第3部21章『孤島の聖堂~帰還』2
セルツァが示した方角を見失わぬよう直線的に飛行を続けていたソニアと飛竜は、スローヴルとナマクア大陸の間に横たわるウィナホル大陸にまず差しかかった。いかに高速飛行する竜でも、大陸越えにはかなりの時間を要する。
出発が遅かったこともあり、ウィナホル大陸西側に達し再び海に入った時には日が沈むところで、太陽が完全に沈んでしまってからは残光で暫く進めたものの、これ以上暗くなると、飛竜の方は飛べてもソニアが目視でトライアを確かめられなくなってしまうので、ここで已む無く手近の小さな島に着陸した。夜明けまではここで野宿だ。
「島があって良かったわね……」
2人は島の南にある海岸の砂浜で休息を取った。島に森があるのだが、森の中にいるよりはこの方が安全である。飛竜はソニアを風から守るように体を丸めて囲んでいる。
その飛竜の体に寄りかかりながら、ソニアは現在位置を考えた。方角さえ間違っていなければ、ここはウィナホル大陸西部にある群島域だ。アイアスとの旅以来世界地図を見るのが好きだったソニアは、そらで地図を思い浮かべることができる。
夜明けが近くなってまた飛べるようになれば、もうひと飛びでナマクア東岸に到着し、その位置が判ればトライア城都へもすぐに辿り着けるだろう。
一度でも行ったことがある土地ならば、例え夜間であろうともこの飛竜は行くことができるのかもしれない。しかし、夜に空から目的の街を探すのはソニアにとって困難だ。海が終わり陸になったのかの区別もつかないし、街の明かりを頼りに人の住む集落を探しても、町全体が見渡せなければその街を特定するのも難しい。おそらく、昼間に見るのとでは街の様子が違って見えるだろうし、特徴的な外観の建物を見分けるのも至難の技だろう。
トライア城都市に直接行ければ、あれくらいの都市なら篝火に照らされた城の形で判別できるだろうが、広大な海と大地でそんなギャンブル的な賭けはしない方が身の為だ。できるだけ早く着きたいのはやまやまだが、失敗したりこれ以上トラブルに巻き込まれたりしないよう、確実さと安全さを優先した方がいい。
ソニアは飛竜の温かくてゴワゴワした毛並みの体に背を凭れ、ゆったりと心地良さを感じながら鼻息をついた。こんなクッションはまたとないだろう。幼い頃ゴリラのマンモに抱っこされて眠ったり、背に寄りかかったりした時の記憶が甦ってくるようだ。異種族ごた混ぜになってワイワイ暮らすのは、今でもソニアの夢である。彼女はそれを改めて思い出した。
「……そう言えばお前……何か名前はあるの?」
飛竜はソニアの様子がよく見えるよう、長い体を曲げてちょうど顔の前にソニアがいるようにしたので、ただ目を開けるだけでソニアを見ることができた。ソニアの顔より大きいまん丸の金色の瞳がジッと彼女を見つめる。飛竜は、躊躇うような小さい唸りを暫く喉で転がせ、それからフンッ! と鼻息をついた。
ソニアに伝わってきたイメージは、それが名前なのかも解らない抽象的なものだった。受け取った彼女の頭が自然に言葉に置き換えて解釈すると、それは《白くて気味の悪いチビ》というものだった。名前というより、他の竜がこの飛竜をそのように呼んでいたということなのではないだろうか。
「……何て言うか……もっと正式な、きちんとした名前はないの?」
飛竜はウーッと喉を低く鳴らしている。ないということらしい。物心ついた時に一人だったから、人間で言うところの所謂名付け親のような存在もいなかったのかもしれない。こんな妙で屈辱的な通り名のようなものしかないなんて、とても不憫だとソニアは思った。
そしてニッコリと笑い、飛竜の鼻面を優しく撫でてやりながら言った。
「じゃあ、私があなたを呼べるように、何か名前をつけたいと思うの。いいかしら?」
飛竜は途端に興奮して、期待のあまりとても大きな鼻息をフン! とついた。ソニアは思わず押される。
「――――プッ! アハハ! いいのね? じゃあ、私がこれから考えて、もっとあなたに合って素敵な名前をつけてあげるわね」
誰かから名前を貰ったことのない飛竜はずっと興奮していて、その動悸がソニアの体にもドクドクと伝わり、ますますソニアは可笑しくなった。犬と猫で言うなら、この飛竜の性格は犬の方に似ているらしい。怒るとなったら徹底的に怒るし、嬉しいとなったらこの通り大喜びだ。
期待に応える為にも、ソニアはこれまでに読んだ本や、アイアスに教わった知識などを総動員させてうんと考えた。知識と創造力の全てを振り絞ってみる。
「そうだわ! いいのがある。あなたのその真っ白い体と空を飛ぶ姿にピッタリなのが」
飛竜の鼻息がフン、フンと迫ってきた。何? 何? と言っている。
「太古から伝わる風の神様の名前で、四方それぞれに風の色と神様が違うんだけれど、その中で西風を司る神様がいるの。神速で駆け抜ける白い風……それならお前にちょうど合っているわ。その西風の神様の名前は《ゼファイラス》。これをあなたの名前にしましょう。あなたの名前は《ゼファイラス》よ!」
飛竜は目を爛々とさせて、一瞬だけその名を噛み締めるように瞬きすると、それから天に向かってそれはそれは大きな歓びの咆哮を轟かせた。
ウオオオオォ――――――――…ン!!
