表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
73/80

72 知らないからこその平和な時間

都で彼が何をしているのかと言えば、ひたすらに経理の計算ごとである。

計算ごとと侮ってはならない。これが銅貨一枚分でも計算が合わなければ、予算が下りず、そして最初から計算のやり直しなのだ。

彼等が何を計算しているのかと言えば、ここでは簡単で、王族のお小遣いの計算である。

いまだ領地を持たない王子や王女たち、そしてその后たちのための予算の計算、そして使った分の計算、とにかく延々と計算ごとしかないのが、この仕事場の仕事である。

寝る間も惜しんでの計算という事も多いため、高給取りだが、ここに配属される事を嫌がる法衣貴族は多い。

しかし、彼はそんな法衣貴族たちとは事情が違っていた。


「早く仕事を終わらせて、ヴィたちに合流したいな……でもお館様が、ここに残って仕事を知ろと言ったらどうしようか」


彼は王直々に任命された法衣貴族とは違い、雇われだったのだ。

雇われの計算係、それが彼の立場である。

何故かと言えば、彼の周りに散らばっている計算の用紙が、他の倒れるように眠っている貴族たちの何倍も多い事から明らかだ。

彼は数字に強いのだ。


「これも楽しいけれど……やっぱりお館様の所で働いて、ヴィやヴィザンチーヌさんの所に帰る生活の方が楽しいんだが……」


彼は手元の書類を引き寄せて、算盤も引き寄せて、じゃっ、と平らかにならしてから、また計算を始めた。

お前、食事をしないのか、顔を洗わないのか、といった事の世話を焼く人間は、今の時間帯にはいなかったらしい。

彼は数字と言う物が好きで、数字があれば延々と、寝食も忘れて計算ごとに没頭する悪い癖があったのだ。

彼は子供の頃からそうだったので、それが異常な事だとは思っていない。

ただ周りよりも計算ごとに関してだけは、ずっと秀でているらしい、というのが、彼が学園生活で学んだ事の一つだ。ほかにもたくさん学んだ事はあるが、その中でも特に衝撃的だったのが、自分と同じだけ数字に強い人間が、早々いないという事実だった。

そんな彼が、延々と計算を続け、書類の申請の数字との誤差を確認し、数時間後やっと、計算上の数字と、出費がそろった。いかにこう言った計算が面倒かわかると言う物だ。

あちこち凝り固まった体をほぐすべく、彼は大きく伸びをした。

そして書類を見直す。我ながら完璧な仕上がりだ。どこにも不正確な計算はない。

この、見事に何もかもが合致した状態こそ、気持ちのいい状態なのだ。

さて、自分のためにも、倒れている皆のためもに、何かを厨から拝借しよう。

彼はそれがいい思い付きのような気がしたため、身にまとっていた衣類を軽く払ってから、インクの染みやその他もろもろも汚れが目立たないか確認し、その部屋を後にした。

無論、計算が全て合致したという事が分かるように、机の一番目立つところに、その紙を置いての事だ。

彼に抜かりはないのだ。

彼が出て行ってから誰かが起き上がり、終わっている計算のやり直しをするとなったら、それは大変な労力の無駄なのだ。

皆きっと喜んでくれる、と思いながら、彼は城の通路を歩いていく。彼が通る通路は使用人のためのものではなく、れっきとした貴族用の通路だ。

彼は雇われだが、ここを通っていいと許可されているのである。

それこそ、彼がお館様を経由して、城に雇われた事を示していた。

彼が厨に向かうと、ちょうど都合のいい時間帯だったようだ。

厨では、貴族や王族の食事を用意するための忙しさはなく、しかし、長時間の煮込み料理などのために、ちろちろと炎が燃えている。

鍋からもいい香りが広がっている。

彼は入口から、声をかけた。


「すみません」


一時の休憩の間に、皆で集まって、札で遊んでいた料理人たちが、彼を見る。少し驚いてから、返事が返ってきた。


「どうしたんでしょうか」


「東の塔の方でしばらく、働いていたんですけれど……お腹が空いてしまって。簡単な食べ物を用意できませんか?」


「ああ東の……」


東の塔と聞き、料理人たちが苦笑いをする。彼等も知っているのだ。

東の塔で働く計算担当の貴族たちが、彼等を上回るほどの激務だという事を。

そして、彼等が計算しなければ、自分たちにも給料が回ってこないと知っているため、料理人たちもそこそこ親切なのだ。


「待ってくださいな、今何か用意しますから」


「今、皆疲れ果てているので、ワゴンで持って行きたいんですよ」


「!! それはいけません! あなたがワゴンで、使用人のように食べ物を運ぶなんて!」


料理人の一人が青ざめた顔になる。

その理由も道理なのだ。


「あなたは、たとえ下級の身に落ちたとしても、この国の王子の一人ではありませんか!」


そうなのだ。困った顔で笑ってしまった自分が、ヴィオラの……”歩く惚れ薬”の魅了の力で、馬鹿になり、市井に一度追い出された王子だというのは、変わらない事実なのだ。

そして、男女の一線を全く越えなかったという事実から、彼が王族の端から追い出される事なく、たとえ雇われの身の上になっていても、王子であることに変わりはないのである。

