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魔女と呼ばれた女

フィギュアスケートと中東問題を混ぜた筆者は、今度はスチームパンク(ディーゼルパンク)とユダヤ文化を混ぜるのです。



 盗聴は諜報機関の基本技術である。

 MI5とMI6に出来て、ГПУ(ゲーペーウー)に出来ないことがあるだろうか。

 あるとすれば、それは資本家連中ブルジョアジーに優しくすることだ。

 ГПУ(ゲーペーウー)調教師ハンドラーたる、ソヴィエト連邦の情報将校スミノフは、基地を兼ねた隠れ家で、フィドラーとミールナの情報解析結果を待つ。

 フィドラーは工学系の大学生であり、通信技術について学んでいる諜報員である。盗聴器の扱いどころか、開発さえもお手の物だ。スミノフはフィドラーについて、まだまだ甘い青臭さが抜けないが、やがて技術官僚テクノクラートとして頭角を現せる人材だ、と評している。本国ソヴィエトに来させても良い。

 一方のミールナはキエフ出身、大戦期の移民に紛れて英国に入り込んだ工作員だ。現在は配達屋キャリア組合ユニオン整備士ヘロンをしている。飛空艇の技術に詳しいのはもちろんであるが、こと今回の任務については必要不可欠なメンバーでもある。

「同志スミノフ、会話内容が判明しました」

 頭部装着型受信機ヘッドギアを外し、フィドラーがタイプライターから目を上げた。

「医務官と『アリックス』のやり取りです」

 打ち上がったばかりの紙を、フィドラーは慎重にスミノフに手渡す。文章は英語で書かれている。情報将校たるスミノフは、英語もフランス語もドイツ語も解する。英語に関しては、少なくともソ連や東欧の関係者だとは思われない程に訛りがない。スミノフが喋るのは完璧な標準英語キングス・イングリッシュだ。むしろ完璧すぎて、逆に出身を勘ぐられかねないほどなので、わざと中産階級訛りを意識して話す時もあるぐらいである。

 しかし、そんなスミノフにしても手に余る言語が、モーゼス・シュワルツと「ALIXアリス」の間では用いられていた。すなわち、東欧ユダヤ人(オスト・ユーデン)の「イディッシュ語」である。

 イディッシュ語は、ドイツ語の一方言とよんでも差し支えのない言語であるが、ドイツ語の他に東欧系のスラヴ諸語の要素が混じっている。むろん、それだけならばスラヴ系言語の一角たるロシア語を母語とするスミノフにとって、別に困ることなど何もない。

 訛りのきついドイツ語に聞こえるし、そうだと考えて聞けば分かる部分も多い。ただ、ドイツ語の一方言でありながら、記述する文字はラテン文字ではなく、セム系のヘブライ文字である。母音表記が特殊なため、字面では「u」と「o」の区別がつかない。しかし本家ヘブライ語はもっと不親切な母音表記なので、「a」「i」「e」だけでも読みとれる分、むしろ易しいだろう。

 そこまでなら、暗号の一種のごとくスミノフが対応することも可能だった。

 だが、イディッシュ語は「ユダヤ人」の言語だ。キリスト教世界の者にも、あるいは共産主義と科学を信奉する者にも、「そこ」が決定的な困難として立ちはだかる。

 イディッシュ語の真の難点は、ローマ帝国にも滅ぼすことの出来なかった「ユダヤ」という文化に根づいている言語である、その一点に集約される。その文化の中で育った者にしか分からない言い回し、特に聖書タナッハ口伝律法タルムード、その規範ハラハー物語アガダーの知識を前提とした、ヘブライ語由来の独特の表現が、微妙なニュアンスを聞き分ける壁として立ちはだかる。

 インド=ヨーロッパ語族の言語にとって、セム系言語はただでさえなじみがない。そこに加えて、ユダヤ内輪ネタの極みである律法注解ミシュナだ何だのとくれば、非ネイティヴで理解できるのは、よほど内情に精通した人間だけである。

 さてここでミールナが重要となる。彼はウクライナ系ユダヤ人だ。東欧ユダヤ人(オスト・ユーデン)の彼は、ユダヤの小都市共同体シュテットルに育ち、イディッシュ語を母語として育っている。

