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つかの間の二人

アクションは次回です。すいません!



 メリッサは大喜びした。

 簡単な話である。ベンジャミンの古着屋に泊まるにも、ベッドの数が限られていたので、アリスと一緒に寝ることになったのだ。ベンジャミンは嫌そうな顔をしていたが、アリスは気づいていないようだったので、メリッサも便乗して知らんぷりを決め込んだ。

 警戒心を緩めていないらしいアリスは、メリッサの見繕った古着の、ジャケットを脱いだだけの姿でベッドに寝転んだ。メリッサは内心では、アリスには是非とも愛らしい寝間着姿を披露してもらいたかったのだが、この状況でそんなことを言い出すほどの馬鹿ではなかった。

 仕方ないので、メリッサは脳内でアリスを着せ替えして、それで満足した。

 コルセットベストを外し、ジャケットを脱いで、メリッサもベッドに横になった。

「……いいベッドじゃないの」

 転がってから、メリッサはベンジャミンの借宿のマットレスが、自分の家のものより格段にスプリングが利いていることに気づいて、悔しそうに呟いた。

「メリッサは、これより固いところで寝ていますか?」

 アリスがおそるおそる問うてくる。

 お嬢様らしいアリスにとっては、おそらくこのベッドでも固いのだろう。

「三倍固いわね」

 その返事に、アリスは少し困ったように小首を傾げ、それから返事をした。

「……あのダイヤで、これの倍は柔らかいマットが、多く買えます」

 気の利いた答えのつもりなのだろう。

 メリッサは、美少女のその答えを、笑って受け止めた。

「それは素敵ね……でも、他にも欲しいものがいっぱいあるから、マットは一つでいいわ」

「他に何が欲しいのですか?」

「そうねぇ……」

 メリッサはごろんと仰向けになり、天井からいくつもぶら下がった、トルコ調のランプを見上げた。色とりどりのガラスを嵌め込んだホヤから、暗くなりはじめた室内へ、虹のように彩り豊かな光が溢れている。一応売り物らしく、値札がぶら下がっていた。

「自分だけの家ね。借家じゃなくて、自分の持っている家」

 飲んだくれの父親のいる家ではなくて、自分だけの特別の家。そこに柔らかなマットレスを敷いた、可愛いベッドを置いて、そこでぐっすり眠りたい。

「それから、猫を飼いたいわ」

「猫? 何故です?」

「帰った時に自分一人だと寂しいでしょ? 猫なら犬ほど手が掛からないし、ネズミも捕ってくれるし、それに何より、柔らかくて、ふわふわしていて、可愛いもの」

 メリッサは想像してみる。

 小さくて良い。自分だけの家。玄関を入ったら、鉢植えの花が咲いている。暖炉のマントルピースの上には、銀製じゃなくて真鍮製でもいいから、燭台を二つ飾ろう。お茶の時間を楽しめる、小さなテーブルに椅子を一つ。ティーセットは、どこのメーカーのにしようか。ロイヤルドルトン? エインズレイ? それともウェッジウッド? とにかく一つでいい。とっておきのティーセットを。

 それから、白くてふわふわした猫を飼おう。目は青いのがいい。でも、自分に懐いてくれるのなら、縞猫でも斑猫でも、いっそ黒猫でもいい。そして似合う色のリボンをつけよう。

 想像してみると、それらはとても素晴らしかった。

 受け取った、たった二粒のダイヤモンドで、この夢は叶うかもしれない。

 メリッサは、アリスに倣って肌着の内側に隠したダイヤを、そっと撫でた。

「可愛い白い猫に、ピンク色のリボンをつけて。その子はミルクを、私は紅茶を飲むの。フォートナム&メイソンの紅茶を……そうね、ロイヤルウースターの花柄のティーセットで」

 アリスは、楽しそうに微笑んだ。

「ロイヤルウースターが好きなんですか?」

 その質問に、メリッサは少し困った。好きかどうかと言うほど、知らない。

「王室御用達って、憧れなの。別にエインズレイでも、ミントンでもいいんだけど。紅茶だって、別にフォートナム&メイソンじゃなくて、トワイニングでもいいんだけど。でもとにかく、何だかお洒落な人たちが楽しんでいるものに触れたら、自分もお洒落になった気がするのよ」

