第1部第1章『はじまり』
1.はじまり
中央大陸ガラマンジャの、世界一深い森の中でその少女は誕生した。
地上支配権をめぐる幾度の大戦に晒されてきた世界から見れば、それは湧泉の底から浮かび上がる1つの泡ほどに些細な出来事に見えたかもしれない。しかしこれこそが、後々あらゆる種族の王が心に留め、語り継ぐ物語の序文となるのであった。
人間が入り込むことのない大森林深部の中、黒い頭巾を被った蒼白い肌の魔術師に抱かれて、その赤子は大切に森の中を運ばれていき、人々からは極悪非道と恐れられている巨大な蠍の魔物や、牙や角持つ獣達に見守られて世から隔離されていった。
人間に出会えば、牙や角の一撃で殺しかねないような種類の魔物達ばかりなのだが、その者達にとってこの少女を授かったことは例え様もなく誇らしいことであり、赤子を抱く魔術師の腕は高価な壷を抱えるかのように慎重であったし、居並ぶ魔物達も王宮の兵士さながらに花道を作って恭しくお辞儀をした。決して知性的ではない魔物達の、見様見真似、精一杯の歓迎のしるしだった。
とても肌の白い赤子は、木漏れ日に照らされると発光して見えるほどに眩しく輝いており、それは、森に棲むその者達の誰にもない美しい色だった。美の感覚は種族それぞれであるが、ここに揃った者は皆それを気に入った。
眠る赤子は彼等の領域である迷いの森の一画に運ばれ、用意されていた木製の揺り篭にそっと寝かされた。胡桃材でこしらえた丸みのある篭の中に、羽毛を集めて敷き詰めた柔らかな寝床ができている。
魔物達は篭の中を覗き込み、揺り篭には直接触れぬよう気を付けながら押し合い圧し合いし、鼻を鳴らすなどして魔術師の説明を急かした。仲間内で言葉が喋れる者は数少ないのだ。
老人にも見えるカサカサに乾いた肌の魔術師は、暫くそれを無視して真紅の血色の目で赤子をよく眺めた。母親によく似た、素晴らしい赤子だと思った。ゴクリと息を呑み、血管の浮かび上がる喉を上下させる。
元々我慢のきかぬ獣達は後ろから魔術師を小突いて更に急かした。
「――――わかった、わかった。落ち着け」
赤子を起こさぬよう、極力声を抑えて魔術師は皆を振り返った。大猿の鼻息は荒いし、大蠍はハサミをカチカチと打ち鳴らしている。魔術師に険しい顔をされると、いつも注意を受けている彼等は理由に気づいて息を潜め、大人しくした。森は、小鳥の囀りと葉擦れの音だけの平和な静寂に戻った。魔術師は言った。
「この方は……ソニア様だ。名前は、ソニア様。だが、ソニアで良いとのことだ。わかったな?」
魔物達は銘々感嘆の唸り声を上げ、言葉の話せる者は直接その名を口にして喜んだ。
「シ――――ッ、静かに。起きてしまうではないか」
魔術師の肌に張り巡らされた網目模様の血管は更に浮き上がり、真っ赤な目が大きく見開かれてギラリと光った。彼を本気で怒らせようという者は一人もいないので、たった一度の威圧で皆は押し黙った。
赤子が身をよじらせて伸びをする。起こしてしまったのではないかとギョッとして、皆は息を止めて凝視した。赤子は小さなかわいらしい口を開けて欠伸をすると、そのまま眠り続けた。安堵して、皆はゆっくりと息をついた。彼等を恐れる人間達が見たらとても信じられなかったろうが、魔術師の顔も、魔物達の目も、自分よりずっと小さな、たかが一つの生き物の仕草にすっかり緩んでおり、優しげになっていた。
「《仕える者ではなく、友達となって》だ、いいか? 我々は《仕える者ではなく、友達となって》この方をお守りするのだ。それこそが、旅立たれる母君の願いであらせられる」
一同は今一度じっくりと赤子を見た。母親への恩義と憧れから、この赤子に対する忠誠は既に揺るぎないものだった。
「ソニア……我等が友」
静寂の中、そうして彼等は飽きもせずに赤子の寝顔を見続けた。
ソニアは頑強な魔物達と遊び、魔術師に教育を受けながら育った。はじめは寝てばかりだったのに、這いずり出すと仲間を懸命に追いかけ、立ち上がるようになると、毛むくじゃらの体でも甲羅の体でもよじ登ろうとした。
目は、夜が訪れたばかりの澄んだ空のような宵闇色をしており、柔らかい髪は、小川の側に咲くルピナスの花に近い淡い青紫色をしていた。どちらも母親譲りの証だった。
魔物達は努めて加減をしていたが、時にソニアを跳ね飛ばしてしまったり、踏みつけたりしてしまうこともあった。そんな時はしまったと肝を冷やすのだが、ソニアは泣くこともあれば、ただ楽しそうに笑っていることもあり、怪我をしても、飛んでやって来た魔術師が魔法で治してやれば、すぐに機嫌は直ったのだった。その度に犯人はこっぴどく叱られ、すっかりしょげ返るのだが、ソニアは痛い目に合うことがあっても遊ぼうとするのを止めなかったし、そうすると彼等の方も一緒になって遊んでしまうので、また怪我をさせる羽目になった。