 モーゼス・シュワルツと「ALIX」のイディッシュ語の会話を、完全に理解するためには、さすがのスミノフでも、ユダヤ文化の中で育ったミールナの助力が欠かせなかったのである。

 スミノフは会話内容に目を通し、そして小さく歯ぎしりした。

 小娘の逃げ込んだ場所などお見通しである。ГПУ(ゲーペーウー)が、MI5やMI6ごときに後れを取るわけなどない(と、スミノフは自信を持っている)。

 スミノフを苛立たせたのは、「ALIX」の小賢しいまでに器用な立ち回りだった。あのトルコ人の護衛が撃たれた一件さえも、彼女の計画の一環だったのではないか、と思えるほどだ。それが穿ちすぎであるということはこの会話から判明したが、それにしても偶々、飛行師スワロウの保護を受けられるというのは、実に運が強い。超越的存在を信じそうなほどである。

 とにかく、どうやら「ALIX」を襲撃したのは、英国の機関ではない。CIAにしてはお粗末に過ぎる。するとソ連と英国以外のどこかの国か勢力が、彼女の価値を知っていることになる。単なる誘拐目的というわけはないだろう。それでは、名前を確認してから襲撃した理由が説明できない。

 可及的速やかに、ソヴィエト連邦は「ALIX」を手に入れねばならない。

「ペルツォフカ」

 情報将校は、すぐに表情を元に戻すと、傭兵を呼んだ。

「あいよ、なんだい旦那?」

 愛銃の手入れをしていたアビゲイル、今回の件における暗号名「ペルツォフカ」は、くるりと振り返って、雇い主であるスミノフを見た。濃い青い目には、好戦的な光が輝いている。

「作戦内容が決定した」



 メリッサは夜明け前に目を覚ました。

 新聞配達などという、朝の早い仕事を請け負っていたためだ。

 もうちょっと、美少女と一つベッドでの睡眠を堪能していたいと思ったが、しかし、もはや眠気は欠片も訪れる気配を見せない。日頃の行いが良すぎるせいだ、と思いながら、メリッサは日課でもある愛機の点検に向かうべく、とりあえず服を着直した。

 コルセットベストの留め金(バスク)を合わせ、ジャケットを羽織る。

 横の気配がなくなったせいか、アリスが小さく寝返りを打った。

「ん……」

 眠そうに目を擦りながら、美少女が夢から覚めた。くたびれた古着を身につけていても、アリスの美しさは変わらなかった。寝起きの少し怠そうな雰囲気が、メリッサの心を撃ち抜く。寝ている間に、三つ編みが少しほつれているのも、なんだか妙な色っぽさがあって素晴らしい。

 十二歳の少女に色っぽさなど感じているあたり、やはり変態の烙印は免れまい。

「メリッサ?」

 眠たげな声で、目を擦りながらアリスが名前を呼んでくる。メリッサは朝から鼻血を噴きそうだった。この子と同じベッドで眠ったという出来事が、また素晴らしくメリッサを興奮させた。実に変態である。

「まだ寝てていいのよ、アリス」

「いい、起きる」

 優しげなメリッサの声に、しかしアリスはきっぱり答えた。起き上がり、昨日メリッサが見繕ったジャケットを羽織る。あの限られた選択肢の中からにしては、良い見立てだったとメリッサは自分で自分を褒めた。もちろん内心で。

「じゃあ、駐機場ガレージへ行きましょうか」

 そう誘うと、アリスはこくりと頷いて、メリッサの後についてきた。

 駐機場ガレージ収納環レーンから愛機を引っ張り出し、念入りに点検する。各計器に異常がないか、燃料ガソリンの残存量はどうなのか。特に燃料ガソリンの問題は、結構重大な気がする。英国政府機関が「アリス」の存在を知り、その確保を狙おうとしたら、熟練の飛行師スワロウというか航空兵マグパイを揃えた空警兵団レイヴンズがちょっかいをかけてくるかもしれない。

