第3部19章『回帰』8
絶海の孤島では、その頃日が中天に昇っていた。陽射しが穏やかに射し込み、嵐に濡れた森の緑をキラキラと輝かせている。トレスやグレナドと比べてやや東寄りに経度がある為、こちらの方が朝や昼を迎えるのが早い。
昨晩の嵐が嘘のように海面は凪いで光の粒をさざめかせているだけで、島の湖も鏡の如く静まり返っていた。雲はスッキリと拭われ、空も海も全てが下ろしたてのように澄んだ青い色をしている。抜けるようなこの碧さは、そのまま宇宙に通じそうな程だ。
大理石の宮殿は日を受けて白く照らされ、本来の美しさがようやく顕になった。壁面を伝い這う褐色や濃緑の蔓植物も、自分がここにいたのだということをようやく主張できるように葉を広げ、日に輝いた。壮麗に広がる大きな宮殿が一番美しく見える時である。次に美しいのは黄金の夕日に照らされて、全てがその色に染まる時だ。
そんな、人も羨むような景勝地であったが、現在の宮殿内は外面の美しさとは裏腹に慌しかった。エングレゴール家当主ゲオムンドが、久々にこの宮殿を訪れてきたからである。この強大な悪魔が滞在している時には、宮殿の外からでもそれが判るほどに不穏な空気が島を覆った。だから島の生き物達は当主の来訪に気づいて、しきりに宮殿の方に目を向けて様子を窺っていた。
迷宮のように張り巡らされた通路を忙しなく番人達が行き交い、宮殿内の空気を張り詰めさせている。当主が来ている時はいつものことなのだが、今日は更に緊張感がピリッと漂って番人たちの心臓をチリチリと痛ませていた。
今回の一連の出来事。昨日のあの騒動。あれ以来1歩も部屋から出て来ない若君。これら全ての事を、あのおそろしい主はどのように受け止めるのだろうか。その懸念が部下たちの心を占め、どうしようもなく動揺させている。
当主の到着は突然のことで。それまでは割れた硝子の回収や焼け焦げた部屋の掃除など、事件の後始末に追われていたのだが、来訪が知らされるや仕事が増えて、誰もがバタバタと立ち働いていた。部屋が汚れていても怒られるし、持ち場についていないことでも叱責されてしまう。だから今は本当に間が悪かった。番人達は当主のご機嫌をビクビク窺いつつフル稼働する。
だが、当主の方はこの騒ぎを知っているからこそ、ここに来ていたので、到着するや若君の部屋へと直行し、最上階から一切の人払いをさせた。
お蔭で今暫くは当主の雷が落ちることはないだろうから、ほんの少し緊張が和らぐ。今、最上階の2人がどうしているのかは誰も解らなかった。側近のディスパイクのような者でさえも近づくことは許されていない。
ガルデロンはすぐ下の階の階段下で、何時でも呼び鈴が聞こえるよう待機している。
昼の光が存分に室内を照らし、全てが白っぽく見えた。ゲオルグがこの部屋を寝室に選んでいるのは単に最上階だからというだけでなく、カーテンなどを全て開ければ、この部屋が何処より明るくなるからである。
この宮殿はヌスフェラート仕様だから、代々の使用者が好んで使ったのはもっと下階の部屋で、このような最上階の部屋を使う時は厚くカーテンを閉じるなどしていた。だが、彼はその持てる血の性質からか、日中はできるだけ明るい所にいたかったし、朝陽を浴びて目覚めたくて、この部屋を寝室として好んで使用していたのだ。
ゲオルグにとって望ましい光量の部屋は、ゲオムンドにとっては明る過ぎる。部屋に入ったゲオムンドはその瞬間だけ目の痛みに顰め面をして、瞼を閉じるギリギリまで伏せた。
明るいが、部屋の空気は冷ややかだった。墓所内部の空気に似ている。部屋全体が石膏で造られているようだ。
青ざめた顔で魂の抜け殻のようベッドに腰掛けている息子もまた、石膏で造られた彫像のように見えた。それほど反応薄くそこで呆けている。色味があるのは、赤く充血した目だけだ。もしかしたら、父親が入室して来たことにさえ気づいていないかもしれなかった。
