永遠の輝き
一も二もなく選ばねばならないのはタイツである。できればロンドンの煤けた空を飛ぶ以上、色は黒っぽい方が好ましい。飛行師用の耐熱耐寒性能つきの。
だが、アリスがまだ年端もいかない、聞くところによると十二歳になったばかりの少女で、彼女のサイズにぴったりのタイツがない。なので、少しだぶついたのは仕方なかろう。
ブーツは同じサイズの、まだそれほど傷んでいないものがあった。茶色い革の、編み上げ靴だ。少しばかり引っ掛かりが心配だが、操縦者ではないから大丈夫だろう、とメリッサは考えた。
レースたっぷりのペチコートとドロワーズには、残念ながらお暇を出す。アリスは特にドロワーズまで脱ぐことにはずいぶん抵抗があったようだが、状況が状況なので、渋々といった顔で脱いで渡した。少し煤けていたが、上の服も合わせれば、十分な品だろう。ベンジャミンは本当に商売が上手い。かわりに厚手のスパッツを引っ張り出した。結構ゴワゴワしている。多分、洗濯で縮んだのだろう。
シュミーズ一枚はそのまま残して、次は上に着るものだ。
サイズの近い丈夫なブラウスと、丈の短めのパンツを探す。ロングスカートなんて穿いたら、下手をすると焦げる。燃える。メリッサとしても非常に不本意ではあるが、小型飛空艇で移動するなら、スカートよりはパンツの方が適当なのだ。今スカートを穿いている自分のことは棚に上げて。
煤けたブラウスを探し当てて、アリスに羽織らせる。
うん。似合わない。
やっぱりアリスはあのドレスが一番似合う。
しかし、そんなことを言っていられる事態ではないのだ。
カーキ色のパンツを発掘した。ウェストのゴムが伸びているが、やや濃いが似た色のボウタイがあったので、それをベルト代わりに通して、体の左前でリボン結びにした。ついでに小物置き場を漁って、焦げ茶色のループタイを引っ張り出し、灰色に煤けたブラウスの襟元につけた。大人用のひもは長すぎるので、これもリボン結びにする。
少しサイズが大きいが、ジャケットもあった。襟には取り外し可能なファーがついていたが、ちょっといただけない感じにくたびれいていたので、お引き取り願った。そのままだと空を飛ぶのは寒そうなので、青と水色が、まだらにぼかし染めされた薄手のショールを、マフラー代わりに首元に巻いてやる。せっかく結んだループタイが隠れた。まぁ、いいか。
さて頭は、と探してみると、子ども用の飛行帽がなぜかある。持ってみると、航空兵のそれのミニチュアに作ってあるようで、ごっこ遊びの道具としては、なかなか良くできた代物だった。裏表をひっくり返すと、豪快な縫い目が丸見えになるが。
ゴーグルまでは流石にないだろうなぁ、と思っているが、驚いたことに、ある。アリスにはちょっと大きいが、着けて着けられないことはない。
手袋は指先が出るタイプのものがあった。多分、元は指先まであったのを切り落としたのだろう。使い込まれた革の感触は、メリッサには悪いものではなかった。
仕上げに、長い金髪を一本の三つ編みにする。もったいないとは思うが、流しっぱなしだとどこかに引っ掛けそうだ。ついでに、さっき膝に乗せて飛んだ時も思ったが、たまに毛先が鼻のあたりをくすぐるので、くしゃみが出そうになるのだ。もちろん必死で堪えたが。
「うん、こんなものね」
大きめの姿見の前に立たせると、アリスは不思議そうに、鏡の中の自分を見た。
「どうかな?」
メリッサの問いに、アリスは大きく一つ頷いた。
「……これなら、目立たないです、きっと」
何をどうあがいても誤魔化せないのは、その愛らしい顔立ちだが、メリッサはこれに手を加えることなど、どうしたって出来ない。飛んでいれば、そのうち煤けるだろうが。
「じゃ、こっちの服は持っていくわね」
そう声をかけると、何故か慌ててアリスは両手を振った。
「私が持っていきます!」
「いいわよ。私は労働者よ?」
「意味ないです!」
よっぽど焦ったのか、変な英語が飛び出した。
「へ?」
面食らって立ち止まったメリッサの手から、アリスはドロワーズを奪い取った。まさしく、そう形容していいぐらいの勢いで、ドロワーズはひったくられた。
メリッサは、さすがにドロワーズの匂いまでは嗅がないつもりなんだけどな、と、変態的な弁解を脳裏にめぐらせた。ひっくり返せば、服の匂いは嗅ぐつもりだった、ということである。変態だ。
アリスは、ひったくったドロワーズの裏表を捲りかえていた。ごそごそと、布地の波間をまさぐっている。何かを探しているらしい。
不思議に思って注視していると、ウェストや太もものサイズ調整のリボンを締める部分に、小さな布袋がくっついていた。親指の先ほどの、本当に小さな、それと知らなければ簡単に見逃してしまいそうな袋だ。アリスはそれを留めている糸を切ろうと、ぐるぐる首を振った。
