9 ねーちゃん取っちゃいけないって言われてたじゃん
「それよりも、あんたたちはさっさと家の中に入りな、冬なんだ、寒くて仕方がない」
疑問を疑問のままにしておけなかったあたしが、ルー・ウルフにさらに問いかけを発しようとした時、かーちゃんが事実を告げた。
確かに寒い。風邪をひいても、うちに看病できる人はいないのだから、早く家の中に入って温かくしなきゃいけない。
そして明日の支度をして、それから備蓄食料の事を数えて、やる事は色々ある。
「あんたも家の中に入っていれば、少しは風をしのげるのに、入らないなんて馬鹿じゃないのかい」
かーちゃんが彼に言う。彼は少しだけためらった後に、かーちゃんに言った。
「勝手に家の中に入っていいのだろうか」
すぱこん。
これはかーちゃんが元王子様を叩いた音だ。見事な音がしたけど、痛みはあまりない叩きかただ、あたしは実地でそれをよく知っている。
これは、相手に、叩かれるような事を言ったと自覚させるときの叩きかただ。
痛みを与えたかったら、もっと別の方法をとるのがうちのかーちゃんだ。
おっかない組織が実家のかーちゃんは、そう言った手段の数々を心得ているのだとかいないのだとか。
事実は知らない。見た事ないし、かーちゃんがそこまでして痛めつけたい相手なんて、会った事ないのだから。
「ばかだねえ」
かーちゃんはそう言って、あたしの方を見た。
「うちの居候は、変な所で遠慮する、そう思わないかい、ヴィ」
「確かに、ここで暮らしてるのに、誰もいないって事で家の中に入っちゃいけないと思うのは、変かな」
「……だが、ここの家主はあなたたちだろう。家主を差し置いては」
「時と場合に寄るだろう。私たちはしばらく帰ってこないと表の黒板に書いてある。事実帰ってこない、そして日が暮れていく。だったらあんたは、家の中に入っていたって、おかしい事じゃない。あんたが家を燃やすわけじゃないしね」
火はまだ起こせないだろう、それにうちの物を盗んでも行く当てなんかないんだから、と事実だけをいうかーちゃん。
その言葉にうなずいてしまった王子様が、苦笑いをした。
「常識は、暮らしの中で大きく違ってしまうんだな」
「当たり前だろう? それにあんたを寒いなか座り込ませていた、なんて話が広まったら商売あがったりだ。そんな非道な人間になった覚えはないよ」
「とにかく入ろうよ」
いつまでも立ち話をしていたら、本当に入れない。家の扉を開けたあたしは、二人を促して中に入った。
かまどの火は熾火になっていて、かすかに、弱々しく燃えている。かまどの壁を触ればほのかに温かいから、寝るとき寒いわけはないだろう。
そこのぼやりとした灯りの中で、王子様は土気色の唇をしていた。
そんなにも寒いのに、家の中に入らなかった事に呆れて、あたしはルー・ウルフの手を引っ張って、かまどの上の、あたしの寝台に引っ張り上げた。
「なんて冷たい体をしてるの。ここでしばらくあったまっていなよ。その状態を放っておいたらひどい風邪ひく」
「……朝も思ったんだが、ここは寝床なのだろうか。かまどの上が寝床になっているなんて」
「このあたりじゃ普通の寝台さ、私は脇の温かい木の台に寝床をこしらえているよ」
かまどの脇には木製の台があり、かーちゃんの寝床はそこである。とても暖かい。そして清潔だ。
このあたりの家の造りだと、そう言う風に作れちゃうのだ。便利なかまどである。
ただそれは、ルー・ウルフにとって未知の物だったらしい。
「住む世界が違う、と言った彼女の言葉は本当だったんだな」
かーちゃんが作っている、かまどの脇の寝床も見てから、彼は後悔したような声で言った。
何をそんなに後悔してるんだ。
そう言った疑問が顔に出たんだろう。あたしの顔を見てルー・ウルフが答える。
