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57 触れれば命の危険がある事

旅は、あたしが考えていた以上に大変な物だ。

かーちゃんが薬草を探し求めて旅をして、それがどんなに危険や死ぬことと隣り合わせだったのか、今身に染みている。


「とにかく走れ!!」


「どこまで!!」


「走り続けろ、馬鹿野郎、熊に目をつけられたら大概死ぬんだよ!」


「足の限界まで走っているっての!」


焚火の灯りと食べ物の匂いに誘われたらしき熊に、荷物を狙われて、あたしたちは全力で走って逃げている。


「くっそ商売道具が入っているせいだ、荷物を放りだせない!」


「拾いなおすのは!?」


「熊の執着なめてんじゃないぞ! 熊がいっぺん自分のものだって思ったものを、横取りしてなんかみろ! おれらはあっという間に叩き殺されてる!」


「あなたの商売道具って何!? あたし着たきり雀だから、荷物なんてないけど!」


「水盆、燭台、チャイグラス!」


「何でそれで追っかけられているわけ!?」


「一緒に食い物が入ってるからだ!」


「じゃあ食べ物だけ、後ろに投げれば気をそらせるんじゃないの!?」


「次の町まで足りるかもわからない量の食い物、奪われろっていうのか!?」


「あたし食べられる野草とか水とか結構詳しいから! ほら、水辺だったら何か食べ物手に入るし! いざとなれば水草だっていける!!」


「あんたかなり貧乏だったんだな!? おれでも水草に挑戦した事はないな!」


あたしたちは全力で走っている。走って背後から迫りくる死の恐怖から目をそらすために、怒鳴りあっている。


「あたしを信じて!!」


あたしは熊に食い殺されるのも叩き殺されるのも、絶対にいやだから怒鳴った。

彼は本当にちらっと、余裕がない汗だくの顔であたしの顔を見た後に、荷物の中のわずかな干し肉とパンを、背後に放り投げた。

それが熊の顔に命中して、熊が一瞬動きを止める。


「あなたあんな勢いで投げたら熊が、怒る!」


「ひるませた方が勝ちだ、もともと熊は人間が苦手なものなんだよ!」


「じゃあ何で追いかけて来るの!」


「誰かの荷物を喰って味を占めたんだろ!」


言いながらも走る。薮を蹴散らして走る。ちらりと見た背後の熊は、やっと起き上がる。そして自分にぶつかった物の匂いを嗅いだ。

そして食べ物だと気付いたらしい。立ち止まって咀嚼し始めたのだろう。

あたしたちは、とにかく、熊の縄張りの外まで、必死に走りぬいた。


「……熊の爪痕がなくなった……このあたりは熊の出現場所じゃない……」


彼が息を整えながら言う。

いったいどれほど走り続けただろうか。人間が走る限界まで走ったような気がする。息が荒くてとても肺が苦しい。

あたしはしゃがみ込みながら返す。

近くに落ちていた糞は、狼のもので、それが示すのは……絶望的だ。


「かわりに狼の縄張りにぶち当たったと思う……」


だめ押しのように、狼の縄張りと主張するように、遠吠えが聞こえて来る。

あたしたちは沈黙した。それから大きく息を吐きだした彼が、座り込む。


「狼なら……激臭で、何とか遠ざけられる……」


「熊は出来ないの……」


「やった事ないから知らん……」


もう夕方で、本当ならば焚火を起こしていてもおかしくないけれども、そんな余裕も体力も、あたしたちには残されていない。


「あー、これいける」


あたしはぶちぶちとその辺に生えていた、まだ食べられる草を千切って口の中に入れた。

苦い。まずい。でも食べても死なないから大丈夫。下痢も起こさない。毒の反応は起きない。


「この草食べられたんだな……」


彼が、あたしが黙って突き出す草を噛みしめながら言う。


「毒じゃないのは確か。何年もお世話になっている草だし」


「信じがたいほど苦いな」


「でも死なないから」


死ぬ草と死なない草。それは頭に叩き込んできた。

そうしなきゃ生きていけなかったから。

誰かに毒の草で作った薬を売るなんて、考えたくなかったし。

間違えた傍から、かーちゃんにどやされたものだ。


「えぐいな。あと噛み切れない」


延々と反芻するようにくちゃくちゃしながら、彼が何とも言えない声で言った。


「意地で飲み込め」


あたしは言い切った。腹の中に入れれば勝ちだ。死なない草だったら、消化できてしまえばこっちの勝ちである。


「飲み込める繊維じゃないだろうこれは……」


「でもお腹が空いたなら飲み込むの。……豆の一粒も、それこそ蕎麦の実の欠片も残らないような厳しい冬が終わった後、まだ草が生えている時期まで生き残れたら、これを食べるの」


「……」


「飲み込んで、お腹に溜まるものがあるってすごく幸せな事だって、よく思う。……まあ、あたしはほかの家の人よりも、ちゃんとご飯を食べさせてもらっていたっていうのは事実だけど、かーちゃんの細腕だけで、育ち盛りの子供二人もお腹いっぱいにできないのは、しょうがない事だったし。ねーちゃんは人のご飯を奪っていくし。でも食卓なんて弱肉強食の世界じゃない? ……生きるってそんなものだよ」


