ソヴィエトから伸びる手
※ !このお話は架空世界が舞台です! ※
英国には情報機関が二つある。MI5とMI6である。両方ともMilitary Intelligenceすなわち陸軍情報部という頭文字を冠しているが、それはMI5が陸軍情報部第5課を前身とし、MI6が陸軍情報部第6課を前身としているからである。現状は陸軍だけではなく海軍空軍とも関係を持つ。
MI5は、英国の情報を他国に持っていかれることを防ぐ防諜機関であり、後者MI6は英国を有利にするために他国から情報を収集する諜報機関である。
きわめて簡単に言うと、MI5の方は主に国内が戦場であり、MI6の方は逆に国外が戦場だ。しかし、MI5が英国内で捕まえたスパイを使って、その雇い主の国に偽情報を掴ませることもあるし、両者の仕事場は重ならないわけではない。
何が言いたいのかというと、世界に冠たる大英帝国も、対抗部局の足並み不一致という、大組織の宿痾に蝕まれていた、ということである。
メリッサの生活する大英帝国の情報部は、ただいま、ドーヴァーを越えてやってきた「アリス」の情報について、MI5とMI6が互いの持ち札を見せたり見せなかったりと、実に大人げないが関係者個々にとってはそれはそれは必死な戦いの最中だった。
MI6にすれば、凡人の想像など及びもつかぬ驚異的な技術をその頭脳に宿す「アリス」は、敬愛すべき国王陛下への素晴らしい手土産であった。それが、国境を越えて英国へホイホイ入って来てくれたまでは良かったものの、フツッと足取りが途絶えてしまったのだ。
国内の監視網はMI5の管轄下である。
MI6としては「アリス」の情報と身柄とを確保して、是非とも手柄にしたかった。
一方のMI5としては、これはライバルを出し抜く素晴らしい機会だった。張り巡らせた情報網を活用してMI6に先んじれば、手柄はこっちのものである。
しかし状況は双方ともに芳しくない。
MI6は「アリス」の居所を突き止められる情報網を持たず、逆にMI5はそれを持っている。しかしMI5は、MI6の情報提供がなければ、その情報網を機能させて、「アリス」を確保することは出来ない。なぜなら、MI6は「アリス」の情報を持っているが、MI5はそもそも「アリス」のことをよく知らない。
両機関が連携すれば、たちどころに解消されるこのくだらない問題は、双方ともくだらないとは信じていないプライドのために、まさに高き壁となって立ちはだかっていた。
英国情報機関が、互いの威信にかけて情報の出し惜しみをしている有り様を、とっくりと盗聴して、ニヤリと唇の両端をつり上げたのは、他国のスパイたちだった。外部の敵対者より、内部の非協力者の方がよほど恐ろしい、とは、実によく言ったものである。
いやいや英国の防諜機関であるMI5が、そうそうアッサリ盗聴などされるのか? という疑問があるかもしれないが、残念ながら情報戦においては、CIAを擁するアメリカ合衆国と、ГПУを擁するソヴィエト連邦の方が、現状では優位にあった。
特に、反革命分子の摘発のため、ソヴィエト連邦のボルシェヴィキ政権は、その成立初期から秘密警察として知られる情報網を整備しており、その脅威は現状絶賛組織対立中の英国両機関とも承知のところである。その秘密警察を前身とする、現ソヴィエト連邦の情報機関ГПУは、正式名称を「ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国内務人民委員部附属国家政治局」という。ロシア語ではГосударственное политическое управлениеといい、日本語では略して「国家政治保安部」とも呼ぶ。ラテン文字表記の略称である、GPUの方が有名かもしれない。