今にもそこで欠片や砂となって崩れ、倒れてしまいそうなほどに危うい痛みの残骸が、部屋中に転がっている。
ゲオムンドは息子の次に部屋の有り様を見た。鏡台の硝子が割れ、その破片が散らばっている。所々硝子を失った鏡面には血が乱暴に塗りたくられ、乾いていた。花瓶も粉々に砕けて転がり、元は白かったらしい薔薇の花弁も散らばっている。幾枚かは血の色にどす黒く染まっていた。この状況とは全く別に、ゲオムンドはまっさらな白い花弁の方よりも、血に染まった色の方が美しいと感じた。
この血が誰のものか、考えるまでもない。ゲオムンドは息子の体に再び視線を走らせる。息子の手はどちらも血塗れでこびり付いており、その手で触ったのか、顔や肩や胸、体の至る所に血がついて乾いていた。この臭いなら、今現在出血はしていないようである。
部屋の様子を見るからに、この血は誰かに傷つけられたのではなく自傷行為によるものだと察しがついて、ゲオムンドはここで起きた出来事を想像し、表情は怪訝ながら、心の中では悦に入っていた。
息子は負けて、すっかり打ちのめされている。
それ見たことか。やはりワシが正しかったのだ。何があったにせよ、お前をそれほど痛め付け憔悴させるほどに、あの者の存在は毒なのだ。邪魔なのだ。
愚かな息子よ。思い知ったか。
この宮殿には当然ながら当主直属の部下もいて、ここで起きたことは伝えられるようになっている。が、ゲオムンドは息子が連れ去り匿ったソニアが脱走を試みてこの騒ぎが起きたと、大まかなことしか知らされていない。
だから、本当ならゲオルグの前に姿を現すのがどれほど危険なのかということを、彼は全く知る由もなかった。
ゲオムンドは更に部屋の中に歩み入って、視線を少しも動かさぬゲオルグの視界の中に入って行った。
「…………これ、ゲオルグよ」
当主が身につける独特の派手な刺繍の入った暗色のローブと杖が目に入り、ここでようやくゲオルグの目に反応が見られた。僅かに揺らぎ、徐々に焦点が合っていく。音は耳に入っても意識に上らなかったが、さすがに長年畏怖し仰ぎ見続けてきた父特有の色彩が目に飛び込んでくると、それには心が動いたのである。
ゲオムンドは、ベッドに腰掛けて項垂れているゲオルグの真正面で立ち止まり、そこで向かい合った。
足元から先に焦点が合い、ゆっくりと顔が上がり、父と息子の目と目が合う。
「…………何があった。その有り様は」
そこに確かにゲオムンドがいることを確かめ、2、3度瞬きをしてから、ゲオルグは掠れた細い声を喉から出した。
「…………ぁぁ、父上」
いつもなら、この宮殿に当主がやって来るのはとても珍しいことだから、この息子は『よくいらっしゃいましたね』と歓迎の言葉を述べたものである。だが、今日はそれがない。虚ろで、無味乾燥な微笑を口元に浮かべるだけだ。
「……あの者をここに置いてから問題があったとの知らせを受けて参ったのだ。……何があった? ……その様子では、一暴れした挙句に取り逃がしたようじゃな」
《あの者》という言葉がソニアを指すと解っているから、その話題に触れられたことでゲオルグの胸が再び悲鳴を上げ、絞め付けられ、血を流した。心臓が打ち鳴り、彼の中にどうしても追及せねばならない問題が浮かび上がってきて責め立てる。
窓の外には、薄情なまでに潔く青い空が見えていた。その色が、今の彼には無性に腹立たしく感じられた。
「…………父上……」
胸をむかつかせる色なのに、その青さから目が離せない。
「父上は…………」
自分の声が小さいことに気づき、この人の心に届くにはもっとはっきりした言葉で述べないとダメだろうと思い、ゲオルグは言い直した。今度は可能な範囲で声を振り絞って。
「父上は……母上を……禁呪にかけて犯したのだそうですね」