あたしの言葉で、呆気にとられた顔をしていた彼が、唸るように言った。


「あんたはそれでも、その生活が辛いとは思わないのか」


「一番貧乏な区域で育った人間の運命だし、別に。周りを見回したら、自分と同じかそれ以下の人たちが、どんどん死んでいく世界だし、生き残った者が勝つって思ってた」


「魔女の薬はそんなにも売れなかったのか」


「売れたよ、でも、魔女の薬の売り上げよりも、子供二人と大人の女一人の食費とか、そう言った物の方が高かっただけ」


家の手伝いができるようになるまでは、ねーちゃんと一緒に誰かに預けられていた時期もある。

預け先に支払う物だってあったから、結局貧乏から脱出なんて出来っこない過去だった。

彼が草を飲み込んで、いう。


「もうどっちも走れないだろう。ここのあたりで休むしかない」


「狼の縄張りでも?」


「……」


彼はしばしあたしを見た後に、なんとも言えない声で言った。


「あんた、墓場まで秘密を抱えられるか? 抱えられるなら、絶対に狼が寄ってこない事が出来る」


「あなたに宿る春嵐の力だったら、もう秘密でも何でもないわよ」


あたしがその一言を言った瞬間に、空気がびしりと音を立てて崩れた気がした。


「……あんた、何を知っている? いいや、何で知っているのに怖がらない?」


じり、と距離を詰められたと思った瞬間に、あたしは彼の大きな手によって地面に叩きつけられていた。

逃げる隙も避けるための余裕も何もない。

あたしは戦闘能力なんて持っていないんだ。

だが、相手は一撃であたしくらいだったら押さえ込めてしまうだけのものを持っていた。

あたしを地面に叩きつけた、その威力が半端なものではなかったから、肺が衝撃を受けて、中の空気が一気に吐き出される。

抵抗しようとしたあたしの腕は、地面をたたいて動けなくなる。息が苦しすぎて、指が一本も動かせない。


「げほっ!」


「いつ知った? 誰に聞いた? 誰から漏らされた?」


片手であたしを叩きつけて、全身の力で押さえ込みにかかる彼は、あたしの喉を押さえつけている。それのせいで息が苦しい。

ひゅうひゅうと音がするけれど、あたしの気道が細くなっているせいだ。

頭の中がかすみ始めるほど、首を絞められているのか。

首を絞められるのは、初めてだ。

ねーちゃんのとばっちりで暴力を受けた事はあったけれど、こんなに締められる事が苦しいとは思わなかった。

鴨とかを絞める時、今度はもっと迅速に首の骨を折ろう、とあたしは内心誓った。

それができるほど、生きられれば。


「誰から聞いていたか知らないが、あんたがそりゃあ見事な馬鹿だというのはわかったな。知っていて本人に漏らすんだから」


「ころさ、ないで……」


文句を言う前に命乞いだ。このまま絞殺されたら、一体誰があたしの記憶の正誤を見つけてくれるのか。

ルー・ウルフや、かーちゃんと再会するのか。

そのためなら、命乞い位、惜しいものなんかじゃない。みっともない事だろうが構わなかった。


「ここで捻った方が後々あと腐れないんだがな」


彼の冷酷なつぶやきを聞いて、あたしは察してしまった。

この人が、春嵐の獅子を持っているということで、とても想像できない苦労を重ねて来ているということを。

そうでなければ、さっきまで優しく扱っていた相手に手のひらを返したりできない。

息が苦しくて、あたしの眼から涙がこぼれる。死ぬかもしれないと初めて思った。

ぼろり、とこぼれた涙を見て、彼がしばし黙った。


「……ものって、言わないんだな」


彼が手を離す。本当に不意に手を離されたから。あたしは目を丸くして、あたしの上から退く彼を見つめるしかない。


「……悪かったな」


いきなり何で、と思った。彼の心境の変化が分からなかったのだ。

敵だと認識されたのはわかった。その後が分からなかった。

何を見て、敵ではないと判断したのだろうか。


「おれのことを本当に知っていたら、絶対に出てくる単語が有るんだよ。あんたはそれを一言も口に出さないな、そう言えば。……あんたは何か知ってるけれど、本当のものは知らないんだ」


「……あなたの目が、奇跡使いの目だっていうのはわかる」


変な時に言うよりはましだ。あたしはここで彼に言った。……再び締められる可能性はないような気がしていた。

絞め殺される未来は、たぶん、ない。


「眼で?」


彼が自分の瞼に触りながら、怪訝な声で繰り返した。


「あなたの眼の中心から、春の日向みたいな光が出て来てるのが見える。かーちゃんが、その目の相手は奇跡使いだって言った」


アスランに会った時、かーちゃんもその目で判断したはずだ。


「おれの眼は、溝みたいに濁った眼のはずなんだがな」


「あたしには、晴れた空みたいな目に見える」


ルー・ウルフの瞳は闇夜でも燃え上がる炎のようだった。実際、彼は特別な血をひいていた。

その彼と同じように、この人の瞳は普通とは違う瞳だ。

あたしには、違う瞳に見える。

そう、特別な瞳に。そういうと、彼はしばらく黙った後、こぼすように言った。


「あんた、それをよそでは絶対に言うなよ」


「わかってるよ」


余計なことを言うと、あっという間に締め落されるっていうのは、ここで命がけで学習したしね、とは言わなかった。


「……そのくせ、そんな目を見ても怖くないとか、本当に奇妙な奴だな、あんたは」


「それを言うなら、どこに向かってか知らないけれど、春嵐、とか呼びかけるのはやめた方がいいんじゃないかな」


「……呼びかけていたか」


「呼びかけてた。だからそれもあって推測した」


「……そうかよ。でもあんたは、春嵐の獅子のことを何一つ知らないんだな」


「誰も教えないからね」


あたしの答えに、彼が、苦い顔で笑った。


「そのうち知るさ、否応なしに」


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