第3部20章『青の国』8
「ねえ、セルツァ、あなたは私を守りに来てくれたと言っていたわ。私はこれから国に帰るつもりだけれど、そこまでも一緒に来て、始終側にいるつもりということなの?」
「……ダメかい?」
迷惑がっていると思ったようで、セルツァは少し悲しそうな顔をした。
「いえ、ダメとかそういうことではないわ。とても有り難いと思っています。人間達の前にその姿のままで出て行くのはマズいと思うけど、あなたなら、きっと簡単に解決できるでしょうね。本当に嬉しいわ。
それで、私は急がなきゃならないから、一足先に行かせてもらおうと思うの。あなたにはここの修復のお手伝いを是非してもらいたいから、一旦ここでお別れしましょう」
「――――――エッ?!」
セルツァはエルフらしくもなく裏返った声を上げた。
「そんな! 冗談じゃないよ! 君を守ることがオレの一番の役目なんだ! それを置いてこんな他所の国に手を出すなんて、それじゃ本末転倒だ!」
「私にはこの子がいるから大丈夫。この子がいればその辺の敵が来ても逃げられるし、この子に敵う相手はなかなかいないと思うから。この子に乗って国に帰るつもりなの。だから安全よ。あなたには本当に申し訳ないけど、この国のことが済んでから来てくれないかしら」
「そんなのあるかよ! オレは、君を、守りたいんだ! それで来たんだ!」
何やら仲間同士で言い合いをしているので、護衛者達は顔を見合わせた。この2人のやり取りはどことなく可笑しい。お転婆姫と、それに振り回されている付き人のようで笑えるものがある。地下世界に名を馳せている歴戦の魔法戦士のこんな一面が見られて、皆は彼に親近感を覚えた。まぁ、あんなに簡単に飛竜を手懐けてしまうほどの姫とあらば、只人でないのは当たり前なのだろう。
「これまでは移動手段がなかったから、途中でいろんなことに巻き込まれて大変だったの。でも、もうこの子がいれば大丈夫。一緒に私の国に行って、人間と一緒に暮らしてみることにしたのよ。この子が何より私と一緒にいたがったから。この子がどれだけ強いかはあなたも見たでしょう? まだ子供のようだけど、その辺の刺客や魔物ではきっと追いつけないわ。お願いだから、心配しないで先に行かせて。この国の人達にお手伝いする約束はもうしているのだから、それを放り出して来たりなんかしてはダメよ。ハイ・エルフの名誉の為にも」
セルツァはうわあぁと言って頭を掻き毟った。この人には少年のようなところがある。
「何だって、こんな面倒なことになってんだ! クソ! オレが2人に分かれるワケにもいかないし、かと言って村からすぐに呼べそうな応援なんていないし……! 応援が来るのを待ってるんだったら、オレがさっさと片付けちまって追いかけた方が早い!」
引き止めようにも、ソニアが自分からさっさと出て行ってしまえば、確かに彼女が今言ったような理由でセルツァは出て行くことができない。エルフは契約を大切にする種族で、名誉を重んずるところも強いのである。ソニアはそこまで計算したわけではなく、あくまで思いついたことをその都度行っているだけなのだが、それが結局この新たな護衛者をうまく引き離すことになった。
「ああ! こんなことでドツボに嵌っていることが知られたら、リュシルの奴が何て言うか! あいつ、凄く怒るぞ……!」
知っている者の名が出て、ソニアも思わず笑った。
「本当にゴメンなさい。私の命令でそうしたとか、何とでも言っていいから、とにかくこの国を助けてあげて。あなたをわざわざ困らせる気は全然ないんだけど、どうにも仕方がないんだもの。どうか解って」
セルツァは暫くソニアの顔を見つめてブツブツ文句を言っていたが、やがて折れた。
「おい、お前! お前のせいでオレはこんな面倒なことを引き受けているんだからな! 絶対! きちんとソニアのことを守れよ!」
飛竜は小さくなったことで高くなった唸り声でそれに応えた。
そして最後の頼みでトライアの方角だけセルツァに調べて教えてもらうと、ソニアはそこで護衛者達に別れの挨拶をして飛竜と共に上昇した。この飛竜がセ・グールを確かに離れることを見届ける為に、護衛者とイルカもついて来る。
