9章①
信明が早苗とはじめて会ったのは中学一年のときだ。
早苗の父親は長野に本社のある精密機械会社に勤めていたが、一人娘である彼女の中学進学に合わせてこちらへ転勤となった。
早苗は長野で生まれ育ったので、中学に知っている人は誰もいなかった。彼女としては当然友だちがほしいと思ったわけで、その第一号に選ばれたのが入学後、隣の席になった信明だった。
「ねっ、樫木くんのかしってどう書くの?」
「うん? きへんにかたいって字」
「樫木くん堅い人なの?」
「うん? そうでもないよ。おもてなしみたく、丁寧に『お』をつければ、お樫木名前になるよ」
「? 樫木くんってヘンな人なの?」
「へんはきへんだよ」
「ヘンなひとー。野球部に入ったんだよね?」
「うん」
「じゃあ、私マネージャーになろうかな」
「中学の部活にマネージャーなんてないよ」
「ええ、そうなの? つまんない」
信明の、早苗の第一印象は、制服が似合う聡明なすらっと美人だったが、実際話してみると、笑顔が人懐こくて、ふわっとしたやさしさを持つ人だなと感じた。
二人はすぐによく話すようになり、授業中には先生の似顔絵を描いたり、○×ゲームをしたりして遊び、テスト前には予想問題を出しあったりした。ただ信明には女子と話すのが恥ずかしいという意識もどこかにあって、たまに冷たくしてみたりもしたが、本音では学校に行って早苗と話すのがなによりの楽しみだった。
中学二年まで二人は同じクラスで、三年になり別のクラスになったが、三年の夏から信明の通っていた塾に早苗も通うようになった。早苗が住んでいたアパートは稲苗神社公園前のタバコ屋の裏だったので、塾のあとはいつも一緒に帰った。
「のぶくんは東高受けるんでしょ?」
「うん、そのつもり。早苗ちゃんは?」
「私も東高目指すよ。一緒に行こうね」
「うん」
受験前のバレンタインデーに、信明は早苗から手づくりチョコレートをもらった。母親以外の女性からはじめてもらったチョコレートだった。
ホワイトデーのお返しにはクッキーと一緒に、読書好きの早苗のためペパーミントの葉のイラストが入った紙の栞を贈った。ペーパーとペパーをかけたダジャレのつもりだったが、早苗はとても喜んでくれて、その栞をずっと大事に使ってくれた。
受験前日には稲苗神社で二人並んで合格祈願をし、合格発表も一緒に見に行った。二人とも無事合格し、おたがいの肩に手をのせて喜び合った。
高校入学後、信明は野球部に入り、早苗はマネージャーになった。
「ホントどこでもついてくるなあ」
「一緒のほうが楽しいよ」
「ずっと外だから夏は暑いし、冬は寒いよ」
「平気だよ」
早苗はからだが弱かったのでその点が心配だったし、ウザいなあという気持ちも多少はあったのだが、やっぱり内心ではうれしかった。
早苗は野球部に入部すると、すぐに部員の人気の的となった。容姿がいい上に気さくで話しやすい。努力家で誰にでもやさしい。中学時代から人気はあったが、間近で視線を浴びるのを見ると、信明はどうにも面白くなかったが、一方で部活後は一緒に帰っていたので優越感もあった。
信明も順調に野球部での地位を築いていった。肩が強く、長打力もあったので、一年の秋にはキャッチャーのレギュラーの座を奪い、チームの主力となった。
東高野球部の顧問は野球の素人だったので、練習も試合も選手中心で行った。信明が二年になると、三年生と信明を中心に『頭を使った一点突破野球』をスローガンに掲げ、毎日強くなるため、勝つための戦略を立てミーティングを繰り返すようになった。
作戦にはいくつものパターンがあったが、一点突破野球の名の通り、基本は徹底して相手の弱いところを突くというものだった。たとえば、サードの守備がイマイチというチームが相手の場合は、徹底してサード側に打つ。アウトになろうが、ボテボテだろうが、セーフティーバントだろうがとにかく狙い打つ。
蟻の穴から堤も崩れるということわざがあるが、一度でもエラーすると、相手は動揺しチーム全体がガタガタと崩れることが多い。サードばかり狙えば、ショートは徐々にフォローのため三遊間寄りになり、二遊間が空く。ここぞというところでは、サード狙いからその空いたところに狙いを変える。そのため方向を決めて打つ練習を繰り返し行った。
ピッチャーのクイックモーションやキャッチャーの肩に弱点があるチームには、盗塁をはじめとした機動力中心の攻めをし、エースピッチャーのスタミナや継投に不安があるチームには待球作戦と、とにかくチーム全体が意思統一をして徹底することを心がけた。
ミーティングという名の戦略会議には早苗も参加し、野球についての知識を深めていった。特に相手チームの映像集め、データ分析は早苗を中心に行い、親しみをこめて、大戦前のスパイからとったゾルゲ早苗というあだ名でみんなから呼ばれた。
戦略・戦術が当たったことに加え、信明の代には能力の高い選手が集まっていたので、チームは急激に強くなり、甲子園出場を目標にできるレベルにまでになった。
練習の休みはほとんどなく、土日や長期休みも終日練習に明け暮れ、大変といえば大変だったが、このときほど野球が楽しいと思ったことはなかったし、毎日が充実していた。早苗をはじめとした仲間にも恵まれた。
二年の夏に信明は主将になり、三年の高校最後の大会ではあと一つで甲子園というところまでいった。早苗も記録員としてベンチに入り、間近で信明のプレーを見守った。
決勝では接戦の末惜しくも敗れてしまったが、準優勝はいまだ東高野球部の最高成績だ。
高校時代、信明と早苗はまわりから付き合っているようにも思われていたが、学校から一緒に帰ること以外、二人でデートに行くとかそういったことはなかった。早苗の好意は感じていたし、信明も好意を抱いていたが、いまのままで十分満ち足りていたし、これ以上何かを求めて何かを失うくらいなら、このままでいいという気持ちが強かった。
早苗はどう思っていたのか? と信明は後年よく考えてみたが、信明と同じくこれでいいと思っていた気もするし、不満があったといえばそうかもしれない。
二年の秋、新山という同級生が早苗に告白した。彼はテニス部で、うわべだけのカッコよさという感じを信明は好かなかったが、女子からの人気はあった。告白する前、信明は新山に呼び出された。
「早苗ちゃんとおまえどういう関係なんだ?」
「え? ああ、ご近所さんだよ」
「告白したいんだが、かまわないか?」
「かまうとかかまわないとか、僕には関係ないよ」
「そっか。わかった」
その後新山が早苗に告白したが、断られたみたいだと人伝いに聞いて、学校からの帰り、早苗にそのことを聞いてみた。
「新山にコクられたんでしょ?」
「……うん」
「なんで断ったの? 新山結構カッコいいと思うけど」
「ねえ、それ本気でいってるの?」
「えっ」
「私、先に帰る」
そう言い残し早苗は走り去った。
信明は呆然と、彼女の後姿が消えていくのを見た。
信明の記憶の中で早苗が本気で怒ったのはこのときだけだ。