 飛行師の通称が「つばめ(スワロウ)」で、航空兵の通称は「つぐみ(マグパイ)」なのに、どうして空警兵団の通り名は「ワタリガラスたち(レイヴンズ)」なのか。子どもは皆一様に首を傾げる、ロンドンの不思議の一つである。長じてロンドン塔のワタリガラスにまつわる言い伝えを知れば、不思議でも何でもなくなるのだが。ちなみに兵団員の単数形「ワタリガラス(レイヴン)」は、飛空艇乗りのエリートと同義である。

 燃料が少し心許ない気がした。

 セント・ジェームズ・パークまでなら、お釣りが来るほどに余裕だが、昨日のアリスの話から推して、今日が平穏無事な一日になるようには思えない。

 念には念を入れて、給油しておくべきだろう。

燃料ガソリン代、ベンジャミンに払っておいてくれる?」

 本日の雇い主にそう問えば、はい、とアリスは頷いた。

 これで問題なし、とメリッサは遠慮なく補給装置に手を伸ばし、愛機のタンクにたっぷり燃料ガソリンを注ぎ入れた。取扱免許を取得しておいて、良かったなぁ、としみじみ思う。

 本当に、良かったと思うのは、この後だった。

 愛機のメンテナンスを終えて、それでは朝食でも……とアリスを振り返った、その瞬間。

「ッ?!」

 爆発音と振動が、ベンジャミンの店舗を揺るがした。

「……何よコレ」

「追っ手です! メリッサ、鍵を(キー)! 逃げます!」

「言われなくても!」

 メリッサは鍵を愛機に差し込み、起動装置を全開にした。点火後いきなり燃やしまくるのは、機体にとって負担になるのだが、この際悠長なことは言っていられない。

「アリス!」

 呼びかけると、少女は金色の三つ編みを躍らせて、メリッサの膝に乗った。メリッサはアリスにも安全ベルトを掛けながら、昇降機エレベータのボタンを蹴飛ばす勢いで、屋上の揚発場ポートへと上がる。このまま上空へ一気に離脱だ。