そして水深が上がっていくにつれて飛竜はセルツァの魔法を破り、大きくなっていった。ソニアもそれに合わせて飛竜の頭部に捕まるよう移動する。
一気に水上に出た時には、もう元の大きさに戻っていた。飛竜はソニアの示す方角へ進路を定め、まだ乗り慣れていない騎手の為に少々遅めの速度で飛行を始めた。体から海水がボタボタと落ち、それを追うように偵察のイルカが何頭もジャンプしながら追いかけてくる。徐々に速度を上げていくと、すぐにイルカは追いつけなくなった。
晴れてトライアに帰れる身となり、ソニアは飛竜の頭上で流れ過ぎる景色を見ながら、今度のことを考えた。この旅の中では、とても変わった体験であった。不思議で妙ではあったけれど、普通に暮らしていたら地下世界以上にまず接触することのない世界を知り、その世界の人々と交流できたということは、とても貴重なことだったように思う。こんなに急いでいなければ、もっとゆっくり、じっくり見学をしたかった。
そして何よりこの飛竜だ。ずっと憧れていた竜と出会い、こうして友達になれたなんて、これこそが今回の滞在の目的だったのではないだろうか。この竜と会う為に、ここまで自分は来たのかもしれない。
飛竜の方は、喜びの中で空を飛んでいた。これまで誰かに、何処かにおいでよなどと誘われたことはないのだ。全く違う生き物だけれど、心通わせられる友を得て、その人の誘う土地で生きてみるのだから、こんなにワクワクすることはない。
ソニアの心も期待に膨らんでいた。これまで辛い戦いや別ればかりだったが、もう本当にトライアに帰るだけだ。人々は驚き怖がるだろうが、この飛竜という思いもかけないお土産があるし、後からあんなに優秀なエルフの魔法戦士まで来てくれるのだ。トライアの防衛に直接参加させるのは悪いが、少しでも力を借りられそうな者と繋がりが持てるのはとても嬉しいことである。
ああ、王様、アーサー。私はこれから帰ります。待っていて下さい!
ソニアは飛竜の頭の突起をしっかりと掴み、心の中でもう少し加速していいと伝えた。待ってましたと言わんばかりに飛竜は悦びの雄叫びを上げ、青い大海原の上を白い矢の如く突き抜けていった。
大森林における聖域エリア・ベル。この村では今日も歓喜の光が粒となって風に乗り、畑といわず道といわず、村の何処にでも漂って世界を輝かせていた。
村の北にある沼には、淡い桃色の美しい蓮の花が咲いて水面を彩っている。ここにも光の粒は降り注ぎ、そして妖精達が集まり光の粉を振り撒くので、キラキラと星の音までが風に弾けていた。妖精の光は水面に当たると跳ね返っていろんな所に飛んでいく。
妖精達は蓮の葉の上に一人ずつ立ち、ひっきりなしのお喋りをしていた。エルフ達に内緒の話が何かある時には、この場所を使うことが多いのだ。今ここには、このエリア・ベルに住まう妖精の大半が集まっていた。全員が消えると怪しまれるので、何人かは残してきている。
「――――で、あんたあどう思うの?」
「どうったって、なぁ……」
「とにかく急に行っちゃったんだもんなぁ」
「何処かに行ったなんて、知らなかったよなぁ!」
「うんうん」
「急に帰ってきて、またこっそり行っちまうなんてな!」
「パッシオが見てなかったら、誰も気づかなかっただろうね」
「うん、本当に。こっそりだぜ! こっそり!」
「そうなのよね~。こっそりなのよねぇ~」
妖精達はキーの高い声で思い思いに言葉を言っている。そうすると、まるで鈴を鳴らしているようだった。
「信じられないよなぁ。何か隠し事してるんだぜ、ありゃ」
「えぇっ?! 隠し事?!」
「エアルダイン様も?」
「……そういうことになるんじゃないかなぁ」
「だって、エアルダイン様と相談してたみたいだし、何かお命じになられてたらしいよ」
「えぇ~! いやぁ! 何よ! 何なのよォ!」
「こっそりだぜ! こっそり!」
「何を隠しているんだろう」
「ひどいなぁ~!」
「ポピアンもエアルダイン様も2人して隠し事なんて!」
