神聖母の死
しばらくして、最後の世代のすべてが羽化を成し遂げた。
ひとりも欠けることなく、六人の兄妹たちは羽化した。
兄妹たちの羽化を、羽人たちは祝福した。
もちろん、テトもだ。
しかし、テトの心中を、神聖母の死の時期が来たという思いも少なからず占めていた。
そして、ついにその時が来た。
若い兄妹たちの初飛行を待たず、帝国に住まう羽人たち全員が、母である神聖母に呼ばれた。
産卵を止めて以来、神聖母が子たちと会うことはほとんどなくなっていた。
数年ぶりに神聖母の姿を拝む者も多いだろう。羽化したての若い羽人にとっては、卵から産まれた時以来のはずだ。
神聖母の間からは寝台が消えていた。代わりに、玉座が備え付けられている。その玉座に、最後の力を振り絞り、神聖母ヤムリルが鎮座している。
すべての羽人の子たちは、神聖母ヤムリルの前に膝まづいた。
その中心に、テトがいる。
もはや、神聖母ヤムリルから発せられていた甘美な香りは皆無だ。代わりに死の縁にたたずむ者が放つ、すえた臭いが鼻孔を突いた。
「愛する我が子たちよ」
神聖母が声を発した。その声はか細いながら、よく耳に届いた。
「今日、この日までよく帝国を支えてくれました。どんなに感謝の言葉を紡いでも、この気持ちを伝えきれることはないでしょう。ありがとう。今日、私は死にます」
神聖母ヤムリルが死ぬ。その言葉に、羽人たちに動揺が走る。事前にこのときを知っていたテトでさえ、心がぐちゃぐちゃにかき乱される思いだ。
「この日のために、私は生き永らえてきたのです。そして、この日のために帝国はあったのです。使命を果たし、死ぬことができる。この日を迎えられたことが私の誇りです」
自らの死を断言する神聖母に、多くの羽人が涙を流した。
「愛する我が子たちよ。悲しむことはありません。帝国は次の段階に進む時が来たのです。多くの羽人たちはこの帝国を去ることになり、この帝国は終わりを告げることになるでしょう。しかし、我々が紡いできた命を、血を次に繋げるために必要なことです。あなたたちに新たな使命を伝えること、それが私の最期の役目です。心して聞いてください」
テトには心の準備ができていた。
しかし、他の兄妹たちは違う。明らかに狼狽する兄妹たちの気配伝えに分かる。
「息子たちよっ! 顔を上げなさいっ!」
私の最期の言葉を聞け、と神聖母ヤムリルの声を上げる。
オスの羽人たちは、一様に顔を上げ、神妙に神聖母ヤムリルに向き直った。
「空を翔けられる者はすべて、いますぐにでも帝国を旅立ちなさい。世界樹の森を旅し、他国の羽人の城を見つけるのです。この広大な世界樹の森で他国を見つけるのは困難を極めるでしょう。道半ばで力尽きることもあるでしょう。それでも、あなたたちは旅立たなければなりません。そこには、新たな神聖母がいます。あなたたちは、その神聖母と交尾をし、我々神聖ヤムリル帝国の誇り高い血脈を残すのです」
交尾という言葉を初めて聞く者がほとんどだろう。意味が分からず、困惑する羽人たち。テトが交尾という言葉を知っているのは、たまたま出会った妖精ルキアと、他国の禁忌の子シズクから教わったからだ。
神聖母ヤムリルは羽人たちの困惑を察知した。
「交尾とはオスの羽人とメスの羽人が、子を成すために行う行為です。安心しなさい。あなたたちの本能が、その仕方を教えてくれるでしょう」
「お、俺たちが子を成せるのですか……?」
不敬にも拘わらず、テロが神聖母に問うた。
神聖母は怒りもせず、テロの問いに答える。