 アリスは、興味深そうに目を見開いた。

 きっと大陸にいた頃の彼女は、お洒落を発信する側だったのだろう。

 ここばかりは、どうやっても近づけない生まれの差だな、とメリッサは思う。思うけれども、別にメリッサは、アリスのそんないかにも高貴な生まれのような態度で、気分を悪くしたりはしなかった。悪くしようにも、アリスは可愛すぎて、美少女過ぎて、そんな気が起きない。

「私ね、下層階級ギアーズ出身でしょ……お貴族様とか正直イメージわかないのよ。なんかすごいドレス着てるなー、とか、お屋敷にそんなにたくさん部屋をつくって、いったい何に使うのかなー、とか、全然わかんない。収入が何千ポンドだとか、ちっともピンと来ない。今日ターキッシュ・デライトを買うのに使った1シリングだって、私にはわりと大金なの。だからダイヤをお金に替えたら、憧れにちょっと触れたいのよ」

 何故こんなことを喋るのか、メリッサには自分でも分からなかった。

「もっとたくさん、欲しいものが買えますよ?」

 そのアリスの言葉で、あ、とメリッサは気がついた。



 そうだ。ちょっとでいいのだ。

 だってたくさんお金を持って、そのお金で豪華なお屋敷を買って、飾り立てた服をマリー・アントワネットみたいに何百着も仕立てても、メリッサには、それにふさわしい振る舞いが分からない。そんな服を着て出入りするようなところは、メリッサの生きてきた世界にはどこにもない。そして、そんな服を着なければ出入りできないようなところへ行っても、メリッサは孤独にしかなれない。

「お金があっても、人は幸せとは限らないわね」

 いささか唐突なメリッサの言葉に、しかしアリスは神妙な顔をした。

 メリッサはランプの光を見上げたまま、言葉を続ける。

「私やっぱり、根っから下層階級ギアーズなんだわ。身の丈に合わないほどの贅沢なんて、想像も出来ないし、そんなことをしたら、きっと不幸にしかなれない。だからこのダイヤが何千ポンドに、たとえ何万ポンドになったとしても、大きなお屋敷なんて買う気にならないし、レースどころか真珠や宝石まで散りばめたようなドレスは、絶対に要らない」

 うん、と一人頷く。

「私はね、自分の幸せになれる小さな空間があったら、それでいい」

 アリスがメリッサの顔を覗き込んでくる。逆光で、表情はよく見えない。

「……アリス?」

 ぽたり、と水滴がメリッサの頬に落ちた。

 アリスが泣いていた。

「どうしたの?」

 慌てて身を起こそうとしたところへ、アリスが抱きついてきた。

 えっ、何コレご褒美の一つ? と通常運転の思考が働く一方で、どうしていきなりアリスが泣き出してしまったのか、わからなくて戸惑う部分もある。

 アリスは涙声で、メリッサの腕を強く掴みながら、言った。

「そうです。十億グレインのダイヤモンドを持っていたって、断頭台ギロチンに掛けられたら、そんなの何の価値もないです。だって、魂はあの世に行きますが、ダイヤはこの世に残ります」

 だけど、とアリスは、メリッサの傍らに転がったまま、低い声で続ける。

「だけど残されたダイヤが、誰かの命を救うこともあります」

「……今のあなたみたいに?」

 アリスは黙って頷いた。

 彼女がここまで喋るというのは、つまり聞いて欲しいのだろうか。

「『ミェツタテリィの遺産』って言ってたわね?」

「はい」

「あのダイヤは、アレクセイ・ミェツタテリィと関係あるの?」

「……あると言うことも不可能ではない、です」

 ものすごく微妙な言い回しだった。

 メリッサは少し考えた。

「昼間あなた、『魂の翼』を引用したわよね? 読んだことがあるの?」

 考えたにしては頭の悪い問いだった。航空関連産業につながりを持つものなら、『魂の翼』を読んでいないことの方が珍しい。部品組み立ての単純労働に従事する者でさえ、工場の方が飛行文化の発展の歴史を教える教材にしているために、多少なりとは内容をかじっているほどだ。