 ベンジャミンには後日、アリスから弁済してもらおう。

 屋上に出る。

 出た瞬間、メリッサの全身に鳥肌が立った。

空警兵レイヴン?」

 眼前に見えたのは、スターゲイザー財団傘下企業が誇る、最新鋭の単座飛空艇エアロボート。先だって、空警兵団に正式配備されたばかりの型だ。

 だがしかし、ツバメのごとく鋭いターンを見せつけた、その操縦者パイロットの灰色の航空帽の下から。

 人参のような赤い髪の毛が、揺れる波のように風になびく。

 メリッサの心拍数が一気に跳ね上がり、凍るような恐怖が全身を支配した。

「魔女……」



 英仏海峡ドーヴァーの魔女。

 先の大戦で敵同盟軍を散々に悩ませた、歴戦の猛者も恐れるつわもの。

 たった一つの理由から、戦後に空警兵レイヴンになれなかったはみ出し者。

 英国最強にして最凶の航空兵。

 魔女と呼ばれた女兵士。

「アビゲイル・ウィリアムズ……ッ!」

 緩やかにうねる赤い髪に、朝の光を跳ね返し、魔女は嗤う。

「Good morning!」

 何が良い朝なものか、とメリッサは歯軋りした。

 どいてよ、私は配達に行くの。

 そう言い返してやりたいのに、眼前の魔女が放つ殺気に圧倒される。

「……どいてよ」

 なんとか絞り出した声は、惨めなほどに掠れていた。

 震える全身を叱咤しながら、それでも離陸に入る。

 一か八か。

 さっきの爆発を仕掛けた連中が、今にも上ってくるかもしれない。

「メリッサ」

 アリスがくぐもった声で、名前を呼ぶ。

 その声が、メリッサを励まして、勇気づけてくれる気がした。

「飛びましょう」

 その声が背中を押してくれる。

 加速装置を踏み込みながら、メリッサは空に飛び出した。

「シィッ!」

 魔女が忌々しげに舌打ちをする。

 この瞬間、メリッサは自分の「今、無理矢理にでも離陸する」という選択肢が、正しかったことを理解した。

 最新鋭の機体に、実力行使も辞さないような武装。

 あれは、自分たちを飛ばさないようにという、言外のプレッシャーだったのだ。

 爆発だって相当な無茶苦茶だが、揚発場ポート設置許可が出ているとはいえ、ここはロンドン。いかに彼女が手練れでも、この近辺の上空で空中戦はできまい。

 だからこそ、離陸させないために牽制をした。

 地上での移動は、空での移動よりも制限がかかるし、危険も多い。

 一か八か、メリッサはここが五階だからこそ出来る賭に出た。

 いつもより早く、上昇から飛行モードに切り替える。

 スイッチの瞬間に機体が揺れる。かすかに自由落下の感覚。心臓だけが宙に取り残されて、残りの体は全部地面に向かって落ちていくような。

 だが落下の途中で、水平飛行速度が、翼の揚力を十分に確保できるまでに上がる。落ちかけた機体は、投擲されたハンマーのように飛び上がった。

 メリッサは賭に勝ったのだ。

(やった……)

 安心して、少し微笑みそうになったメリッサの耳に、魔女の怒声が響いた。

計画2(プラン・ツー)!」

「回避!」

 アリスが叫ぶ。ほとんど反射的に、メリッサは機体を操ってかわす。

 鋭い動きで、魔女がぶつかるように接近してきた。

「何? 何なの?!」

 メリッサのわめく声に、アリスは冷静に答える。

「追い込むつもりです」

「どこへ?!」

 アリスは、眼下に広がるロンドンを睨んだ。

「テムズ上空へ……」

「どういうこと?」

 問い返す間にも、魔女は次々と斬りかかるような接近を繰り返す。

 最新鋭機に乗る熟練航空兵と、旧式の単座式飛空艇に二人乗りするただの配達屋。

 メリッサに出来る回避は、おそらく全て読まれている。

 その証拠に、アリスの読み通り、二人の乗る飛空艇は、市街上空からテムズ川上空へと、少しずつだが確実に動かされている。

「このまま高度の牽制に入られる。そうしたら着水を強いられます」

 アリスの指摘に、メリッサは敵の狙いを知った。

「冗談じゃない……!」

 このSC-D-ES21は、離着陸の想定で開発された飛空艇だ。離水は勿論、着水にだって対応できない。もしテムズの川面まで追い込まれたら、汚泥の底へ沈むだけだ。

(嫌だ!)

 メリッサは、心の底からそう思った。

 この機体は兄の形見なのだ。空に散ってしまった兄の。

(絶対に、アリスを守り抜いて、空から戦争をなくしてやる!)

「アリス、これから、かなり無茶な操縦をするわ」

「掴んで離しません!」

 強い意志が伝わってくる、けれどもぎこちない英語に、メリッサはふっと笑う。

「ALL...」

 ぎゅっと操縦桿を握る。加速アクセルペダルを一気に踏む。

「RIGHT!!!」

 常とは違う風の流れ。不安がないと言えば嘘になる。

 おまけに相手は「ドーヴァーの魔女」だ。

(でも行く! 行ってみせる!)

 この戦いは殺し合いじゃない。

 逃げて逃げて、逃げ切ってしまえばこっちの勝ちだ。

 魔女は多分、アリスを殺すなと命令されている。だから牽制の飛び方しかできない。ならアリスが自分に掴まっている限り、向こうから本気での発砲などはされまい。

 無茶苦茶な操縦をしてでも、魔女の追い込みをかわす。

「勝算はあるのよ……!」

 半ばは自分に言い聞かせるように、メリッサは唸った。





アビゲイル・ウィリアムズの名前は、セーレムの魔女裁判で告発を開始した三人の少女のうち、最後は行方をくらました人物から。

Abigailって名前、由来はヘブライ語の「我が父の喜び」なんですが、この『機械の国のアリス』では、そこいら辺までは練り込んでないです。マッカランとかディーンストンとかね。そんなレベルで書いてますから。


しかし、単なるドンパチを描く予定だったのが、どんどん大事になっていく……オチまでようやく見えて、プロットの基礎はできてきたものの。

世界情勢やら技術革新やら考え込んだら、当初の「スチームパンクな世界で、変態系女子がオッサンたちとともに美少女を悪党から守る話」という軽いノリがどんどん失せてゆく……嗚呼、考えすぎるのは私の悪い癖だ。

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