「実際に卵を産むのはメスですが、そのためにはオスが必要なのです。オスは交尾を通して、メスに精子という命の片割れを預けます。その命の片割れとメスの中にある命の片割れが合わさり、子が生まれる。その昔、私もオスと交尾をしました。その時受け取った命の片割れが、あなたたちを作り、この誇り高い帝国が築いたのです」
「……申し訳ありませんが、まだ理解が及んでおりません……。しかし、重要な使命であることは感じ入りました……」
「あなたは正直ですね、可愛いテロ。あなたが感じた通り、重要な使命です。こう言われても納得がいかないかもしれませんが、千の言葉を尽くしても理解しきることはないでしょう。しかし、あなたたちの本能は、それが必要であることを知っています。あなたの誇り高い血が、すべてを教えてくれるはずです」
「……承知いたしました。神聖母」
テロが深々と頭を下げた。
「そして、娘たちよっ! 落ち着いて聞きなさいっ!」
神聖母は、娘たちに目を向けた。
メスの羽人たちは、オスの羽人の話を聞いて、すでに困惑していた。それでも、神聖母の言葉を聞き逃さぬよう真摯な瞳を神聖母に向ける。
「私が死ぬと、私の魂は分かれ、あなたたちに宿るでしょう。あなたたちの中から新たな神聖母となる者が出てきます。おそらく五十人程度の娘が神聖母となるでしょう。そうすると、あなたたちの肚の中に精子嚢という器官が発達し、百年の寿命を得ます。
新たな神聖母の役目は、他国の勇敢な戦士の精子を受け入れ、子を産み、新たな帝国を作ることにあります。オスたちより過酷な運命となるでしょう。その身に自身の命の片割れとオスの命の片割れを抱え、帝国を作る新たな場所を見つける旅に出なければなりません。つなげる血脈のため、腹に宿る子たちの命のため、死ぬわけにはいきません。過酷な、過酷な運命です」
自分たちの中から、新たな神聖母が生まれる。メスたちはオスたちより衝撃を受けているだろう。
しかし、本能的に受け入れられるのか。メスの羽人たちからは困惑からの問いは起きなかった。
「すべての娘が、神聖母となるわけではありません。神聖母にならない娘もいるでしょう。そんな娘たちに、お願いしたい。神聖母となる姉妹を支えてください。神聖母として体が成熟するまで、食事を与え、身を守ってあげてください。そして、来るべき巣立ちのとき、若き神聖母たちに群がる他国のオスを試すのです。神聖ヤムリル帝国の血と交わる血に弱者の血は必要ありません。神聖母に群がるオスたちを殺すつもりで攻撃しなさい。誇り高き神聖ヤムリル帝国の戦士に勝るオスだけを受け入れるのです」
しいんと羽人たちが静まり返る。
しかし、その胸の内には、熱い使命感が燃え始めていた。
ほとんどの兄妹たちは、命を落とすことになるだろう。新たな帝国を作る使命を帯びた新たな神聖母であっても、少なからず命を落とすのではないだろうか。
この試練を乗り越えたからこそ、この神聖ヤムリル帝国は生まれたのだ。なんと尊いことであろうか。
「思えば私は本当に長くの時間を生きてきました。……私は多くの命に恵まれました。私を育ててくれた兄弟たち、一緒に新たな血脈を作ってくれたあなたたちの偉大なる父ヤム、一緒に帝国を栄えさせてくれた可愛い子どもたち。多くの命が私より先に散っていきました。そして、ついに私の命も尽きます。残ったあなたたちにすべてを託して」
神聖母は宙を見上げた。ヒカリゴケを植え、柔らかな灯りが灯る天井。
「外の世界を見たのは、八十年も前のことになります。もうおぼろげにしか覚えていません。でも、悔いはありません。ほんとうに、私は恵まれた一生を過ごしました」
偉大なる母は、最期の際に笑みを浮かべた。悠久の時を過ごし、傷のように深く険しい皺を讃えた顔。神聖母ヤムリルは、ゆっくりと目を閉じると、静かに息を引き取った。
子たちは静かに涙を流した。