ゲオムンドはギクリとして、瞼にだけその動揺を見せた。まさかそのことが、ここまで息子を腑抜けさせている原因だとは思っていなかった。そのことを知るのは、この宮殿には1人もいないし、ヴァイゲンツォルトにもいない。それどころか、この世で知っているのはゲオムンドが手にかけた娘本人と、その種族の者達だけのはずだった。
「…………誰ぞから聞いたようだな。それがこの原因か? ……さてはエルフがあの者を救出に来たのか?」
ゲオルグは質問に対する答えを待つばかりで、父の問いには答えなかった。ゲオルグのその様から、ゲオムンドは長くは待たせずに彼らしくサラリと言ってのけた。
「……まぁ、いい。お前の言う通りだ。ワシは……お前の母を禁呪にかけて一時を過ごした。それでお前達ができた」
覚悟はしていたし、ほぼ確信していたので、この問答は罪と怒りの所在を明らかにする儀式のようなものだった。ゲオルグはベッドについていた手をギュッと握り、拳を作った。
下手に隠すことは今の息子にもどかしさしか与えないだろうと見て、既にバレていることもあり、ゲオムンドは震える息子にそのまま話し続けた。
「……ショックだったようだな。お前はどうも母の種族に似たのか、ロマンチシズムを尊ぶところがある。教えたところで何の役にも立たんだろうと思い、これまで黙っておったが……今日は話してやろう。聞きなさい。
あの娘……エアは、それは大層美しいエルフだった。あの種族は滅多なことでは世に姿を現さないのだが、あの娘だけは特別で、ガラマンジャ中部の奥地にある森をその頃1人で住処としていた。
お前達が誕生する2年ほど前に、ワシは地上世界偵察の目的で地上を徘徊しておったのだが、そこであの娘と出会うたのじゃ。
以前に地下世界を旅する姫君の姿をヴァイゲンツォルトで見かけたことはあった。だからすぐに同じ種族の者だと判ったのだ。それどころか――――――それは姫君本人じゃった。
長らく地下世界を離れていたことが作用したのか、或いはあの娘の持つ魔力なのか、ワシはこれまでかつて同族の娘にも抱いたことがない程の欲望に突き動かされた。あの娘に、完全に恋焦がれてしまったのじゃ。あの容貌……あの声……何故じゃろう。夜にしか舞わぬ蛾や羽虫が火に吸い寄せられていくように、ワシはあの光輝くばかりの娘にどうしても心惹かれて、何としても触れてみたくなった。
そこで、ワシはあの娘をそっと追い、森の中で初めて姿を見せた。あの娘は大したもので、ヌスフェラートと2人きりでも少しも臆することなくワシと面と向かった。そしてワシが述べることを冷静に聞いておったよ。
このゲオムンド=エングレゴールがこのように謙って何かを請うことなどなかったのに、あの娘はワシの願いをあっさりと退けよった。とても丁寧に、ワシを怒らせぬよう言葉を選んではおったが、意志はハッキリとしておった。
ワシはどうにも諦められず、何度も機会を伺ってはあの娘に会いに行った。ヌスフェラートの世界でも、回数を重ねることでようやく誠意を認めて心を開く娘がいる。エルフの娘ともなれば、もっとその壁は厳しいのであろうと思ったから、ワシはそれを頼みに何度も足を運んだのじゃ。
……あの娘は頑なだった。頑なと言うより、純情なのであろうな。最初の時もそうだったが、《他に慕い、心に決めた者がいる》と言い、決してワシを受け入れなかった。ヴァイゲンツォルトにある領地や財産の半分を捧げると言っても、全く靡かなかった」
このゲオムンドという男からすれば、持てる物の半分を与えると言うのは途方もない献身だった。本当なら何もかも全て捧げると言ってこそ愛と言えようが、この男にはそれが精一杯だったのだ。
「最初に会った時……あの娘は何か悲しんでおった。その時はワシのことなど目にもくれぬ様子で、冷たくあしらわれてしまった。
……ワシは腹が立った。ヴァイゲンツォルトに聞こえるエングレゴール家の当主であり、並ぶ者のない魔術学者であり、各種族、各界にそれなりの伝手を持って束ねていたこのワシが、これほどまでに懇願しているのに、あっさりと払い除けられたのだからな。