「はい」
メリッサはとりあえず、便利用に持ち歩いている小型ナイフを差し出した。アリスは、一瞬しくじったとでもいうような顔をして、それからナイフを受け取った。
プツプツと糸を切り、全ての小袋を回収する。
「……はい」
今度こそアリスは、ドロワーズをメリッサに手渡した。
小袋の中には、何が入っていたのだろうか。
あんなにも念入りに隠すなんて、とんでもないものが入っているに違いない。
そんなメリッサの物問いたげな空気を察知して、しかしアリスは先に立って、ベンジャミンのいる部屋の方へと歩いて行った。
席に着くと、アリスはじっとメリッサを見た。
「メリッサ、私はあなたについて知りたいです」
自分の名前は喋らなかったのに、とも思ったが、男どもに襲われた可哀想な美少女が怯えるのは致し方のないことだ、と納得して、メリッサは頷いた。思考がそこで止まるのがメリッサである。
「私の名前は、メリッサ・ベル。十七歳。配達屋組合の所属で、毎朝新聞配達をしてる。飛行師の国家資格を取ったのは十五歳。小型飛空艇に乗り始めたのは十三歳からよ。あれは元は兄のものなの。先の大戦で兄が死んで、他の兄は海軍と陸軍に行くから、私が譲り受けたってわけ。だから航空兵仕様の部分が、まだ若干あるんだけど、私自身は全然軍とは無関係」
ゆっくりした口調で話す。
アリスは何度も頷きながらそれを聞き、仕上げにベンジャミンを見た。
ベンジャミンはその意図を察し、しっかりと頷いた。
「俺の知っているとおりだ」
「わかりました」
頷き、それからアリスは、少し考え込むように、眉根を寄せた。
美少女はそんな顔をしていても可愛い、と、メリッサはまた変なことを考えた。
「……ミスタ・シュムエレヴィッツ」
「ベンヤミンでいいぞ、アリス」
気楽な調子でそう言ったベンジャミンに、アリスは少し微笑んだ。
「ベンヤミン、質屋は知っていますか?」
またもの問いに、ベンジャミンもメリッサも、顔を見合わせた。
「お前さん、えらく質屋にこだわるな」
「こだわります……これはそう簡単には、妥当な査定で換金できませんから」
アリスは小袋の一つを取り出し、中身をテーブルに出した。
出てきたものを見て、メリッサはもちろん、ベンヤミンすらも、驚きに目を見開いた。あまりに驚きすぎて、ちょっとの間声も出せないくらいだった。
小袋から出てきたのは、ダイヤモンドだった。
きらきらと眩い輝きを放つその透き通る小石たちは、ガラス玉の輝きに慣れた貧乏人のメリッサの目に、はっきりとした格の違いを見せつけた。
アリスは、そのうちの一粒を取り上げて、はぁっと息を吐いて曇らせた。
「ベンヤミン、宝石商に知り合いはいますか? 鑑定させれば本物だと、はっきり分かります。これはダイヤモンドです」
瞬く間に曇りの消えたその粒を、アリスは古着屋に渡す。
「いや、俺だって、これが本物だってぐらいは分かる」
ベンジャミンはいささか震える手で、その小さな宝石を受け取る。
「私は人を雇いたいのです。うまく目的の人物に会うために」
その対価にこれを払います。
そう言って少女はダイヤモンドを、砂粒のように無造作にテーブルに広げた。
「ちぃと、支払いすぎじゃないか?」
ベンジャミンの問いに、アリスはきっぱりと答えた。
「命は一つ。お金で買える命なら私は買います」
それもそうだが。
と呟くベンジャミンを後目に、メリッサはアリスを見つめた。
「これを見せたってことは、私は雇われる候補なの?」
「はい。メリッサなら信じて良いのでしょう?」
そう問いかける顔が、あまりに真剣だったので、メリッサは内心のヨコシマな思いが、思わず綺麗さっぱり浄化されてしまうのを感じた。
「私の存在は、英国の行方に関して非常に重要なものです」
と言うよりは、とアリスはちょっと口ごもった。
「……むしろ、私は、脅威なのです。英国を本拠とする、スターゲイザー財団の一部にとっては」
ここで、飛行師のみならず、航空関連産業全てに影響を及ぼす、超巨大財団の名前が出てきたことは、メリッサにとっては意外なことだった。
なるほど、官公庁の集まる街中で襲われただけの理由はあるようだ。
「私が会おうとしている人物は、エヴァンズといいます。彼は植民地省の官僚です」
「その男とあなたと財団に、どういう関係が成立するの?」
一向に話が見えてこないのにしびれを切らして、メリッサは口を挟む。
「私は説明するつもりです」
アリスは、少し嫌そうに唇を尖らせた。
「問題は、スターゲイザー財団と空軍の関係の中にあります。先の大戦で組織されたばかりの空軍は、問題を抱えています。できたばかりの組織ですから」
うん、とメリッサは相槌を打つ。