この組織のおそるべき諜報能力を、英国のMI5もMI6も、決して過小評価はしているつもりはなかった。つもりはなかったが、しかし、その恐ろしさの真髄に気づけないからこそ、情報組織はまさに恐ろしいものとして存在するのである。見えない、見られないからこそ、スパイ組織は存続できるのだ。ことこういった機関に関しては、正しく脅威を認識できるという話自体が夢物語である。
ロンドンのソ連スパイたちの隠れ家には、現在4人がいた。
1人は何の変哲もない、三十代後半ぐらいと思しき男である。身長は、英国の単位できっかり6フィート。筋肉質でも何でもない平凡な市民の体つきだ。白く長い指は一見優雅と形容したいほどだが、ぶあついペンだこが全てを台無しにしている。シャツの袖口の繊維が、擦られすぎて光沢を放つほどになっていることからも、デスクワーカーであることは明白である。胡桃色の髪をオールバックにまとめた彼は、明るい灰色の目で、残る3人をぐるりと見回した。
「どうだ? これが大英帝国が誇る情報部の内情だよ」
皮肉たっぷりの言葉に、不機嫌そうな顔をした黒髪黒目の男が、くぐもった声で返事をした。きつい東欧訛りである。
「欲に目の眩んだ連中というのは、実に分かり易いもんだ」
年齢は五十代の半ばぐらいか。癖の強い黒い巻き毛は、ごま塩のごとく白髪交じりで、呼びかけた男の方とは対照的に、日に焼けた肌をしている。手もごつごつとした労働者の手だ。甘皮や爪の間についた落としきれない黒い汚れが、貧血気味であることを示す爪の白い半月模様と、不思議な対比をなしている。服装も、最初に口を開いた男が、着古した服なりに清潔感を持っていたのに対して、いかにも肉体労働者然とした機械油まみれの汚れたものだ。
その真横にいた、少し臭いを堪えるように鼻の穴を縮めていた男が、ついに耐えかねてか、椅子ごと肉体労働者氏から距離を取った。こちらは二十代のようやく半ばといった感じである。立てばデスクワーカー氏のつむじを容易に見られる程度に上背があるが、その姿を形容するに相応しい語は「ひょろり」であり、運動などすれば死んでしまうのではと思えるほどに細い。そんな体には不釣り合いに大きな頭が乗り、さらに真っ直ぐな樫色の髪の毛を、前髪も含めて肩につくほどのばしている。そこに縁の太い四角い眼鏡まで掛けているから、つついた瞬間に上下が逆転しても誰も驚かないだろう。
「せめてシャワーは浴びてくれないか?」
ずり落ちてきた眼鏡を人差し指で押し上げながら、彼は、ほぼ間違いなく仕事上がりに来たであろう肉体労働者氏に向かって、無情にもそう言った。
「けっ、これだから労働を知らん学生は」
「共産主義社会実現のために勉学に励んでいる学生、と言ってくれたまえ」
つんけんと言い返す学生君に、肉体労働者氏が目をぎらつかせる。
「うるっさいわね」
割って入ったのは、4人の中で唯一の女だった。人参にも喩えられそうな赤毛に、海のように濃い青色の目をしている。何より異様なのは髪型である。右側頭部を短く刈り込み、残る部分の髪の毛は、うねりながら背中の半ばまで伸びている。
今ここでこそ特徴的に見えるが、各々の日常の領域に戻れば、それなりに平凡に埋もれられるだろう3人の男たちとは違い、彼女だけは人目を惹かずにはおかない「外側」の人間だ。
「まぁまぁ、アビゲイル。そうキリキリしないでください」
デスクワーカー氏が、彼女にゆったりと話しかけた。アビゲイルと呼ばれた彼女も、デスクワーカー氏には一目置いているらしく、大人しく口を閉じる。
「同志ミールナ。勤勉な労働者のあるべき姿を、この学生君に教えてくれたことを感謝するよ。共産主義社会とはまさに君のような素晴らしい労働者たちによって成り立つのだ。」
デスクワーカー氏は、肉体労働者氏改め、暗号名ミールナに、穏やかに微笑みかける。こう来ると、最後になった学生君に、一番いやなクジが回ってくる、のだろう。少なくとも学生君はそう感じて、頬を引きつらせ、心持ち身を後じらせた。
