承
放課後になると義務的に二年A組の教室を訪れる。大半の生徒はすでに部活動へ向かっており、いくらかの帰宅部が談笑をしている中、日向葵と近衛智也の姿もあった。彼らは窓際の一番後方の机を前後で挟む形に座り、窓枠を背凭れに、こちら、つまり扉のほうを向く格好だった。案の定すぐに存在を視認され、近衛智也が軽く手を挙げる。それに会釈で応えながらおずおずと教室の中に入っていく。
みっちゃんは今も隣に居た。幽霊というと足が無くふわふわと浮かんでいるものを想像するかもしれないが、実際はそうではない。きちんと地に足をつけて歩いて進む。半透明でもないし、真っ黒の長い髪に白いワンピースなどという容姿でもない。基本的には生きている人間と何ら変わりなどないのだが、もっと大前提として彼らは死んでいるという話でしかない。
ざわざわと騒々しい生徒たちを横切り、日向葵たちの机の前に近付く。
「お前もケナゲだよなあ」
ニヤニヤと笑みを浮かべて馬鹿が手前の椅子を顎をしゃくって示した。大人しくそれに落ち着き、図らずも溜息を漏らしてしまう。
「何、つかれたような顔ね」
「そりゃ、疲れましたよ」
仰々しく肩に手を触れてみると、彼女は首を振り、
「そうじゃなくて、みっちゃんに。憑かれているんじゃないの」
身体が硬くなるのを感じる。
「まさか」この声音は自然だろうか。「僕は見えるだけですよ」
「そう」
当のみっちゃんは僕の手に重ねるように肩を叩き、口を耳に近付けて、
「彼女を試してみて。私を覚えているか」
それまでと変わらない、気安い口調でそう言う。
我ながら、目が泳ぐのがわかる。憑かれていたし、疲れていた。
「あの」
足を組み、載せた右足でリズムを取るようにぶらぶらと遊んでいた日向葵はこちらを一瞥すると、
「何?」
「例えばなんですけど、質問とかしてもいいですか」
「いいけど」君は、と続ける。「そんなに私が怖いの?」
「実は少し」笑ってみたが、その右足で向こう脛を蹴られた。「というのはまあ置いておいて。時に日向さんは、幽霊って居ると思いますか?」
問うと、みっちゃんがブーイングを漏らしている。しかし何事にも順序は必要である。女性二人に板ばさみになるならば、もっと良い方向であってほしかった。
「野々村くん。そんな議論は無駄なのよ」
「無駄?」彼女は足を止める。「どうしてですか?」
「幽霊という概念を認識してしまっている以上、居るとか居ないとか、そういう判断を私たちは正常に行うことができないの。だから居るのか居ないのかと論じることが無意味なのよ。ただの揚げ足取り大会にしかならないわ。私がこの目で某かを見て脳がそれを幽霊であると錯覚すれば居る。そうでなければ居ない、それだけよ」
「あー」呻きながら思考を回転させ、「要するにひとまず今のところ見たことは無い、ということですか」
「そうね」珍しく、僕の言葉に対し微笑を浮かべた。「その解答はまずまず、悪くないわ」
「それはどうも」
僕たちのやり取りに対し、
「え、どういうこと?」
乗り遅れた近衛智也が口を挟んだ。
日向葵はそちらを向き、物分りの悪い子どもにどう説明すれば理解させられるかを考えているように少しの間を取ってから、
「例えば、智也の目の前に箱があるとする」
「どのくらいの?」
「どのくらいでもいいよ。そうね、じゃあティッシュ箱サイズにしよう」これくらいね、と言いながら手で四角を縁取る。「智也はこの中にドレップロリュウが居ると思う?」
「え?」唐突に聞かれ、困惑したような顔をする。「いや、なんだかわかんないけど、居ないんじゃないかな。わかんないけど」
「そう、わからないよね。これが、幽霊という概念を認識していない状態でのこの存在に対する思考になるわけ」
「うん? つまり、どういうこと?」
「ドレップロリュウを見たことも聞いたことも無ければ、この箱に入るかどうかなんてわからないと言うこと。そのとき出てくる答えは、居るでも居ないでもいいのよ。知識が無いんだから、想像で答えた全てが正解と言ってもいいわね」
近衛智也は腕を組んで首を傾げ、一度こちらを見たが、すぐに日向葵に視線を戻した。
「まあ、なんと言うか、少しわかった」
「うん、少しでいいよ。じゃあ次ね。そうやって智也が、居ないかな、わかんないなって考えている状況に、私が近付いてきて、智也、この箱の中にはハムスターが居るわよ、と言ったとする。智也はその箱の中にハムスターが居ると思う?」
「そりゃ、居るって言っているんだから居るんだろう?」
「そうね、そうかもしれない。ティッシュ箱程度のスペースがあれば、ハムスターは十分入れるわ。それは智也が目の前の箱を見て、さらにハムスターのサイズを知識として持っているから導ける結論なのよ。でも、実際に箱を開けたら、居ない可能性もあるでしょう? つまり、何かがそこに居るのか居ないのかは、目で見ないとわからない。でも、ハムスターなら居るかもしれない、と考えることが可能になる」
「よくわかんね」
「私にはこれ以上噛み砕いて説明することはできない」両手を挙げ、ひらひらと振る。「諦めて」