妖精達は、何処かへ消えていたポピアンが二日前に戻って来て、それからまたいなくなったことを怪しんでこんな風に集まっていたのだった。多分、先日村にやって来たハイ・エルフの姿によく似た客人に関係したことなのだろうとは思っているのだが、妖精の寿命の関係から、かつてこの村で起きた悲しい出来事を知らぬ者が多いので、あの客人が確かにこの村の縁者であるとは知らない者ばかりがこうして集っているのである。
解っている者には解り切ったことなのだが、エルフも含め、そういう者達はまだ口を固く閉ざしていた。それは、彼等がまだ知らぬ幾つかの理由があってのことだった。
でも、同じ村に住まう者として、ハイ・エルフと妖精との間には滅多に隠し事はないものだから、今度の出来事は彼等の心を乱しているのである。
大切な事だから、必要だから隠しているのだということは解っている。でも、妖精は元来好奇心旺盛で知りたがりの塊と言ってもいい。だから我慢がならないのだ。
「エルフ達は知ってんの?」
「訊いたけど、知らないって言ってる人が多いよ」
「アマルダも知らないって言ってた」
「うん。嘘じゃないみたいだったよ。彼女も知りたがってた」
「――――じゃあ、エルフにも隠してんだ!」
「へぇーっ!」
「隠してんだ!」
「隠してんだ!」
「じゃあ、きっとすっごい秘密なんだね!」
「うわあぁ! 知りたいよォ!」
「何で隠すのかなぁ!」
「こっそりね!」
「じゃ、誰が最初に突きとめるか競争だね!」
「よォし! 頑張るゾォ!」
蓮の池で行われている妖精会議をよそに、ハイ・エルフの長エアルダインの館では静かで穏やかな風が吹いていた。
館の裏手にある広い庭には、様々な種類の花が咲き乱れている。ハイ・エルフは花壇などできっちりと区画するのは好まず、庭は専らナチュラルガーデンにして花の自由成長を尊重している。そうしていても、お願いすれば通り道は避けて生えてくれるので、ただの花畑にはならず、きちんと庭らしい様子になるのであった。
その庭に、ポットグラスを載せたトレイを手に、ふくよかな女官アイーダがゆっくりと出てきた。花の咲き乱れる領域を抜けていくと木立があり、その下には籐製の大きな揺り椅子があって、そこではエアルダインがゆったりと午後の風を楽しんでいる。背凭れに柔らかなクッションをたっぷりと詰めているから、老婆の体は心地良さそうに沈み込んでいた。
「お薬の時間でございますよ」
声の届くところに来るとアイーダはそう言い、揺り椅子の脇にあるテーブルにトレイを置いた。木漏れ日がキラキラとエアルダインの顔で揺れている。
老婆は白濁した瞳を開いた。
「……夢か……」
「よくお休みになられましたか?」
アイーダはこの村特製の美しいグラスに薬瓶から桃色の液体をトロトロと流し入れた。そして次は小さな瓶のコルクを抜き、少量の白い粉をそこに振り入れる。それから細長の葉を三枚入れ、最後にポットから煎じた茶色い薬湯を流し込んだ。虹色の蝶が先端にあしらわれているガラス製のマドラーでそれを掻き混ぜると、グラスの中の液体は黄昏時のような温かい金色の世界に変わった。
この、マナージュの樹液と葉を煮詰めた液体、そして村で採れるあらゆる果物を絞って精製の歌の中で煮詰めたものに竜の骨の粉末や、消化吸収を促す新鮮なハーブを入れた薬は、エアルダインが毎日飲んでいる特製のスペシャルブレンドだ。
エアルダインはアイーダからグラスを受け取ると、まずは独特の花のような香りを楽しんでから一口含み、ゆっくりと喉に流し込んだ。老いて細くなった喉は一度に少量のものしか受け付けなくなっている。そしてすっかり飲み下すと、溜め息をついてまた目を閉じた。
「……アイーダ、済まぬが、リュシルを呼んできておくれ」
アイーダはすぐに承知して、トレイをその場に残したまま館の方へと引き返していった。
平時は決して急ぐことがなく、この風のように流れる村の時間と同じ悠長さで、エアルダインが少しずつ薬を飲んでそれが全てなくなる頃に、ちょうどリュシルは現れた。彼もまた、花の王国の中を縫うようにして優雅な足取りでやって来る。