それぞれの種族に掟があり、他種族との交わりを何処も忌避しているのは知っている。娘もそれ故にワシを退けていることは解っていた。だが……どうにも我慢ならなかった。
ワシは悔しさのあまり……ふと我を忘れてのう。禁呪である恋に酔わせる霧の魔法をあの娘にかけてやった。
王座を欲しいと思ったことはないし、望むべくもない。だが、それ以外の物は全て、ワシが欲しいと思った物は何でも手に入れてきた。こんな娘1人、みすみす諦めて引き帰せない意地と、何としても思いを遂げたい欲望に突き動かされた。
……他のことに気を取られていたせいか、あの娘はコロリと術にかかってのう……。ワシのことがどうやら意中の相手にでも見えたらしく、それは、それは嬉しそうに情熱的に全てを捧げた……」
ゲオムンドは、床に落ちて散らばる白い花弁を見下ろし、目を細めた。その目と、花弁とをゲオルグも見つめる。
とても冷たいこの人が冷たい目で淡々と話すと、肉欲の話も不思議なほどに疚しさが感じられない。だが、その中にはゲオルグが望むような愛の形は一欠片も見当たらなかった。
いつもの、この人らしいことをしただけなのだ。ただ欲しくなり、それを手に入れる為ならばどんな手段も厭わない。人を殺そうが、禁呪を使って騙そうが、そこには一切の良心の呵責がない。
自分は、やはりこの父と同類なのかもしれないとゲオルグは思った。愛する者への殺意を固め、それを計画しているのだから。
しかし、それでもやはりゲオムンドの目は彼には冷た過ぎた。ゲオムンドの語る情熱は、ゲオルグが覚えてしまった愛とは似ても似つかない。胸を灯すような熱の温かみがまるでない。それもまた虚しかった。母の側が本心では拒んでいた道ならぬ行為ではあっても、せめて母に思いを込めて解き放つ父の側に強い情熱や愛があれば、自分の存在にほんの僅かでも価値が見出せるような気がするが、それすらもないのだ。
ああ、この人に愛と欲望の違いを説いても、決して理解できないのだろう。
どうしてそんな心の伴わぬ交わりで、自分ができてしまったのだろう。愛なしに誕生した自分は、畜生だ。それ以下だ。
ゲオムンドはまだ白い花弁に目を落としている。
「…………思いを遂げて……ふとあの娘の白い肌を見た時に、何やらワシは急におそろしくなってきてのう……。どうしてなのかは解らず、何とも説明がつかぬのじゃが……あの娘のこの世のものとは思えぬ色……肌と髪を見ていたら、ただ、ただ、おそろしくなってきて、ワシはそこをすぐにでも去らねばならぬような気がした。そして、眠る娘をそのままにワシは森を去り、それからは近づくこともしなかった」
可哀想に。母は自分の身に起きた事にいつ頃気づき、知ったのだろう。そして……その時には既に自分がお腹の中にいたのだ。もし自分が女の身で、恋い慕う者との子供が既にいるのに、望みもしない男の種でもう1人乱入してきたら、どんな思いがするだろう。とても耐えられない。
世の種族は皆、万一望まぬ妊娠というものをした時には堕胎する手段を持っている。だが、妖精に聞いた胎生どおり、父の違う子供が同時にお腹の中にいたら、望む子供を守る為に堕胎術も使えなかったろう。
第1、できるだけ堕ろさずに済むよう、どの種族も気をつけているものだ。未だ数多く行っているのは人間くらいなものである。それも、未熟な生命と未熟な文化故の愚行だ。
そんな、父さえ知らぬ理由が重なって運良く自分は誕生した。すぐに殺されなかっただけ、母の種族が優しく、母が優しい人だったのだろう。身に余る恩だ。
「暫くして、水晶であの娘を覗いて見たら、あの娘の腹が大きくなっていた。まさかとは思ったが、経過をずっと観察していくうちに生まれ出た2人の子の一方がヌスフェラートの特徴を持ち、ワシに似ていた。それで、誕生したのがワシの子であると確信したのじゃ。子を成し残すことに、それまで一度も興味を抱いたことはなかったが……いざできてみると、何とも不思議な心持ちがした。