しかし、そのお陰でソニアはとても強く丈夫な子になったし、比べられる同族が側にいないので誰にも判らなかったが、遊びの中で戦い方を学んで、稀に見る格闘の才児になっていった。
ソニアは言葉よりも先に囀りを覚えた。森の小鳥達が合唱合戦をしているのを聴いて育った彼女は、ある時それを真似て空に歌った。それがとても綺麗だったので仲間達は大層誉め、嬉しくなったソニアはもっと色んな鳥の真似をした。仲間の雄叫びや鳴き声も真似した。皆に喜ばれることだけでなく、彼女自身がそうした音の遊びを好んでいた。喉が震え、空気が波立って澄んでいき、辺りを廻って反響して返ってきたものは肌をくすぐり、耳に心地よかった。
ものを真似るのが好きな仲間は他にもいたが、やがてソニアの方が達者になり、彼女は今までに誰もしたことがないような事をし始めた。自作のフレーズが生まれ、どんな鳥でも歌ったことのない歌を作り、その出来を楽しむようになったのである。自分達には決して出来ない技を披露する彼女のことを誰もが誇らしく思い、讃えて、思う存分彼女を甘やかした。
しかし、仲間それぞれがあまりに個性的で、それぞれにしか出来ない何かしらの特技を持っていたので、ソニアは過分に得意になることはなく、ただ、皆から愛されているのだと自覚した。
例えば、大蠍ダンカンの甲羅の頑丈さと、ハサミの振りによる一撃の破壊力はこの森随一だったし、赤毛猿のナキーマはどんな高さの細い枝にも簡単に飛び移れるので、この森で行けない所はなかった。巨大ゴリラのマンモは一番の力持ちで、頼めば森の空高くまでソニアを高い高いしてくれたし、空を飛べる大鴉のパッチには肩を掴んで飛んでもらい、何度も空中遊泳を楽しんだものだった。
その中でも皆が一目置き、ソニアが最も関心を示したのが、魔術師トゥーロンの魔術の数々だった。彼は、野に生きるとされている、これら魔物の中ではよく出来た方の魔術師だった。勿論、広い世界に出れば山ほど上級な魔術師はいるのだが、まだこの森の生活しか知らぬソニアにとっては、彼こそが尊敬する親か教師のような存在だった。たった一声で炎を呼び、冷気を呼び、傷を治し、病気を治し、迷い込んできた余所者は幻の霧で煙に巻いて追い返してしまうのだ。
だから、ソニアが囀りの次に覚えた初めての言葉は、魔法の呪文だった。
「ひぃーう」
マンモと遊んでいて怪我をしたソニアを、またかと駆けつけたトゥーロンが治療しようとした時に、彼女の方から先にそう言ったのである。
一瞬の間の後、皆は飛び上がって喜んだ。うぉうぉ、ガーガー、ギャーギャー、という叫びばかりだったが、皆の言いたかったことは一様に『こんな賢い子がいるだろうか!』という歓喜の内容だった。
言葉を話せる者が少ないし、いつも聞いているのはトゥーロンの小言で、その中でも魔法に関心を持っていて、一番よく聞く機会があったのがこの治療呪文【ヒール】だとすれば、彼女が最初にこれを口にしたのは当たり前のようでもあったが、皆はそんなことはお構い無しだった。それに、彼女の今後の成長ぶりから考えれば、決して的外れだったということはない。
まだ発音は不完全だったので実際に魔法が発動することはなかったが、トゥーロンはこれを機に、ソニアに魔法の呪文を教える授業を始めた。正しく言葉に出来なくとも、今の内から見て覚えていた方が良かろうと、自分に出来得る限りの魔法を彼女の前で実演して見せ、その発音を繰り返し聞かせた。
そうして彼女が世に出てから一年半と経たぬうちに、彼女はトゥーロンの持てる魔法の全てを正しく発音できるようになり、二年目になる頃には実際にその多くを発動できるようになっていた。
こうなると、ソニアとの遊びはますます過激なものとなっていった。覚えたての火炎魔法が面白くて彼女がそれを仲間にぶつける度にトゥーロンは治療をしなければならなかったし、同時に彼女も治療に参加した。いくら幼いとは言え、時に行き過ぎてしまった場合、仲間が苦しんでいるのだということは彼女も理解するようになり、魔法の加減というものを覚えていった。
同じ魔法をかけても大蠍のダンカンとゴリラのマンモでは効果が全く違っていたし、鳥であるパッチにも同じことが言えた。それで、自然と体の造りによっての得手不得手や、弱点があるのだということも学んでいった。
仲間が苦しむのを面白がるほどの暴れん坊ではなく、単におてんばなだけなので、彼女は皆と共に楽しめる範囲ではふざけ合ったが、それ以上の容赦のない行動はしなかった。だって、彼女にとって皆は友達だったのだ。
トゥーロンの教育を受け、仲間達の温もりに囲まれて、彼女は強く、賢く、優しい子に育っていった。