50 春嵐、お供え物は、春の山に
春祭りの前の、山へのお供え物は、色々あるけれども、一番いいのは冬に蓄えていたチーズとかそう言った物なのだ。
極楽と言う物は、お乳と蜂蜜が川のように流れている世界、というくらい、お乳はいい物なである。
実際にチーズとか、うちじゃ食べられない位の高級品だ。
たまに近所の誰かが、親戚のそのまた親戚とかに送られてきた物を、皆で持ち寄って集まる時に食べられるくらいである。
そんなに頻度は高くない。
でもチーズってとてもうらやましい食べ物だ。だってお乳から作られていて、屋根裏に置いておけば日持ちして、熟成と言う物を繰り返すほどおいしくなるっていうんだから。
哀しい事にうちにそれを買う余裕はないし、誰かからちょっぴりもらう位しか手に入らない。
だが、山へのお供え物となったら話が別になる。
山という、いつもお世話になっている場所にささげるものなんだから、絶対に手に入れなくちゃいけない物なのだ。
そのため、あたしは、この時のために爪の先に火をともすように蓄えていた小銭と、足りない時のための手荒れの薬を、握りしめてチーズを交換してくれる店まで行く。
「おお、そっちの区域の人たちが、チーズの欠片とか削りくずとかを買いに来ているから、春が近いなと思っていたんだ。今年も同じやつかい」
お店の人がにこにこと笑いながら言ってくれる。
まあ、このあたりで一番近いチーズ売りはこのお店一件だけだから、うちの近所の皆さんとも顔見知りだ。
顔見知りだからこそ、お供え物に対する理解が深い。深いから、ちょっとだけしか買わないうちとかにも、優しい対応をしてくれる。
「今年も同じやつ、この小銭で買える分だけ」
「今年はちょっぴり額が大きいな、たしか稼ぐようになった旦那が出来たんだっけか?」
「違う。ねーちゃんに迷惑かけられて、うちに居候する事になった人が出来て、その人の分もお金がちょっとだけ増えたの」
「ああ! あの界隈で計算がとても速いと評判の美人さんか? 雪の日にとびきり輝く純金の頭と、白と黒と灰色の世界でも、熱波が吹きあがるような赤色の瞳の」
「知っているの? ルー・ウルフ」
「この前計算がどうしても合わなくて、困っていたところ、声をかけてきたんだ。隅っこの数字が一つだけ間違っていたらしくってな、おかげで役所に文句を言われる前に直せた! そうかそうか、このあたりでは生まれていない顔だから、どこかから流れてきたか逃げてきたかと思ったら、お前の姉さんの関係者だったか! 今度来るときは一緒に来てくれよ、お礼を渡しそびれたんだ」
「あ、うん、言っておく」
チーズ売りさんが、ひょいと小さな袋に詰められた、チーズを切り分ける時に出て来る細かいのを渡してくれる。
本当だ、いつもよりちょっと多い。
ルー・ウルフの分だろう。
「お役所ときたら数字が一つあわないだけで、色々な事を制限してくるからな! お上の考えはわからないが、一昨年ばーちゃんが一つだけ入れ忘れた金額で、数字が合わなくて計算のうまい奴をかき集めなきゃならなかった年もあったっけな」
だからあんなことを無償でやってくれるやつはいい奴だ! とチーズ売りさんはご機嫌で、店を出て行くあたしを見送ってくれた。
あたしは袋の中のチーズの欠片をじっと見る。
美味しそうだ、つまみ食いしたい。
だがお供え物のつまみ食いなんて、絶対にだめだ。
ルー・ウルフの分も入っているんだから!