「さて、それから同志フィドラー……」
フィドラーと呼ばれた学生君は、デスクワーカー氏が詰めてきた距離分、きっちり後じさりしながら、辛うじて「何でしょうか、同志スミノフ」と返事をした。
スミノフ氏は慈愛を込めた微笑みの顔に、まったく笑っていない目を見開いた。
「資本家どもを駆逐した暁には、労働者たちこそが世界を動かすのだよ? 同志フィドラー、君がその意味をより深く胸に刻んでくれることを、僕は切に願ってやまないね。わかるかい?」
フィドラーは俯き、小声で「共産主義革命の主体たる労働者階級の重みを十分に認識していなかった点について、自己批判します」と答えた。
一連のやりとりを見ながら、アビゲイルは鼻を鳴らす。
「ぶっちゃけ、あたし、イデオロギーなんて興味ないのよ。階級闘争とか共産主義化とか、あとトロツキー氏のなんだっけ? 世界革命?」
「世界革命だ」
フィドラーが、断じるがごとく重々しく頷いた。
「それもぶっちゃけどうでもいいんだけど、とにかく、この馬鹿どもを出し抜いて『アリックス』を確保して見せれば、私に報酬が来るってことは間違いない、のね?」
フィドラーとミールナは、その態度にいささか気分を害したようだったが、スミノフ氏は薄笑いを浮かべながら、そのとおりです、と答えた。
「あの男が英国に亡命したせいで、我々の航空機開発は英国に後れを取りました。我々は、本来ならばソヴィエト連邦のものであった技術を取り戻したい。そのためには、英国製の最新式の機体を完璧に操り、スターゲイザーの連中相手にも気後れしない飛び手である、アビゲイル、君の力が必要なのです。君は共産主義革命のための同志ではありませんが、『アリックス』確保という目標を共有する協力者です。我々は君の能力に敬意を払い、『アリックス』の持つあの男の『遺産』を確かに渡しましょう」
その返事で、アビゲイルは一応の満足は得たようだった。
「じゃあ、しばらくは『ペルツォフカ』って呼ばれても返事するわね」
「ありがとう、ペルツォフカ……では、作戦開始といきましょうか」
スミノフの言葉に頷き、ミールナがロンドンの地図を広げた。
電話とは、盗聴されるものである。
MI5とMI6は、ようやく縄張り争いを終え、互いの情報を共有した。
すなわち、MI5は『アリス』が、単なる国王陛下への献上品にしてはあまりにも危険な、他国に取られては大変まずい、英国にとって非常に重要な人物であることを理解した。そこまでのカードを切ってしまったあたりに、事情を知っているMI6の焦りがよく見える。だがここまでの事情だと知ってしまうと、MI5もライバルの弱みを握った喜びより、今までの張り合いで失った時間の恐ろしさについて、遅ればせながら大いに焦らざるを得なくなる。
そうして『アリス』の現在の居所をつかむべく、各々から一人ずつ出された担当者二人は、ロンドンの地図を見下ろした。話しはじめたのは、MI5からの担当者だった。
「ここの管制灯台からの報告によれば、今日の午後4時の15分前に、配達屋組合の一人から、医務官のモーゼス・シュワルツへ、救急の要請が入っている。『不思議の国のアリス』のような少女と、その護衛と思しき男が、数人組の男に襲われ、護衛の方が銃で撃たれた、と」
「ほうほう」
「シュワルツからの警察へ上がった続きの報告には、護衛の男は病院に搬送されて一命は取り留めたものの、まだ意識は戻らないらしい……で、こっちは秘蔵の情報だが」
秘蔵の情報という語の意味を、MI6からの担当者は的確に理解した。頷いて、このひとときの相棒たるMI5からの担当者に、続きを述べるように促す。
「通報者の労働者番号は『0B-0783』だ。身元は今大急ぎで割ってるが、どうやら『メリッサ』というらしい。通話記録に、モーゼス・シュワルツがそう呼んだことが残っている」
「……女の飛行師とは、また珍しいな」