「お呼びでございますか? エアルダイン様」
揺り椅子の所まで来ると、彼はそこで膝を折り、身を低くして控えた。顔の高さを同じにして耳を近づけておかないと、老いた者のささやかな言葉を時々聞き逃すことがあるのである。
エアルダインは、空になったグラスを手にしたまま遠くを見るような目をしていた。リュシルはまずそのグラスを受け取り、傍らのテーブルに置き、それからまた脇に控えた。
「……ポピアンは発ったのだったな?」
「はい。昨夜発ちました」
「……セルツァから連絡はあったか?」
「合流に成功したとの合図だけ、先程受け取りました。それからは特にありません」
予定通り事が運んで特に問題がなかったので、大切な午後の昼寝を邪魔することのないよう、後で報告するつもりであったのである。これが聞きたくて呼んだのかと思い、リュシルは首を傾いだ。それならば事情に通じた妖精を使って問題の有無だけ確かめた方が早い。
出し抜けにエアルダインがフ、フ、フと笑い出したので、リュシルはますます首を傾いだ。
「……久しぶりに、夢を見た」
「夢を?」
「ああ。……エアが死んでから、長らく見ることがなくなっていたのだが……天からエアがワシの助けを求めているのかもしれぬな」
エルフにとって、夢の意味は人間や他の種族よりも重要視されている。先日も、フロウ家の夫婦が、以前失踪した娘の夢を見て娘の死を悟ったのである。同じようにしてその夜に他の村人の何人かも彼女の夢を見ていた。その後、生命の炎によってその娘の生死を実際に確かめ、死亡は裏付けられたのである。
全く違う事情で呼び出されすっ飛んでやって来たセルツァは、ちょうど村が悲しみに沈んでいるところに到着し、彼自身も娘の死にショックを受けていた。本来ならフロウ家の為にもう暫く滞在して労わりの言葉をかけてやるべきだったのだが、そんな空気が苦手であるのと、本当に大切な目的があったので、彼はさっさと村を後にして、ソニアの下に向かったのである。
助かる運命にはないと占術が示していたものの、それでも力の限り探そうとしていた娘が死んだことを知らされた後だったので、エアの娘だけは絶対に守るという彼の意気込みはかなりのものだった。
そんな今だからこそ、村人は誰もが夢に敏感になっていた。リュシルも、長が久々に見た夢とあって、どんなものだろうとつい構えてしまう。フロウ家のような、凶事を知らせるものでなければいいと願った。
「それが何とな、あの娘が……竜に乗っておるのよ。白くて珍らかな飛竜にな」
「――――何と! 竜ですか……!」
「はじめは戦っておるようだったのだが、そのうち仲良くなってしまっておった」
エアルダインは実に愉快そうに肩を揺すらせている。こんな風にして笑うことがあまりないから、見ているリュシルの方までが嬉しくなってしまった。
「しかもな、そのことであのセルツァがいろいろとやきもきさせられているところまで見たのよ。あ奴の慌てようといったら、まるでかつてのエアとのやり取りのようじゃった」
これにはリュシルも笑った。既にソニアを知っているので、大いにありそうなことだと思う。
「あの分なら、当面は心配には及ばんと思うが……力のある者にはおのずと大きな敵や試練が吸い寄せられ、ついて回るじゃろう。いずれ、セルツァだけでは難しくなるかもしれぬ」
「……左様でございますね」
ここで、ようやくエアルダインは顔を向けてリュシルを見た。
「近いうち、数十年ぶりに会合を開こうと思う。リュシルよ、各族長に書状を出しておくれ。日取りはそなたに任せる」
これこそが呼び出しの用件だったのだと知り、リュシルは重要な命を受けて深々と頭を下げた。
「承知いたしました。全て、お任せ下さい」
リュシルは命に従う為に早々とその場を辞し、再び庭園を抜けていった。
風が爽やかに吹き抜け、木漏れ日のダンスをエアルダインの顔に投げかけていく。エアルダインは、白い飛竜に乗る孫娘の姿を今一度思い出しながら目を閉じた。
「……急がねばな」