起
放課後を、かれこれ半時間ほど浪費している。
日向葵は誰のものかもわからない机の一つに、無遠慮に白い両足を載せ、組んでいる。スカートが少しだけ太腿のほうへ下り、危うげだった。対面に位置しているとは言え、わざとらしく消しゴムでも落としてうっかりスカートを覗いてみようものなら、彼女のその長い足が脳天直下、大ダメージを受けることは必至だ。白かな、ピンクかな、と想像するに留めておくのが、賢明な判断というやつだろう。
週が明けた月曜日、世間は梅雨に入った。天気予報で大々的に宣言していたくらいだし、例え水曜日になってみても、雨が急に上がったりはしない。ずっと、降り続けていて、身体はどこか気だるく、思考も散漫で鈍重だった。
文庫本を広げ押し黙ったまま、一度たりともこちらに視線を向けない彼女のことを、僕は却って見つめ続けていた。市松人形のように真っ黒で長い髪。一方で目鼻立ちは外国人のようだ。両手でぐるりと包み込めそうな細い首。着崩したワイシャツから見える鎖骨。膨らみかけの乳房。と、それを覆うブラジャー、を何とか透かして見ようと試みる。要するに、暇だった。
「ヒマワリ」
踵を潰した上履きをパタパタと鳴らしながら、近衛智也が教室に入ってくる。その声でようやく、日向葵は文庫本を閉じ、扉のほうを見た。
「どうだった?」
足を机から下ろし、長座体前屈のように一つ伸びをする。
「だめだな。噂に過ぎなかったみたいだわ」
「そう。ご苦労さま」
近衛智也が僕たちの囲んでいた机に椅子を一つ近づけて、そこに腰を落ち着ける。僕は急に居心地が悪くなったように感じて、少しだけ肩を丸めた。近衛智也は馬鹿だが、日向葵のお気に入りには違いなかった。
近衛智也は最近学内で囁かれている「なんかあ、体育館の女子トイレってえ、出るらしいよお?」という噂を調べるため、このジメジメとした中を駆けずり回り、帰ってきたところとなる。
「大体、召喚方法が曖昧だったのが良くない」
日向葵は、今度は腕を組み、首をゆっくりと回しながら、呟いた。
「確かに。ちょっとな。一番奥の使用禁止の個室にノック三回、か、四回。さっちゃんだかみっちゃんだかに遊びましょうって唱える……、ちょっと、古風だし、うん、アイマイだ」
溜息を吐きながら馬鹿の賛同を聞き終えると、半時間とちょっと経ってようやく、日向葵は僕のほうを見た。
「やはりここは野々村くんに行ってもらうしかないか」
「そう、なっちゃいます?」
「そのために君が居るのだし、そうでなければ君は要らないわ」
「ですよね」
文庫本を見つめるよりも無感情の視線で、まるで無意識に景色を眺めているだけかのように僕を見ている。それこそうっかり、幽霊が見える、などと言うべきではなかったか。
要するに、僕たちは「幽霊研究会」という集いだった。「会」というだけあって、この高校において正式に部活としては認定されていない。部員数が足りないし不健全だからだそうだ。だから部室ももらえておらず、ここ、日向葵の属している二年A組が、我らの根城、と少なからず僕たちの中ではなっている。
日向葵と近衛智也の間柄は詳しくは知らないが、聞く限り中学時代からは知り合いのようだった。馬鹿な男は「日向葵」の字面を「向日葵」と間違えて「ヒマワリ」と呼び続けているが、それを拒絶しない程度には仲が良いらしい。言動からも、伝わりにくいが、気に入っている様子が僕にはわかる。
その僕自身は、ほとんど巻き添えだった。いつだか、近衛智也が今日のように日向葵の手先となって校内を駆けずっていたとき、たまたま僕が出くわし、彼らの求める幽霊の存在を認めてしまったがために、「君が居れば私も幽霊を見ることができるようになるかしら」と望んでも居ないのに抜擢されてしまった。しかし当時の僕はと言えば、日向葵の鮮烈な美貌に興味津々の一般的男子高校生よろしく、お近づきになれるならばと、よく考えずもせず二つ返事で加入を宣言してしまったわけである。