あたしはぐっと誘惑を乗り切り、袋をしっかりと掴んで、家を目指す。
道中色々な出店があるけれど、ない袖は振れないから誘惑にもならない。
家の前までつくと、ごとごととアスランが近所のおじいちゃんやおばあちゃんの乗った荷車をひいていた。
「……何してんの」
「チーズを買うお金がないという事実を言ったら、じゃあ皆を乗せて、山の祭壇まで行ってくれるんだったら、その分出してやるって魔女どのに言われてしまったんだ。ちょいとばかり思いが、それ位でこのあたりに馴染めるならお安い事だ」
「うちの若いのは、二人も乗せるとひいひい言うんだ、あんた力持ちだねえ」
「四人乗ってもふらふらしないなんて、牛みたいな力の強さだよ」
おじいちゃんたちは、たしか寒いと関節が痛くて、山まで行けないのだ。
でも、このお供えは、一家そろってじゃないとだめだから、毎年荷車で連れていくんだけれど……そっか、皆アスランの手を借りる事にしたのか。
この辺でこれ位力の強い、生きのいい男っていないから、こうなるって予想出来る事だったかもしれない。
「ああ、ありがたい、うちの子供はまだ小さいから、子供を背負って荷車はとてもとても」
四人の子持ちのおじさんとおばさんがうれしそうだ。
あっちの六人兄弟は、一生懸命にお父さんとお母さんのいうことを聞いている。
そっちの赤ちゃんと一緒の家族も、いつも通りだし、このへんで、アスランに頼みごとが出来る人は皆お願いしたんだな……
春嵐の獅子って、こんな強力をくれる力なんだろうか。
ルー・ウルフは、教えるって言って教えてくれていないから、あたしはそれの正体がわからないのだ。
「さて、皆灯りは持ったかい。このあたりも出発だよ」
かーちゃんが、いつの間に帰ってきたのか、ルー・ウルフにも灯りを持たせて言う。
「いつの間に帰ってきたの」
「これをやるから絶対に来いと、ヴィザンチーヌさんが屋敷に来たんだ。頭領はそれならば今日だけ戻って構わない、と言ってくれたから」
灯りに炎をともしているルー・ウルフは、なんとなくうれしそうだ。
「うれしそうな顔してる」
「家族みんなでやる行事だと聞いている。私も家族なんだと思ったらとてもうれしくて」
「……」
王族って、家族で何かするって事はなかったんだろうか。
確かにお城はとても広くて、皆で身を寄せ合って温めあう、この辺とは違う生き方をしているんだろうなとは思ったし、叔父さんの屋敷だって相当な広さだったから、あり得るよなって思うけれど。
ルー・ウルフの人生って、実はとても寂しい人生だったんじゃないか、と不意に思ってしまった。
「まだ足元が危ないから、しっかり足元に気を付けて歩いてよ?」
そのいたたまれない気分を誤魔化すために、あたしはこのあたりの皆が言うことを、彼にも言った。
ルー・ウルフは、気付かなかったのか、それとも気付かないふりをしてくれたのか。
目を細めてうれしそうに微笑んで、頷いた。
「この前みたいに、滑ってヴィまで泥だらけにしないようにする」
うちの近所は、町で一番山に近い場所だから、山に作っている祭壇まで近い。
どれくらい近いかと言えば、薬草を取りに入るあたりの方が、山奥だといえばわかるだろうか。
つまりあたしとか、かーちゃんにとってみれば、足元に注意していれば、怪我しない場所なのだ。
かーちゃんが突如、あの木に登れとか、あの崖を降りるのを手伝えとか言わないし。
それに、毎年先頭を行く男の人たちが、なたとかを持って、一年分の枯れ草とかを払って進んでくれるから、大変な道のりでもない。
何人ものおじいちゃんおばあちゃんを乗せた、荷車を動かしているアスランが一番大変だ。
「世話をかけるねえ」
「じいちゃんばあちゃんたちが、悪いわけじゃないだろ」
「うちの倅は、最近孫が出来たばっかりで、嫁さんもなかなか回復しなかったものだから、孫と嫁さんにつきっきりじゃないとだめなんだよ」
「お産ってのは後産も辛いっていうだろ、それで死ぬ奴も多いって聞く。あんたの倅の嫁さんは頑張って生き延びたんだからえらいだろ」
そんな会話が聞こえて来る。アスランは、たくさんの命を見てきたのだろう。
隠れ住んでいた場所では、きっと薬師さえ足りない地域だったんだろう。
男の人で、後産の事まで考えられる人って、あんまりいないのだから。
大体、子供を産めば終わりって思う人が多いが、大変なのは後産も同じなのだ。
人によっては同じくらい、痛いっていうし……
かーちゃんはそう言った妊婦さんのために、お金をとらないで産婆さんの代わりもする。
本職の産婆さんが間に合わない時、引っ張って行かれるのは、そう言う物になれていて、薬にも強いかーちゃんか、あたしなのだ。
あたしも割と、産婆さんみたいな事するよな……よく考えれば。
「アスランは会話も楽しそうだな」
ルー・ウルフが足元を見ながら言う。慣れない山道だから、滑って転んで、他の人を巻き込まないようにするのが、精一杯なんだろう。
「結構あの人、お喋りだから」
「陽気ではあるな。私はあまり、会話が得意とは言えない部分があるから」
「そばにいて不愉快じゃなかったらいいんだよ、家族なんてさ」