「多分ほどなく割れる……で、女の飛行師が金髪の少女を助けたという目撃情報は、警察の方でも結構まとまっている。どうやらセント・ジェームズ・パークで一度着陸したあと、二人乗りでテムズ川のこの辺りへ向けて飛んだらしい」
MI5担当官は、テムズ川沿いの一部を手のひらで撫でて示す。
「で、この地域にある、認可済みの揚発場が、この3つだ」
青い玉のついた針を、MI5担当官は、地図にプスプス刺す。
それにしても単座式飛空艇で二人乗りが出来るとは、なかなかの技量の持ち主だ。貴重な人材だなとMI6担当官は脳内で呟く。空軍は是非確保しておきたいだろう。何も分からずに巻き込まれただけならまだいいが、事情を全部知って「アリス」に関わっているとなると、これは要注意だ。
おそらく、700番台だからどう考えても一番警戒すべき人物ではない、だろうが……と一人頭の中で考えるうちにも、つかの間の相棒たるMI5担当官の説明は続く。
「この3つの揚発場の離着陸の提出記録を、今、照合しているところ……」
と、見計らったようなタイミングで、電話のベルが鳴った。
「ああ、こちらマッカラン……なんだって?!」
MI5の担当官は、きょろきょろとせわしなく目を動かした。こいつを国外の工作員にしたら、挙動不審で疑われること間違いなしだと、MI6の担当官は思う。
「引き続き、くっつけろ。切り上がったら確保だ! おい、ミスタ・ディーンストン!」
電話を切ると、マッカラン氏は興奮で頬を紅潮させていた。
「いいニュースだぞ、相棒。護衛が運ばれたという病院界隈の公衆電話で、モーゼス・シュワルツが電話を掛けていた。通話先と話の内容とが判明した」
「……これから公衆電話の使用には慎重になろう」
MI6担当官のディーンストン氏は、明らかになった裏事情に眉をひそめた。
MI5のマッカラン氏は、気にする様子もなく豪快に笑う。
「ソヴィエトの盗聴はもっとひどいらしいがな! とにかく、『アリス』と『メリッサ』が逃げ込んだのは、古着屋の揚発場だ。家主はベンジャミン・シュムエレヴィッツ。大戦直前に大陸からこっちに越してきた。戦時中に物資補給で稼いだ、商売上手のユダヤ人だ」
話の内容に、ディーンストン氏は表情をよりいっそう引き締める。
「ユダヤ人か……男爵との関係は?」
マッカラン氏はその問いで、ディーンストン氏の抱く危惧を有る程度理解した。
「そっちは知らんが、どうやら『アリス』は、植民地省の官僚『エヴァンズ』と会う予定で、この英国に来たらしい。エヴァンズと男爵の関係なら、洗えるかもしれん」
「なら急いで頼む。男爵が噛んでいるにしろ、いないにしろ、植民地省の官僚と『アリス』をつながらせるのは危険だ!」
咳き込むように言い募るディーンストン氏に、うむ、とマッカラン氏は頷く。
「俺たち以外の誰が確保しても、英国にとっては危険だ」
ソ連の工作員は、全員ヴォトカの名前が暗号名。男の工作員に女性形の暗号名なんてよくある話。本文中には書いてませんが、スミノフ氏が調教師です。傭兵の「ペルツォフカ」は、唐辛子入りヴォトカ。
東欧系の移民の古着屋でシュムエレヴィッツとくればね……というわけで、シュワルツ氏に引き続きユダヤ人登場。あんだけ色々書けば、誰でも分かるだろう。たぶん。ユダヤジョークの「無駄な質問」ほぼそのままです(以下に記載。聞いた話なので出典を言えと言われると困るが……ミルトスあたりから出てるかも)
……法廷にて、裁判官が証人である一人の男の身元を確かめている。
「名前は?」
「アブラハム・コーヘン」(※コーヘンはユダヤ教徒の特徴的な姓)
「出身は?」
「ピンスク」(※現ベラルーシの町。ユダヤ教徒の多い町だった)
「職業は?」
「古着屋」(※ユダヤ教徒に多い職業の一つ)
「宗教は?」
「旦那……ピンスク出身の古着屋のアブラハム・コーヘンが、キリスト教徒だなどとお思いで?」