 アリスは案の定、頷いた。

 ただし、単純な肯定では終わらなかった。

「私は『魂の翼』を、全て読んでいます」

「全て? 出版された部分を、っていう意味?」

「いいえ……出版されなかった部分を含めて、全て、です」

 アリスの答えに、メリッサはわずかの間、息を詰めた。

「スターゲイザー財団は、アレクセイ・ミェツタテリィの遺書の一部だけを公開しています。私は公開されていない部分を読むことが出来た立場です」

 アリスは財団を敵に回すつもりでいる。ということは、アリスはきっと、財団の内部の人間ではない。財団の関係者は世界中にいるが、そんな内部情報を知り得る財団支部の重要な地位に、十二歳の少女などいまい。

 とすると、ミェツタテリィ氏が個人的に遺書を残す相手、ということか。

「もしかして、あなた、ミェツタテリィの娘?」

 メリッサが「発見した(ユリーカ)!」と思った答えは、ばっさり切られた。

「アレクセイ・ミェツタテリィが自殺したのは、私の生まれる前です」

 メリッサはまじまじとアリスを観察し、それから不審がられない程度に体の感触を堪能……もとい、調べてから、ああ、と頷いてため息をついた。

「あなたはたしかに、十四歳だか五歳だかには思えないわ」

 十四年前に死んだ男に、十二歳の娘がいるわけがない。そしてアリスは、どう見てもどう触っても、十二歳ぐらいが妥当だろう、小さな少女だった。最初に見た時は十歳ぐらいだと思ったのだ。十二歳より上ということはないだろう。

「じゃあ、孫なの?」

「残念ながら、それも違います……正解を言うと、私の両親はアレクセイ・ミェツタテリィの友人だったのです。私とミェツタテリィ氏には、血縁関係はありません」

 おや、とメリッサは首を傾げた。

「アレクセイ・ミェツタテリィの友人たちって、彼と一緒に、革命の起きたロシアから亡命してきたんじゃなかったの?」

 そして、彼らがスターゲイザー財団を創設した、はずだ。

 アリスは、少し首を傾げながら、メリッサの顔を覗き込んだ。

「全員が亡命したわけではありませんし、行き先はイギリスだけではありません。アメリカに亡命した者もいます。そしてアレクセイ・ミェツタテリィの友人は、ロシアの中にしかいなかった。そういうことはありません」



 言われてみればそのとおりだ。ミェツタテリィ氏が、革命で亡命しなければならないほどの身分、おそらくは貴族であっただろうことを考えれば、むしろ国内にしか友人がいない方が変だ。

 アリスは、何かを決心したように、低い声で言った。

「私の両親はオーストリアにいたのです」

 オーストリア。

 先の大戦で解体した帝国のうちの一つ、ハプスブルク帝国のお膝元だ。

 あの大戦では、その最中に革命が発生してロシア帝国が、戦後すぐに革命が発生してオスマン帝国が、同じく戦後に「民族自決」の概念の元でハプスブルク帝国が、そして敗戦国としてドイツ帝国が、解体された。そのかわりに大日本帝国が極東で勢力を拡大したが、ヨーロッパにおいて先の大戦は、連綿と続いてきた帝国たちを、次々に壊していった戦争でもあった。

「……アリスの両親は、貴族だったの?」

「いいえ。ソ連式に言うと、技術官僚テクノクラートです。お貴族様(アリストクラート)ではありませんでしたよ」

 その答えが、何かメリッサには引っかかった。

(ハプスブルク帝国の認める、高等専門技術の持ち主って……)