至近距離でそれを聞くソニアは全身ごとブルブルと圧倒され、一瞬意識が飛びそうになった。
飛竜は何度も咆哮し、『ボクはゼファイラスだ』と世界中に告げている。若く幼い飛竜はすっかり有頂天で、今は《嬉しい》ということしか頭にない。
止めようがない喜び様だったし、頭がクラクラしているのでソニアはただ翻弄されていたのだが、そのうち雄叫びに混じって雷鳴が聞こえてきた時には驚いて顔を上げた。先程までとてもいい天気だったのに、何故か頭上で嵐が発生している。星が隠れてしまい、すっかり光が見えず、代わって雷光が閃いた。飛竜が身を仰け反らせて咆えると、何本も稲妻が走って目の前の海や森に落ちた。
参った。この飛竜はどうやら嵐まで呼び寄せられるらしいと知り、ソニアは慌てて宥めにかかった。
「――――――わかったから! わかったから! 落ちついて! 名前は何処にも逃げはしないわ! この名前はあなたのものよ!」
一応耳を貸し、ソニアの言うことを聞こうとする。
「あんまり騒ぐと島がビックリしちゃうから! ね! もういいのよ!」
すると、案外素直に彼は口を閉じ、『あ、そう』という顔で元に戻った。ソニアはホッと胸を撫で下ろし、さぁて困ったものだと考えた。
「……今みたいなこと、これから行く私の国でやると、他の人がとっても怖がると思うの。だから、普段は絶対にしないでくれる? こうして外にいる時はいいから」
ウン、と飛竜は頷いた。雲は急速に晴れていき、また星の輝きが見え始めてくる。
どうやら、この子には大分調教が必要なようだとソニアは思った。落ちついて時間が取れる今のうちに、この子に伝えられるだけ人間の世界のことを伝え、してはならないことや気をつけるべきことを教えておいた方がいい。そこでソニアは嵐の退散を願うように飛竜の体を撫で、言葉やイメージで対話を続けた。
そうして過ごすうちに、お互い疲れているので、やがてウトウトし始め、一匹と一人は一緒に眠りに就いた。
夜半、ソニアは目を覚ました。急にそんな風にして目覚める時は、何かの刺激があって、それに体が反応したからなのだが、目を開けた彼女はその原因がすぐに判った。暗い夜の浜辺に横たわる白い飛竜の体を調べるかのように、小さな光が3つ、フワフワと漂っているのだ。
はじめはセルツァが追いついてきたのかと思ったが、どうやら違うようだった。光は複数だし、ソニアが身動きすると目撃されたのが光に伝わったのか、恐れるように森の方へと消え去ってしまったのだ。
この島に住む妖精だろうか? 先程の嵐や竜の叫びが恐ろしかったので、偵察に来たのだろうか? 不思議に思ったが、向こうから何もしてこないのなら、ただジッとしているより他ない。こんな暗い島で灯もなしに後を追うほどの必要はないから。
すると、光が消えていった方を眺めているうちに、森のその部分が急に明るくなった。何が光っているのかはよく解らないが、ランプが次々と点灯されていくように明かりが灯っていく。その範囲は段々と広がり、森全体に及びそうだった。
その光景が美しかったから、敵襲という印象は受けなかったのだが、こちらを警戒して何かを目覚めさせてしまった可能性も否めないので、ソニアは身を起こして何時でも動けるようにした。すっかり熟睡していたゼファイラスも気がついて顔を上げる。そして、島の森全体が華やかな夜の街のように輝いているので、身を起こして様子を窺った。
正体がよくわからないので気は抜けないが、エルフの魔法のように色とりどりの灯が万華鏡の如く散らばっているので、実に幻想的だ。
「これは……何かしら……」
やがて、また幾つかの光が戻ってきて、フワフワと優雅に漂いながらソニアとゼファイラスを囲んだ。ゼファイラスが虫を追うようにパクンと口を開けて閉じると、その光は慌てるようにして逃げていく。
「ダメよ! ゼフィー、何もしないで」
解ってくれたようではあるが、どうもこういうものを見かけると追って口に入れたくなる動物的衝動があるようだ。それからもゼフィーは目をグリグリとさせて光の動きを追った。
そうして様子を見ていると、森の方からランプを手に下げた小さい人がやって来た。まっすぐ、ゆっくり、こちらに向かって歩いてくる。
