖の方へ離れてもらう。
案の定、港のそこら中で騒ぎが起こっていた。敵襲の警戒を促す花火までが上がる。
「ああ……しまったかな……。でも、仕方ないものね」
桟橋で釣りをしていた年配男性と若者は今にも海に転げ落ちそうになっている。ソニアは彼らにも、大丈夫だから安心してと呼びかけた。
そして桟橋から町に向かって歩いていくと、早速、港衛兵が武器を手に参上した。決死の覚悟で全員が物凄い形相をしている。
よしよし、早いな、とソニアは満足した。思わぬ襲撃訓練になったようだ。さすが、よく鍛えられているようだ。なにせ見間違いでなければ、ここは軍のトップを2人も輩出している名高い町なのだから。
竜なんかに乗ってやって来た、見たこともない全装甲の戦士だから、彼らは敵と見なしてやりを突きつけている。よく見ればその手が少々震えていた。今ここにいるのは、若い兵士3人と壮年兵1人である。
「――――――何者だ!!」
「――――――我等はトライア国港衛兵!! 名を名乗れ!!」
ソニアは早く誤解を解く為に兜を脱いで小脇に抱えた。すると、これが何よりの目印となる彼女のルピナス色の長い髪が露になり、風に靡く。港衛兵たちはあっと息を飲んだ。
「もしや……貴女様は……」
ソニアはにっこりと微笑んでから、兵士らしくキリッと敬礼した。
「お勤めご苦労! 騒がせてしまって悪いね」
まだ信じられず敬礼が返せないものの、若い兵たちはおずおずと槍を引いた。壮年兵1人だけが、信じたい気持ちを顔に表しつつも、槍を尚も突きつけてこう言った。
「恐れながら! この時節であるので貴殿に一つお尋ねしたい! 我が国の城、東側の門裏の花壇に咲く花は何でしょう!」
それは、以前にソニアが遠征から持ち帰り、好んで植えさせた花であった。この兵は城勤下がりで故郷に戻っており、当時たまたま庭園整備の雑役も行っていたので、彼女に頼まれて植えたのである。それは小さな株で、花の好きな者でなければ名など知らないだろうと思われる稀少種だった。
彼女本人でなければ知らないはずの、また、まやかしで彼女を騙ろうとするならず者であれば知りようもないほどに些細な出来事である。
ソニアは2、3度頷き感心しながら言った。
「――――ああ、それは非常に慎重でいいことだね。今はとても危険が多い時だから、疑ってかかるというのはいい心掛けだよ。――――でも、心配には及ばないよ。私はそれを知っている。それはミラル湖産のリタだ」
この受け答えを、若い兵は訳も解らずに見守って2人の顔を見比べている。壮年兵は大いに安堵し、顔を輝かせて槍を引き、勢いよく敬礼した。
「――――――お帰りなさいませ! 軍隊長閣下!」
若い兵も続いて敬礼する。そして涙ぐんだ。
「驚かせて本当にゴメンよ。空から来たから場所が判らなくって。それで、見覚えのある港町を見つけたから、デルフィーかどうか確かめようと思ったんだ」
壮年兵の指示で、まず若者達が町中に散っていき、敵襲警戒を取り下げるよう奔走した。長居をするつもりはなかったので、ソニアはそこで2つだけお願いした。
「今、沖の方で待っている竜は、友達になった子だから敵じゃないんだ。でも、さっき皆に驚かれてちょっと傷ついてるかもしれないから、あなた、あの子を撫でてやってくれないかしら。友達みたいに」
壮年兵は「えっ」と目を見開き、明らかに体を硬直させた。
「とも……友達……ですか?」
ソニアがニッコリとして言うので、彼は大いに戸惑い汗を吹き出させた。
「人間と友達になれるっていうことを、早くあの子に体験させてやりたいんだ。ちょっと呼ぶから、撫でてくれるだけでいいの。なるべく怖がらないで。お願いできるかな?」
軍部の最高司令官にお願いされるということは、兵にとって絶対命令に等しい。彼は口を真一文字に結んで、震えながら頷き承諾した。
ソニアが手を振ってゼフィーを呼ぶと、目のいい飛竜はすぐに寄ってきた。それがあまりに速いものだから、壮年兵は思わず身を仰け反らせる。
ソニアは自分のすぐ側にゼフィーを招き、そこで滞空させた。巨大な頭と目がすぐそこにあると、壮年兵の顔色はどんどん青くなっていく。正直、彼は腰を抜かす寸前だった。
「ゼファイラスというんだ。まだ子供だから、優しくしてやって」