ところがふたを開ければ日向葵の人格は、まるでカスだった。自己中心的で偉そうで、思い通りにならなければ全て周りが悪いと、カスのようで、あるいは神のような存在だった。彼女自身が神ならば、例え二物を与えられていなくても、仕方ない。などと下らない納得の仕方で、かれこれひと月近く。「後悔先に立たず」さえ念頭に浮かばなかった僕は、愚かに違いなかった。熟考は、大事なことだ。
近衛智也の先導で教室を出ると、僕たちは三人揃って体育館の女子トイレに入った。みょうちきりんな噂が立ったおかげというのか、男子生徒であれど容易く足を踏み入れられる。もちろん、躊躇はあるが。
雨のせいもあってか薄暗く、全体的にかび臭い。しかし幽霊が出るなどという噂があるからと言って蛍光灯は明滅していないし、鏡が取り外されているわけでもない。経験上、幽霊はどこにでも居るし、長く居たからと言ってそこにあるものに影響を与えはしない。
一般的に「感じる」と言われるような感覚は、僕には無い。近くに居ると頭痛がするとか、鼻がツンとするとか、肩が重くなるとか、そういったことも特に無い。目で見て、初めてそれを認識する。実体のある人間か、それとも幽霊かは、見てようやくわかる。だから、向こうに認識されることも多数あって、過去、色々な経験をしたものだ。
日向葵が背中を小突く。僕は前に立って、一番奥の個室に近付いた。「使用禁止」がいつからなのか、締め切られたドアに張られた紙は、黄ばんで久しいようだった。
「ノック三回」
後ろから透き通るような声で脅されるように言われたので、コン、コン、コン、と軽く握った右手、中指の第二関節を当てる。
「みっちゃんでやってみよう」
「みっちゃん、遊びましょう」
声を掛けるが、反応は無い。
振り返り、
「いやあ、残念ですね」
笑ってみたが、
「次、三回の、さっちゃんで」
現実は無慈悲である。
それから四回のみっちゃん、四回のさっちゃんも行ってみたが、反応は何も無かった。
日向葵は腕を組み、今度こそ残念そうな顔をして溜息を吐くと、
「やはり噂なのか」
「俺、言ったけどなあ」馬鹿が答える。「っていうか野々村がやるなら俺のやる意味……」
「智也は私のために行動するのが楽しいでしょ?」
「いやあ残念でしたね。残念残念」
「残念そうには見えないけど。まあいいわ。雨だし、私帰る」
言い切り、先んじてトイレをあとにする日向葵の背中を見ながら、近衛智也が顔だけを少しこちらに向けて、
「雨ならずっと降ってるけどなあ」
ぼそりと呟いた。
「まあ、僕たちも帰ろう」
近衛智也の背中を押し、女子トイレを出る間際、そろりと後ろを振り返ると、使用禁止の扉の上、三十センチほどの隙間から、こちらを見ている女の子と目が合った。寂しそうにも、憎々しそうにも見えない。ただ、じっとこちらを見ている。
さっちゃんかみっちゃんかもわからなくてごめんよ、と思いながら、視線を逸らした。
翌日、体育館の女子トイレの噂は、変容していた。
というより事実として、例の「使用禁止」の紙がびりびりに破り捨てられており、締め切っていたはずの扉も、内側から壊されたかのような形跡を残し、開かれていた。一限目、授業中嫌々そこのトイレを使った一年女子が発見したものらしい。昼休みになるころには「みっちゃんが怒ったんだ」「さっちゃんが殺しに来る」だとか、「音楽室でピアノを弾くらしい」「美術室ですすり泣く声がするんだって」などと話が色を変え、梅雨空で屋内に居ることを余儀なくされている学生たちの暇つぶしとして拡散されていた。