それは、人間の少女であった。10歳くらいの背格好で、よく焼けた褐色の肌をしている。この群島域の装束なのか、布を巻きつけているだけの南国らしい装いだ。布の白さと、額と腕にはめている金色の輪はランプの光によく反射し、目立っている。貧しい原住民といった恰好ではないので、もしかしたら貴族や巫女など、高位の存在なのかもしれないと思った。
近づいてくると、髪は灰色でボサボサとしており、瞳は緑色だと判った。
少女はゼフィーのことをやや警戒して凝視しつつも、ソニアの側にまで来て立ち止まった。手に下げているランプは、光る球を糸か何かで吊るしているだけの物で、光の元が何であるかはよくわからない代物である。
「……この島に……ようこそ。旅の方」
少女はそう言った。少女が来ると、光りは少女の所に集まりクルクルと回る。やはりヌスフェラートのような危険な相手ではなかったのだと判りホッとするも、それでもソニアは不思議に思った。この少女はどう見ても人間だが、この明かりや森の光は人間離れした技である。まさか偽りの姿なのではないかと少し疑ってしまった。ずっと、いろんな理由で捕まり、要求を突き付けられてきたものだから、無害な種族に近い姿で現れて警戒を緩めさせ、利用しようと企んでいる者ではないかと考える癖がついてしまったのだ。
「……私は、これから国に帰る途中の者です。夜になってこれ以上飛べなくなったので、偶々見つけたこの島に来ました。日が昇るまでには立ち去りますから、どうぞ暫くここで休ませて下さい」
「ええ、どうぞ。……ここで……いいのですか?」
「ええ、十分です」
少女は表情も変えずに何やら考え込んだ。悪い者ではないのだが、グエルのように助けを求めるケースもあるので、ソニアとってその沈黙は気になるものだった。
「……こちらに……来ませんか? 大きな……家があります」
どうしてか言葉が少々たどたどしいようである。口調は気になるが、普通にもてなしとして家に招いての宿泊を勧めているようだ。
「ありがとう。でも、この子と一緒にいなきゃならないから、ここでいいです。それに、この子と一緒にいれば温かいから大丈夫」
少女はまた考え込んだ。客人を家に招けないと、無礼だと両親に叱られたりでもするのだろうか。それくらい、ソニアの断りを受け入れず、次の言葉を探そうとしている様子なのである。
「……では……家の中で……休まなくてもいいですから、ちょっと来ませんか?」
宿泊はせずとも、せめて食事か酒の一杯でももてなしを受けろということなのだろうか。なにせ10歳くらいの少女がそうして健気に誘い続けるものだから、ソニアの方としても断り続けるのが悪いように思えてくる。そこで尋ねた。
「あなたは……この島の人?」
「……はい。そうです」
「あなたは……この竜を見ても怖くないの?」
少女は改めてゼフィーの顔の方に視線を移し、ジッとゼフィーを見つめ、それからソニアの方に向き直った。不思議な子だ。
「……ちょっと……怖い。でも……待っていたから」
「待っていた?」
「……はい。いつか……白い竜がここに……来ると……知っていました。だから……驚かない」
ますます不思議なことを言うと思った。ソニアは首を傾いで自ら少女の側に寄った。
「あなたは……未来が見えるの?」
少女は首を振ってボサボサの髪を膨らませた。
「いえ……私は、見えない。他の方が……予言されていたのです」
何だかまた変わった所に来てしまったようだとソニアは思った。これまでに散々いろんなものを見てきたから、もはやいちいち驚きはしないが。
「白い竜に乗って……女の人がやって来るから……そうしたら……私の家に呼んで……見てもらいなさい……と……言ってました」
白い竜ではなくて、自分のことの方を言っているのだと知ると、ソニアはますます困惑した。まさか、こんな妙な作り話をいちいちして、旅の者を騙しているわけではあるまい。それほど確信めいた喋り方をしている。それに、あの明かり。普通でないのは確かだ。
「……あっちに、あなたの村があるの?」
ソニアは光る森を指した。少女は首を振る。
「村はないの?」
少女は頷く。
「じゃあ……あなたの家だけがあそこに?」
また頷いた。
「この島……には……私の住む家しか……ありません」
「まぁ……じゃあ、家族とだけで暮らしているの?」
「家族……もいません。私は……ここで一人。私が……この島を守る者」
こんな少女が一人だけで普通は暮らせるわけがない。だが、この島には常識では考えられぬ何かがあるらしい。
「人間は一人だけど……他にはいるから」