「わかった、諦めるわ」
「そういうところは好きよ」
なんだか結局二人がいちゃついているのを見せ付けられただけのような気さえする無駄な時間だった。むかむかとするのは、日向葵に恋情を抱いているからか、と自問してみたが、そうではない。誰だって、目の前でいちゃいちゃされたら気分が悪くなると言うものだ。それは他人でも知人でも関係ない。嫉妬というより、羨望の意味もある。とは言え、二人が付き合っていると明確に聞いたこともないが。いや、そうであるほうが却って虫の居所が悪くなりそうな、などと悶々と考えていると、また、みっちゃんからのブーイングが飛んでくる。
そうだった、そもそもそういう話だった。
しかしこの会話の流れでは、余り期待できないであろう。
「じゃあ見たこともない幽霊に恨まれる記憶も、ないですよね。それこそ復讐なんて」
「それは」日向葵が僕を見た。「どうかしらね。なんとも言えないわ」
逡巡の間は無かった。
それがどういう意味になるのかは、判然としない。
そして彼女は、馬鹿に説明するときよりは考える様子もなく、
「幽霊という存在を私自身がひとりでも視認すれば、私は幽霊に恨まれているかもしれないとはっきり思うでしょう」
「もしかして」
「そうよ」淡々とした様子だ。「だから私は幽霊研究会を作って、調査しているのよ」
「恨まれたい、ということですか?」
「そうじゃないわ。死んだ人間にまで恨まれているのかどうか、それが知りたいだけよ」
僕はほとんど反射的に、みっちゃんが居るほうを見た。
みっちゃんは、日向葵のほうを見ていた。
日向葵は僕を見て、
「居るのね。美津子が」
そう言った。
そういえば彼女は、体育館の女子トイレでまず「みっちゃん」を試していた。最初から、そこに居るとしたら「みっちゃん」だと見当が付いていたと言うことだろうか。
僕は日向葵に視線を戻した。
「君には見えるのね。だからこんな質問をしているのね。彼女はそうね、復讐したいとでも言っているのかしら。いいわよ、しても」
「ちょっと、ちょっと待ってくださいよ」
慌てて、二人の間に入って、空気をかき混ぜるように手を振り回した。
近衛智也はついていけない話題に、僕の不可解な行動が相まって、きょとんと表情を落としている。
「なぜ? 彼女がそうしたいのなら、私は甘んじてそれを受けるわ。彼女になら何をされても構わない。これは、君には関係のないことなのよ。私と、美津子の問題なの」
「確かに、僕は関係が無いのかもしれない。でも、僕にはみっちゃんが見えている。復讐したいと、彼女は言っていますが、その理由も、二人の関係もまるでわからない。それを知る権利くらいは、僕にもあるんじゃないんですか」
「権利なんてものは、誰にも無いわ。そんなもの、自己正当化の言葉でしかない。運転免許証が無くても運転はできる。でも罰が下るのが怖いから、自分は運転をする権利があるのだと免許証を獲得するだけの話で、そもそも運転自体は誰にだってできるのよ。ただ、私は君がこの場面において無免許運転をするなら、酷い罰を与えるわ。でもそもそも、これを回避するための証は何も無い。君にはどうやったって権利は与えられないの」
「そんな」
「世間は権利に甘くても、私はそうじゃない。それだけの話でしょ」
日向葵は、また、景色を眺めるような視線を僕にくれる。無感情で、無頓着とも言える。執着が無い。例え、みっちゃんの存在を視認できたところで、それが僕の価値を上げるわけではない。僕自身に対する彼女の思考に変異は見られない。ただ幽霊を見ることができる人、というそれだけだ。
彼女はだからこそ僕を研究会員に抜擢し、方々に向かわせた。噂を聞き実際にその場を訪れ、僕が「居る」と言えばそれが自分にも見えるかどうかと試していた。
僕は、ティッシュ箱の中にハムスターが居るのを知っていた。日向葵は、僕がその箱を開けてくれるのを待っていた。箱の中に居たハムスターは、彼女の求めるそれだった。
「なあ」
会話からあぶれていた近衛智也が誰にとも無く声を投げる。
僕がそちらをちらりと見ると、彼は何かを探すような視線を左右に振り、
「美津子って、あの美津子か?」
唐突に話題のど真ん中に入り込んでくる台詞を呟いた。
彼は、みっちゃんが誰かを知っている。
みっちゃんが、走り去る。
誰にもぶつからないように、教室の外へ。
僕はそれを視線で追った。
扉を見つめる。
「行っちゃったのね」
「あれ、なんかよくわかんないけど、俺のせい?」
二人の声に視線を戻す。
「どういうことなんですか」
「だから、それを知ることは、君には認められていないのよ。別に、知ったところで大した話でもないけどね。因縁なんてものは昔から、ふたを開ければ大したことなんて無いのよ。その因縁を持つもの同士がどう思うか、という話であって。だから第三者である君が知ったって、知らないままだって、どうだっていいでしょう?」
内容のわりに有無を言わさぬ口調だ。
僕もみっちゃんを追うように、教室から走り去った。
まだそこに残っていた、全くの第三者たちは、急に走り出した僕に、ぎょっとしたようだった。