これが、未婚の状態で、その魅了の力を持っていた女性と一線を越えた仲であった場合、彼の王籍は剥奪されていたのだが……彼がうぶすぎたため、そうならなかったのだ。

その事実が後々に露見したため、性急に事を進めすぎた、と王が頭を抱えそうであるのも、噂として聞けるほどだ。

つまり彼は、王宮に出入りができる誰からも


「うぶで天然すぎるけれども、惚れ薬を使われていても、節度を保って男女のお付き合いをしていた実は誠実な王子」


という割合高評価な評価を受ける事になっていたのだ。

これには、彼の婚約者だった公爵家令嬢の方が、実は、留学していた異国の王子と、一線を超えそうなほどの仲だった、という事も比較される。

彼は惚れ薬の力があっても、礼節を重んじ、馬鹿になっていても誠実だった。

公爵家令嬢は、薬の力などなかったけれども、婚約者がありながら、他の男とそういう関係になった。

この事実はかなり大きいのだ。どちらがまともかと言われたら、王子の方がまともだと、言われてしまうだろう。

そして市井に追い出された後も、悪い評判にならない程度の常識があり、その能力の高さから、再び城に呼び戻された、と彼らが考えているのだ。

ここに、お館様が関わっている事を、お館様は匂わせる事もしないのである。

お館様は、実に都合よく、彼を城に戻したわけだ。

王も王で、彼の能力はそこそこ分かっていたため、彼が下級の雇われになる事を認め、彼にその地位の上着を与えたわけである。

何しろ、他の惚れ薬を使われていた男たちは、皆、一線を越えてばかりで、さらには別の惚れ薬じみた香りに惑わされた男たちは、この王子よりも節度なく、使用人に言い寄っていたのだ。

ここから見ても、彼がそう言った物を使われていても、立派な人間性を持っていた、理性を保とうとしていた、と周囲が見るわけである。

彼が高評価になるわけだ。


「私が持ってきますよ」


手を挙げたのは、札に興じていた使用人の一人だ。とても楽しそうに札遊びをしていたが、この王子にワゴンを運ばせるわけにはいかない、と思ったようだ。


「いいのか? ありがとう」


嬉しそうに笑った彼は、さっそく、料理人たちが素早く用意した、黒パンに具の少な目なスープの鍋をワゴンに乗せる。

具が少ないのは仕方がない。有り合わせのスープなんてそんなものだ。

特に、食事の時間以外に食べ物をねだった場合は。


「待ってくれ、これも追加だ」


「チーズまで。何から何までありがとう」


だが、奮発したのか、料理人が持ってきたのは、パンに乗せる白いチーズで、これが実においしいものだと、城に戻ってきて知った彼は、一段と嬉しそうな顔になった。


「戻しに行くのは、あの部屋にも鐘があったでしょう。あれを使ってください。取りに行きます」


「うん、分かった」


彼が素直に頷くと、使用人の一人が、彼の後ろでワゴンを動かしながらついていき、車輪のある物を使っているために、少し行きよりも遠回りしつつ、彼は東の塔に戻ってきた。


「食べ物の匂いがする!」


彼が扉を叩こうとした瞬間に、内側から扉が開き、彼は思いっきり顔面を強打した。


「っ……!!」


「あれ、誰か気の利いた料理人が来てくれたわけじゃないのか……って王子様!! あんたどこに行ってたんですか! というか大丈夫でしょうか!?」


扉を開けた男が、顔を押さえてうずくまった王子を見て悲鳴を上げる。

彼は大丈夫だ、と手を振ってそれを制止し、ワゴンを示した。


「皆昨日の昼から、食事をとれていなかったと思って……簡単な物を用意してもらったんだ。書類を汚さない場所で、食事にしよう。皆起きているだろうか」


「王子様が計算を最後まで終わらせてくれたから、やっと家に帰れる、顔も洗える、と喜んでいたところです。まして軽い食事まで持ってきていただけるなんて! 感激です!!」


彼の声が聞こえたのだろう。扉の奥から歓声が聞こえてきた。

そりゃそうだ、と王子とて思う。昨日の昼から食事もできないほど、書類の締め切りが迫っていたのだ。

そこでやっとすべてが終わり、起きたら食事ができるなんて最高でしかない。


「ささ、王子様も中へ。君もありがとう」


男が使用人にお礼を述べ、使用人はにこにこと笑っている。


「いえ、王子様のお役に立てるのですから。食べ終わりましたら、鐘を鳴らしていただければ、回収しに来ますので」


「わかった、それでは!」


ワゴンを運んだ使用人が一礼し、去っていく。使用人も休憩時間だったのだ。戻りたくて当たり前である。

他に仕事がある事だって多いのだから。

そして、スープとパンとチーズに、計算をしていた貴族たちが群がった。

そのあたりは、腹をすかせた庶民とほとんど変わらない。

奪い合うようにパンを各々好きな厚さに切っていき。チーズをのせて、噛り付く。

そしてスープの器は数が足りなかったため、使いまわしだ。

彼もそれに参加しながら、ヴィやヴィザンチーヌさんと言った、彼にとてもやさしくしてくれた人たちが今、どうしているのかと思った。


「あの地区の皆を別の、もっと暖かい所に開墾しに向かわせたと言っていたけれども……夏だから大丈夫だろうが……」


皆元気だろうか。早く仕事を終わらせて、彼等の元に戻りたい。

それが、一度城から追い出された王子様の、真剣な願いだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