だが、片方は不完全な体で、すぐにも処置が必要だったようで、エルフの秘術らしき技で大きな樹の中に入れられてしまった。お前の方は五体満足で問題なかった。
あの娘はお前を抱きながら、片割れの看護を続けておった。
だが、次に覗き見た時には、お前の姿が見当たらなくてのう。探してみたら、森の川を篭に入れられ、流されておった。捨てられたのだとワシはすぐに理解した。片割れの方はあの娘の姿によく似ていたから愛着があったのかもしれぬが、あまりにヌスフェラートの特徴を色濃く持つお前を傍に置くのは耐えかねたのじゃろう。
そこでワシは川に赴いて、流れてくるお前を拾い上げたのじゃ。ワシの血を唯一引く息子であるからな。それより早170余年……ワシはお前を育ててきたのじゃ。ゲオルグよ」
父が言うように、いや、それ以上に、自分で思っていたよりも自分がロマンチストであったことに気づき、ゲオルグは尚更腹立たしくなった。つい最近まで、当然のように、自分は合意の愛の下に生まれてきたものとばかり信じていたのだ。
政略的な夫婦関係も世の中にはあるから、必ずしも愛だけが男女を繋ぐのではないことも知っている。だが利害目的であったにせよ、合意の上でということに変わりはない。最低でもその範疇にあるものと、漠然と考えてきたのだ。
だが、真実はそうではなかった。
この、存在するに値しない体。有機体。愛を請うことなど許されぬ罪深い魂。その全てを、彼は壊してしまいたくなった。
どんなに偏狭的で酷い親を持っていても、《親は関係ない》と全てを捨てて、新たに自分だけの人生を切り開き、生きていく者もある。が、彼はそうすることさえ自分には赦されないような気がした。呪わしい生まれの自分が辿るべき道は、ひたすら贖罪をすることでしかないのかもしれない。
母は既になく、贖うべき相手はもはや唯1人の双子の姉でしかない。彼女の姿を思い描くだけで苦しみが募って、胸が詰まる。行き場のなくなった愛の処し様がなく、それが彼を内側から刺して刻一刻と蝕んでいた。
もはや彼にとっての贖い方、彼女への愛の示し方は、他の輩に無残に殺される前に自分の手で楽に美しく命を奪ってやって、その亡骸と墓を生涯守ることしか思い浮かばなかった。そして、それこそが残された唯一の道だと信じるに至っていた。
彼は、本当なら今ここで父を殺してしまいたいという衝動を心の奥底に秘めていた。全ての発端であり、諸悪の根源である父。この人を滅ぼす者がいるとすれば、皇帝カーンか天使、或いは自分以外にはいないであろう。
だが、ここでこの男を殺しても、もはや母は返らないし、姉の身体も治らない。復讐の役には立つが、それ以外には何の利もないのだ。
真の贖いの為にも、今ここでこの男を殺すことは妥当でないと考え、ゲオルグは奥底に牙をしまった。彼には別の計画がある。
それに……この冷酷さならば、捨てられ、流されていた自分を見殺しにすることも出来たろうが、この人はそうしなかった。態々足を運んで自分を拾い、育ててくれたのだ。どんなに最低の男でも、それは感謝するに値する。
そして、どうしようもなく、この人がやはり自分の『父』なのである。
ゲオムンドは白い花弁から視線を息子に移した。
「……あ奴はここに匿われることを拒み、出て行ったのじゃな? そして……おそらくあの村の者が助けに来て、お前にこの事を語ったのであろう。……これで、お前もようやく懲りて解ったはずだ。あの者の存在は我等を蝕む。一族にとっても、我が軍にとっても仇成す者なのじゃ。あの者は長年人間と共に暮らして、性根まで人間になっておる。もはや……この世から葬る他ないのだ」
早くからこの結論に達していたからこそ、ゲオムンドは刺客を放っていた。今こそ、己の方が正しかったのだと胸を反らせている。