実際、みっちゃんはあのトイレを抜け出した、と言える。話を聞いてひとり調査に出向いてみたが、そこに昨日見た女の子の姿はなかった。日向葵には「君たちがやったの?」と問い詰められたが、もちろん僕たちは何もしていない。彼女の言うように誰かが恐怖を煽るためにやった可能性ももちろん、あるにはあったが、僕はそれを信じては居ない。
なぜなら、そのみっちゃんが、今、僕の横にいるからである。
調査から帰る最中、
「ねえ」
と呼びかけられ、振り向いたのが良くなかった。
そこにはこの学校の制服を着た生徒の姿があり、うっかり、
「どうしたの? 誰?」
と答えてしまったのも、良くなかった。
ニコリと微笑んで見せて、
「美津子。みっちゃんって呼ばれてるの」
なんて返事をくれたものだから、ああ、これだ、これも「後悔先に立たず」というやつか、と考えたとして、仕方のないことであろう。
それからずっと、近くに立って、何をするでもなく、僕のほうを見ている。幽霊の礼儀なのか、あるいは生きていたときの記憶や名残があるのか、無闇に声を掛けてきたりはしないが、常に横から、じっと見つめられているわけである。これが生きた女の子であれば、こんなハピネスは早々無いぞ、と喜んでいたことだろうが、幽霊とは仮に恋に落ちても結婚はできない。そう意識してしまえば、ときめくことも無い。
確かに、みっちゃんは今まで見てきた幽霊の中でも綺麗なほうだった。この場合の綺麗は「欠損が無い」という意味である。大抵は首が折れていたり頭皮が捲れていたり四肢が千切れていたりと散々なものばかりだが、彼女はどう死んだのか、恐らくは生前の容姿をそのままに残したタイプの幽霊だった。綺麗だなあとは思う。この場合の綺麗には「容姿端麗」の意味も含めてある。
とは言え、まさかまさか、幽霊と恋に落ちることなんて。手もつなげないしキスもできない。いやしかし、あるいはこれは至極健全な……、と考えていると、トン、と肩を叩かれた。みっちゃんである。あれ、触れられているってことは手もつなげるしキスもできるのかしらん、などとくだらないことを、至極くだらないことを考えていると、彼女は、
「返事はしなくていいよ」手を後ろに回し、組んだらしかった。「お願いがあるの」
ともすると、クラスメイトと話しているような気分にさえなる。
僕以外の誰も、彼女のことを認識できないのが嘘のように、自然な声音と、動きだった。
しかし彼女の次の言葉は、まるで想像しない台詞だった。
「日向葵に、復讐したいの。手伝って?」
まず頭に浮かんだのは、日向葵を知っていると言うことは、みっちゃんが死んだのは最近のことなのであろうか、という疑問である。この高校の制服を着ているということは単純に考えればこの高校の生徒だったということなのだろうが、一年、二年と、体育館の女子トイレで人が死んだと言う話は聞いたことが無い。それならばもう少し遡って、つまりみっちゃんは「みっちゃん」などと呼ばれているが僕たちよりいくらか年上の人で、幼少期の日向葵と関係があった人物だった、ということだろうか。
ひとり腕を組んでみるが、当然ながら答えは出てこない。
「お願い、聞いてくれる?」
眉根を寄せ、困ったように顔を傾げる。
大体にして、僕というやつは単純で、熟考しない男である。そして世間は僕に熟考する隙を与えないくらいのスピードで前へ前へと進んでいくものだ。
みっちゃんのその顔が愛らしくて、ついついうっかり、頷いてしまったわけだから、僕もなかなか、罪なやつなのかもしれないなんて、考える余裕があることが、僕の人間らしい部分かもしれない。
しかし一瞬あとにはまた深い後悔の穴にするすると落ちていき、考えることはたった一つ。
さて、どうしたものか。
これに尽きるのだ。