「元の婚約者が、彼女に言ったそうなんだ。あなたとわたくしたちは、住む世界が違っているの、気安く婚約者に近寄らないでちょうだい、と」
「事実だけだね、それを言う事の何に問題があるんだい?」
「あなたはそう思うのか」
「そりゃあ、金持ちの貴族の暮らす世界と、私らのかつかつの世界が同じだ、平等だなんて言う奴がいたら殴り殺すくらいだよ、そのお嬢さんは単なる事実だけを言ったまでだね。それに、よく考えなルー・ウルフ。誰だって婚約者に色目を使う相手がちょろちょろするのは好ましくない」
「……」
「だって婚約者ってのは、誰が何と言おうと自分の物だからね。お気に入りじゃないからって理由で、奪いに来る相手が楽しいわけがないじゃないか」
「かーちゃんごめん、例えが分からない」
「ヴィはそういうのは何も知らないからそうだろうね。でも基本的に、どういう条件で結んだとしたって婚約は契約だ。契約があって己が所有権を持っている相手が婚約者。未来の旦那なり嫁なりだね。それに近寄って、自分の物を奪おうと狙う相手が、面白いわけがない」
いらないから、手放せばいいってものじゃないんだ。貴族の婚約者はね、と知った声でかーちゃん言ってるけど……その考え方はまだわかる。子供だって同じだ。
お気に入りの玩具じゃないからよこせ、と言われて素直に頷く子供はいない。
ましてその相手が気に食わない相手だったらなおさらだ。
ねーちゃんはそのことごとくに当てはまるむすめだったに、違いない。
魔力だけが高くて、貧乏人の子供で、礼儀作法だって貴族が求める水準で持っていたかも怪しいねーちゃんだ。そんなねーちゃんが男子生徒をどんどん夢中にさせていて、おもしろい女の子がいるわけもない。普通。
「その相手が、自分より劣った物を持っているととくにそうだね。あの子がいくら貴族の身分を手に入れても、暮らしていた世界がそれまでは明らかに違っていたんだ。立ち振る舞いからなにから、貴族の女性が納得するものを持っていたとは思い難い」
さぞ気に食わない相手だっただろうよ、口で言っているだけなら良識的さ、としめくくったかーちゃんと対照的に、ルー・ウルフは暖かいかまどの上で蒼い顔になっていた。
「私は、何も、見ていなかったんだろうな」
やっと絞りだした言葉は苦しそうで、きっとそれは元婚約者に対しての非礼の数々に対するものだった。
良識的だっただろう婚約者に、己はなんてことをしたんだろう、と言う後悔だと思う。
「まあ、あんたはそれで結果的にうちに来る羽目になったんだし、罰はもう受けたんじゃないのかね」
かーちゃんはそれだけ言うと、薬の材料の処理を始めた。
あたしもそれを手伝うために、かまどから下りる。
「深く考えすぎちゃだめだよ」
「……私はどうして、それらの常識を上回るほど、彼女を好ましいと思っていたのだろう」
「惚れた腫れたの何かしらだろうね、痘痕も靨はよく言う言葉さ。次の相手はちゃんと理性を保っているんだよ」
かーちゃんがけらけら笑ってから、あたしに面倒な草の処理をかごごと押し付けた。
「練習しな、ヴィ。ルー・ウルフはさっさと寝る。そこ使っていいよ、ヴィ、いいだろう? あんたの顔に心配ですって書いてあるんだから」
ぐうの音もでないあたしだった。寝台の上にあげたの自分だし。それにルー・ウルフは寒くて疲れていたんだろう。そのまましぶしぶ横になって、ぱたっと寝入ってしまった。
あたしはその後、寝床の反対側に横になった。かまどの上の寝床は広い。前はねーちゃんとも一緒に寝ていたから、別にルー・ウルフと同じかまどの上で、問題を感じるところはなかった。温かい場所は皆で共有するのが、このあたりでは普通なのだから。
客間があるうちが、実は珍しい造りだと、今度時間があったらルー・ウルフにも教えてあげよう。そんな事を思って目を閉じると、穏やかな寝息が子守歌みたいに眠りを誘って来た。