「まぁ、それなりに裕福ではありました」

 そう付け足すとアリスはベッドの上に立って、天井の明かりを消して回った。

「寝ましょう。ミスタ・エヴァンズは、きっと明日もセント・ジェームズ・パークに来る」

「そういう手筈なの?」

「はい。それ以上の連絡が出来ていません。なので、現状はそうするしかないのです」

 貴重なダイヤモンド二粒が手付け金とはいえ、なかなか心細い仕事だ。

「ミスタ・エヴァンズの住所は?」

「ロンドン市内をあちこち移動しています。わかりません」

 そんな面倒くさい相手に、わざわざアポを取る必要があるのだろうか。

「いっそ、植民地省に直接乗り込んだら?」

「こんな胡散臭い子どもを、大英帝国の支配の中枢に案内しますか?」

 言われてみれば、門前払いは間違いない気がした。

 アリスも今は着替えてしまって、飛行師スワロウ見習いの下層階級ギアーズの子ども、といった見た目になっている。そして昨日の服装では、まず間違いなく悪目立ちする。

 ううむ、と考え込むメリッサに、追い打ちが掛かる。

「それに仮に植民地省が受け付けてくれたとして、その後私が拘束されたらどうします? ミスタ・エヴァンズではなくて、英国政府に」

 それは英国の不利ではないような気がしたが、アリスが続けた言葉に、メリッサは「あ」と間抜けな声をもらして、その選択肢は選んではならないことに気づいた。

「英国政府は私に、兵器開発のために知識をよこせと、必ず言います。私の知識は戦争を防ぐ力をつくれますが、使い方によっては恐ろしい兵器になります」

「それはダメだ……空を戦場にしないために、アリスに協力してるんだから」

「はい」

 頷いたアリスは、なのでエヴァンズ氏も、居場所をさとられにくく動かざるをえないのだろう、と付け加えた。

 政府にも財団にも、ましてや他国のどの機関にも、アリスを奪われてはならない。そうしたら、アリスの知識は封印されることなく、空はさらに悲惨な戦場になるかもしれない。

 攻撃は最大の防御ともいう。アリスの知識がどんな凄まじいものかは知らないし、知りたくないし、知っても理解できないだろうが、戦争に使う気満々の人間に渡してはならないものだ、ということだけは、メリッサは改めてしっかりと認識した。

 そしてきっと、アリスを殺さないで、しかもその知識を戦争に使わずにいてくれるのは、おそらくエヴァンズ氏だけなのだろう。

 メリッサは、アリスが殺されるのは嫌だ、と思った。

 決して、類い希なる美少女だから、だとか、それだけの理由からではない。もちろん、サラサラの金髪も、すべすべのミルク色の肌も、煙もなく晴れ渡った空のような青い目も、ピンク色の唇も、何もかも素晴らしいのは確かだ。それが失われるのは惜しいと思うのも、まぁ、確かだ。

 でもそれ以上に、一人の子どもとして、笑って生きていて欲しい。

 たった十二歳なのに、自分よりも苦しい局面にいる。

 メリッサは貧乏な労働者で、親父は飲んだくれのろくでなしだけれども、気安く話せる相手もいるし、殺される恐怖と背中合わせになんか生きていない。

 ダイヤモンドを持っていても、アリスは孤独だ。ジェミルも今はいない。

 やましい心なく、ただ家族を抱きしめるように、メリッサは自然とアリスを抱え込むように眠りについた。横にある体温は、ただ小さくて温かかった。

 しかし、この眠りはつかの間の平穏だ。

 ソヴィエト連邦のスパイ三人、スミノフ、ミールナ、フィドラーと、雇われ飛行師スワロウである「ペルツォフカ」も。

 MI5のマッカランと、MI6のディーンストンも。

 そして、ジェミルを襲った謎の男たちも。

 皆、この「アリス」を求めている。

 たった一人の少女の頭脳に隠された秘密を、誰もが握りたがっている。




MI6担当官氏の名を、エマソンからディーンストンに変更。英国政府系は、ウィスキーのシングルモルトの蒸留所で統一。いつもは名前にわりと凝るのですが、この話は主要人物以外は、お酒系で行こうと思います。


といいながら、人によっては由来つきの名前を出すのが私ですが。

ちなみにメリッサの名前は、昔々猛威をふるったコンピュータウィルスと、ハーブの名前から。アリスについては色々ありますが、実はメリッサの考える「Alice」の綴りではなく、12~13世紀の古い綴りである「Alix」(現在は「アリックス」と発音するが、当時は「アリス」と発音)です。


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