少女がそう言うと、また光が沢山寄って来て彼女の周りを飛んだ。少女も光それぞれに笑いかける。
とにかく、この子の話をもっと聞かなければならないとソニアは思った。
「私は……シャー。……シャー=プーム……と言います。お客人は?」
「……この子はゼファイラス。……そして私は……ナルス」
「ようこそ、ナルスさん。そしてゼファイラス」
名を呼ばれたのが嬉しいらしく、ゼフィーはグウと応えた。
「そのゼファイラスも……一緒に来て大丈夫だから……来てくれませんか?」
もう明日にはいよいよトライアに帰れる所まで来ているから、この手の誘いにはどうしても大いに慎重になってしまうソニアは悩んだ。
「……私に、何を見せたいの?」
「……ある物です」
「どんな物?」
「…………」
シャーは考え込み、言葉を探している様子だ。そしてソニアの装備に目を留めると、指差した。
「……そんなような……物」
指差す先が自分の胸元を示しているので、ソニアは手を当ててみた。そこにはトレス以来ずっと装着している鎧の胸当てがあった。
「……鎧?」
名称はともかく、ソニアが触れている物に相違ないようで、シャーは頷いた。ますます、不思議な話である。
「……誰か、私が来ることを予言していた人がいて……その鎧を私に見せるように……そう言ったっていうの?」
「……はい」
ソニアは開いた口が塞がらなくなってしまった。困っているから助けて下さい、とか、都合がいいから手を借りたい、とか、お前を捕えて皇帝軍に差し出してやる、とか、有り得るパターンは他に幾らでもあるのだが、この切り口は全くソニアの想定外だった。
そして、この少女がそれを知っているかどうかはともかくとして、ソニアは本物の戦士だった。つまり、何をお願いされるよりも、『鎧を見ないか』と言われ、戦士の魂が反応してしまったのである。きっと、何かとんでもなく曰く付きで特別な物なのだろう。だから戦士として、彼女はそれが見たくてたまらなくなってしまったのだ。
どうしよう。まさか、今更こんな所で、こんな妙な罠を仕組んだりするものだろうか? ここまで来て、また何か面倒なことに巻き込まれていたら、とんだ笑い話である。笑って済まない事態にだってなり得るのだ。
だが、本当に少女の言うような経緯と鎧が存在しているのなら……是非見てみたい。
「……その予言した人というのは……ここにいないのね?」
「……はい。その人は……違う所に……住んでいるので」
「その鎧は、どこから来たの?」
「……その人が……ここに置いていきました」
謎の予言者本人が、白い竜に乗った客人のことを予言し、しかもその鎧を置いていった。これは、ますます見てみたい。そこでソニアは恐る恐る承諾した。
少女の先導についてソニアは森に向かって歩き、ゼファイラスは体を浮かせ、木立に阻まれるまでは同じ高さでついてきた。
森に近づくと、光っていたものが何なのか見えてきた。エルフの村のように植物が光っているのもあれば、光の球が宙に浮いていたり、またそれが大きくなったり小さくなったりして漂っている。それらが森を彩っているのだ。それぞれに多種多様な色を持っているので、輝く宝石を鏤めたかのような美しさがあった。
森の中に入ってみると、足元を照らすように沢山のキノコが光っている。それらに感心しながら進んでふと脇を見ると、そこには縮んだゼフィーがいた。そのまま入って来られたので、森の上を行かずにソニアについて来たのだ。
「シャー、これ……あなたがやったの?」
シャーは振り返り、ソニアの指差す先のゼフィーを見ると、コクリと頷いた。
この島は、この少女は、一体何なのだろう? 島にも少女にも力があることがこれでよく解った。だとすれば、その予言者というのも只者ではないはずだ。一体何の目的で、こんな島に鎧を置き、自分を待っていたというのだろう。
森の輝きに目を奪われながら小道を進んでいくと、やがて目の前が開けて大きな建造物が見えてきた。人の手が入った広い庭園の中央に、どの大陸の文化にも属していないと思われる、丸みを帯びたドームがあり、光る植物や光の球によるライトアップ、そして建物自体が放つ光で、その姿を夜の中によく浮かび上がらせていた。
白い壁の側面には色とりどりの幾何学紋様が描かれている。窓の位置が高くて入口が大きいところは、寺院や聖堂のような趣きだ。ドームの頂きには金色の球が載っている。太陽か月を崇めているのだろうか。