9章③
大学四年の夏前のある日、信明に早苗から電話がきた。
「ねっ、近いうちに時間取れない? 飲みに行こうよ」
数日後の夕方、繁華街にある地下鉄の改札口で信明は早苗と待ち合わせをした。有名な待ち合わせポイントのため、人が縦横斜めに激しく行きかっていた。会うのは二カ月ぶりで、薄手のジャケットに身を包んだひさしぶりの彼女は大人びて見えた。
洒落た老舗洋食屋で、信明はポークジンジャー、早苗はミックスフライのセットを頼み、おたがい「最近どう?」みたいな話をした。信明はすでに卒業後、稲苗神社と関わりのある大きな神社での修業が決まっており、その話をしてから早苗の話を聞いた。早苗は教員採用試験に向けての勉強をしているとのことだった。それからゼミやバイトなどの話をしたあと、「そういえば、最近野球サークルに顔を出している?」と信明が聞くと、「あ、うん、たまに……」と早苗は言葉を濁し、「ねっ、もう一軒行こうよ。いいお店知ってるんだ」と話を変えた。
何かいつもとテンション違うな、信明はこのとき思った。
早苗は雑居ビルの地下にあるバーに入った。女性バーテンダーが経営している店らしく、シックな店内にはシャンソンが流れていた。
「以前バイト先の人に教えてもらったんだ」
早苗はオレンジジュースを、信明はモヒートを頼んだ。
「お酒飲まないの?」
「あ、うん……ちょっとね」
「でも、早苗とこんな素敵なバーで飲める日が来るなんて思わなかったなあ」
グラスを軽く合わせて信明はいった。
「そうだね……」
早苗はそういったが、沈んだ声だった。
「あのね、のぶくん」
飲み始めたあと、あらたまった感じで早苗が切り出した。
「うん? どうしたの?」
「あの、私ね……」
信明は感覚的に悟った。いい話じゃないなと。
「赤ちゃんできちゃった」
信明は絶句した。
「あ」とも「え」とも声が出なかった。
想像以上どころか、これまでの人生で最悪の話だった。
早苗も黙ってしまった。
「……誰の子なの?」
かなり長い沈黙を経て、信明はようやく口を開いた。
もちろん信明の子どもではない。
「あ……うん……裕哉くん」
「裕哉……なんで?」
信明の心臓は締めつけられた。手が震えている。
「いや、あのね……あの、わ、私が悪いんだ」
うわずった声が暗いバーで空しく響く。
早苗の瞳には涙があふれていた。
信明は事態を察した。
「付き合ってるの?」
「……ううん。断った」
「じゃあ……その、おろすの?」
早苗は首を振った。
「……私ってほら、むかしからからだ弱いでしょ。お医者さんに診てもらったらね、一度中絶したらもう赤ちゃんはできないっていわれちゃった」
「じゃあ……」
「うん。産もうと思うんだ。最初で最後のチャンスだから」
信明は頭を抱えた。脳がブラックアウトした。
いますぐここを飛び出して、どこかで吐きたかった。
すべて吐いて倒れたあとに、神様か誰かにこれは嘘だといってほしかった。
「ホント、なんでこんなことになっちゃったんだろうね……」
早苗の言葉も震え、泣き崩れた。
その後タクシーで帰り、信明は床についたが、眠れなかった。
酔いがさめた明け方、信明は車に乗り、海へ向かった。
誰もいない砂浜で、薄っすら明けていく空を前に、信明はうずくまり、物心ついて以来はじめて泣いた。
あふれだした涙はいつまでも止まらなかった。