「陸軍と海軍に対して、空軍の発言権はまだ知れています。空軍の誕生は戦場を大きく変えました。しかし、あまりにも飛行師の数が足りない。メリッサ、あなたは戦後に資格を取った。あなたの番号はいくつですか?」
「783番ね」
「ありがとう。つまり、予備戦力を含めても、空を飛べるのは千人程度です。十万単位の兵力を抱える陸軍や海軍とは、比べられない小規模部門です」
それは知っている、とメリッサは頭の中でだけ呟いた。
アリスの説明はまだ続く。
「スターゲイザー財団は、ミスタ・アレクセイ・ミェツタテリィの生きていた時の意志とは異なり、空軍および軍部と強いつながりを持っています。これからの航空関連産業の発展には必要になると思います。つまり、軍で使用するための飛空艇の開発が」
うん、とメリッサはまた相槌を打った。
「軍と財団が結びつくことは、雇用機会を増やします。それは経済を成長させます。航空業界のさらなる発展を、彼らは期待しています」
アリスは一息ついて、それから、一語ずつ区切るように言った。
「私は、壊すことが、できる。彼らの・願いを」
メリッサもベンジャミンも、まるでとんでもない世迷言を聞いた気がした。
「壊せる? 航空業界の発展を?」
自らも空を飛ぶ者の一員として、メリッサは聞き捨てならない、と思った。
なんだって、そんなことをしなければならないのか。
煤煙だ何だとボヤいていても、メリッサは空を飛ぶことを愛している。初めてうまく飛べた日の喜びを思い出すと、それが壊されるということが、とても不快に感じられた。
メリッサの怒りを察知して、ベンジャミンが抑えろ、という目をしてみせた。
「アリス。お前さんの言うことが本当なら、それでスターゲイザー財団を敵に回しちまった、ってことだな?」
ベンジャミンの確認に、アリスは黙って肯いた。
「しかし、それと植民地省の官僚とがどう関係するんだ? 俺にはまだ分からん」
アリスはひとめぐり部屋を見渡して、大きく息を吸い込んだ。
「世界中の英国植民地が私のことを知ったら……」
一語一語、慎重にアリスは語る。
「彼らは私の確保を望むでしょう。英国から独立するために」
ほほう、とベンジャミンは、何か分かったように頷いた。
「なるほどな。そうすると世界中の植民地を持つ国々にとっても、お前さんは脅威か」
「はい。だから私は逃げてきました」
頷くアリスを見て、メリッサはいまだに訳が分からないままだった。
「えっと、つまり……どういうことなの?」
詳しい説明は、英語の上手いベンジャミンに求めた方が正解だろう。
そう考えて、メリッサはアリスではなく、ベンジャミンに向けて問うた。
「訂正があったら言ってくれ」
ベンジャミンはアリスにそう言ってから、より噛み砕いた説明をしてくれた。
アリスはおそらく、技術特許か何かを持っている。
それが実現されてしまうと、空軍にとって大きな脅威になり、航空関連産業の発展さえ阻害される恐れがある。
そういうわけなので、スターゲイザー財団にしても空軍にしても、出来ればアリスにはこの世からご退場願いたい。それで、彼女は襲われた。
しかしエヴァンズという植民地省の官僚は、別の側面からアリスの価値を考えた。
アリスの「秘密」を握ることは、制空権という今までの常識には存在しなかったものを、宗主国側に一方的に握られて、潜在的恐怖にさらされている世界各地の植民地にとっては、独立を認めさせるための非常に重要な切り札になりえる。
なので、アリスという存在を手元に厳重に確保しておけば、たとい植民地が航空戦力すら得て独立戦争を始めたとしても、それを即座に叩き潰せる切り札になれる。
のみならず、そういう切り札を手元に置いているという「噂」が国際社会に流れれば、新興大国であるアメリカに対する牽制にもなるし、大陸の腐れ縁大国フランスや、遅れを取り戻す勢いで近代化を達成して大国に名を連ねたドイツ、日本、そして沈黙を守るソヴィエト連邦への、大きなプレッシャーになりうる。
短期的にはアリスが死んだ方が、ものごとはうまく収まる。しかし長期的な視点でみると、アリスというジョーカーが思わぬメリットをもたらす可能性も、否定できない。
危険分子になり得るので、今のうちに殺そうというのが、スターゲイザー財団と空軍の考え。
後々の外交交渉で美味しい切り札になる可能性もあるのだから、監視下においてガッチリ厳重に保護という名の軟禁生活をエンジョイさせてやれば良いじゃん、というのが、エヴァンズ氏の考え。
どっちの意見にも一理ある。
違いを端的に説明すれば、とりあえず前者はローリスクローリターン、後者はハイリスク超ハイリターン、だろう。
詳しい解説(?)は次回。
アリスの英語は教科書的で堅苦しいイメージです。