ソニアは、ここ、ここ、と言うようにゼフィーの鼻面を示し、自分でも手本として撫でて見せた。飛竜は気持ち良さそうに瞼を伏せる。
「結構ね、犬みたいなもんだから」
ソニアは気軽にそう言う。壮年兵は恐る恐る手を伸ばし、少しピンク色になっているゼフィーの鼻に手を触れた。司令官の前だから必死で強くあろうとしているのだが、手はどうしても震えていた。
「よ……よ……よろしく……ゼファイラス」
ゼフィーは真ん丸の目で壮年兵を見て、フン! と強く鼻息をついた。彼は驚いて思わず手を引っ込めたが、ソニアは喜んで笑っている。
「――――良かったわね! あなたの、この国最初のお友達よ!」
またゼフィーが鼻息をついたので、どうやら竜の方も喜んでいるらしいと知り、心臓が爆発しそうなほどにバクバクといっていたが、彼はぎこちなく笑って見せた。
そうすると、桟橋の袂や家の陰から幾人もの人々が恐る恐るこちらを覗き見ているのにソニアは気がついた。中には興味津々な様子の子供もいる。
ソニアはおいで、おいでをして子供達を呼んだ。普通は呼ばれたってそうそう来られるものではないが、10歳前後の少年少女が3人、おっかなびっくりの様子でつるんで寄ってきた。大人達が「行くな」と叫んでいる。将来有望な好奇心と勇気の持ち主だとソニアは感心し、喜んで招き入れた。
「これから、人間のお友達を沢山作ろうと思ってるの。この人は一番目だから、あなた達は2番目と3番目と4番目になるよ」
初めて見る巨大生物に、最初は口をアングリと開けたまま見上げるばかりだった少年少女は、そう言われると自分が2番目になるのだと競い始め、結局3人一斉にゼフィーの頭を撫でることになった。ゼフィーは目をパチパチとさせて、小さな生き物のすることを見ている。太い髭がゾワゾワ動くと、少女がケラケラ笑った。
「あったかいね」
「うん」
「思ったより柔らかいね」
「気持ちいいなー」
触れられたところがちょうどくすぐったかったようで、ゼフィーはブシュン! とくしゃみをした。子供達は軽く吹き飛んでしまった。
「ああ、ああ、ゴメン。今のはこの子のくしゃみだよ」
子供達は怖がるどころか、ますます可笑しそうに笑っている。この頃には壮年兵も本当に笑うようになっていた。今日の出来事は、今後の彼の長い長い自慢話となるのだが、今はまだそのように考えられる余裕はなかった。
「さて、私はもう行かなくちゃ。そこでお願いなんだが、このまま都に行ったんじゃ、さっきみたいに驚かれて大変な騒ぎになると思うんだよ。だから城に流星術者の知らせを飛ばして、これから私が白い竜と一緒に帰るから、ビックリして敵襲だと思わないように王様と軍に連絡してくれないかな。急いで。私は、それが伝わる頃に着くようにゆっくりと行くよ」
「――――――はっ!!」
壮年兵は再びキリリと敬礼すると、駆け足で町の中心部に戻って行った。
3人の子供が楽しそうに竜と戯れているものだから、大人も子供もどんどん顔を出し、何人かは近づいてくる。ソニアは近づく勇気のある者をどんどん招き入れ、ゼフィーと触れ合わせた。
やがて流星が飛び立っていくのが見え、ソニアは満足そうに顔を輝かせた。今のが、この旅で初めて国王達に自分の生存を知らせる連絡となるのだ。これまでどんなに願っても連絡すら送れなかったのが、遂に送れる時にはもうすぐ帰れる所にいるなんて。
連絡が入って城内に浸透するのにも時間がかかるだろうから、ソニアはもう少しゆっくりしてから出発することにした。
ソニアは、再び壮年兵がやって来て流星術者を発たせたことの報告を聞くと、礼を言った。他の兵はこの騒動の平定にまだ忙しくしているらしい。恐ろしい竜がいることの方にどうしても目が行ってしまい、軍隊長の帰還が信じられず、実感が湧いてこない者が多いのだ。なにせ、桟橋の先の方にいるので、近づいてみないと彼女が確かめられないものだから。
「――――じゃ、お騒がせして悪かった。後は頼んだよ!」
そう言ってソニアはヒラリとゼフィーに乗り、壮年兵や子供達に手を振られながら上昇し、城都を目指して飛び発っていった。
ここから先は、クローグの花で彩られた国道に沿って北上すれば、方角に迷うこともなくトライア城都に着けるのだ。ソニアの胸は弾む。
見送る者達は、本当に大きな白い竜がソニアを乗せて飛んでいってしまうものだから、歓声を上げていつまでも喜んでいた。