古着屋ベンジャミン
ロンドンでは、街のど真ん中に揚発場を設置することは、法律で禁じられている。しかし、人口密集地区より少し離れれば、小型飛空艇に限れば離着陸場の設置は許可される。メリッサが贔屓にしている古着屋『歓喜亭』はテムズ川沿いにあり、川側に向かう屋上が揚発場となっている。ほぼ垂直に離着陸する小型飛空艇だが、揚力確保などの面から翼は大きく、それなりの面積を必要とするのは間違いない。
そんな面積を屋上に確保できているのは、この古着屋を経営するベンジャミンの有能さを表しているだろう。飛行師だからという理由だけで自前の揚発場を持てるほど、ロンドンの経済状況は優しくはない。ベンジャミンの本業は古着屋だが、彼はなかなか手広く商売をやっている。たとえば、この屋上を有する建物は五階建てで、一階が酒場、二階が古着屋、三階と四階が倉庫兼ベンジャミンの住宅、五階が駐機場という案配だ。
一度に一機しか離着陸できないので、メリッサは前もってベンジャミンに無線を入れる。彼の揚発場は予約制だ。無断着陸をすると、出入り禁止にされてしまう。
「こちら労働者番号0B-0783、『歓喜亭』ベンジャミン、貴君の揚発場への着陸を許可願います。到着まで推定2分。どうぞ」
無線が少し雑音を伝え、聞き慣れたベンジャミンの声が入る。
〔こちら『歓喜亭』、メリッサだな。了解。着陸を許可する。どうぞ〕
「感謝する。通信終了」
無線を切り、アリスを見やる。
アリスが精一杯体をひねっても、メリッサに見えるのは横顔までだ。しかし横顔だけでも、少女は十二分に鑑賞に値した。ミルク色の肌に、さらさらの金髪。
(うーん、間近で見ても、最高!)
いささかどころでなく変質者のようなことを考えていると、アリスが、そのさくらんぼ色の可愛い唇を開いて、あどけなさの抜けない声で問うてきた。
「我々が行くのは、ベンヤミンの『歓喜亭』ですか?」
アリスは「j」を「y」と発音した。
強めに巻く「r」といい、メリッサは、これはいよいよドイツ系のようだ、と判断した。
シュワルツ氏と話している時に感じる発音のクセである。
あの逞しい見た目にこの発音が重なって、なんだか融通の利かなさそうな軍人に見えるのだ。その頃は今のモーゼスの父親、ヨセフが生きていたので、メリッサは彼を介して、モーゼスの人となりまで知る機会に恵まれたのだが。多分、彼は見た目でだいぶ損をしているだろう。
ちなみにベンジャミンは、黒い髪にまだらに白髪が入り、遠目にはやや灰色に見えなくもない程度のオッサンである。もじゃもじゃのヒゲは真っ黒で、少し猫背で、黒い目には抜け目のなさそうな光を宿している。
「そうそう。古着屋よ。それ以外にも色々やってる、商売上手だけど。元はアントワープに本拠があったらしいんだけど、大戦をきっかけに本店をロンドンに移したそうよ。戦時中は大型飛空艇で、補給の任務に就いていたとか何とか」
長々と喋ってから、メリッサはアリスが英語がうまくなかったことを思い出した。おっと、と思って口を閉じたが、どうやらアリスは喋るのがうまくないだけで、この程度の話なら理解できるようだった。
「アントウェルペン……」
アリスの呟きは、やはり大陸から来た人間のもののようだ。
「アリス、あなたは大陸から来たの?」
「はい」
言えません、と返されるかと思ったが、この程度の質問は大丈夫のようだ。
「どこから来たのか、言える?」
「……ドイツの東から」
推測通りのようだ。
「日常会話はドイツ語?」
「……はい。英語は読み書きと聞くことが出来ます。話すは苦手です」
なるほど、ではちょっと文法に気を付けて、ゆっくり喋れば、こちらの意思をアリスに伝えること自体は難しくないだろう。アリスの意思がこちらに十分に伝わるかは別だが。
「ジェミルと二人だけでイギリスへ来たの?」
「はい。私の両親は死んでいます。父の友人に会うために来ました」
こんな可愛い娘を置き去りにして死んでしまうとは、両親はさぞ無念だったに違いない、とメリッサは思った。ちなみにメリッサの父親は傷痍軍人だが、現在は年金暮らしの酒浸りである。母親は病で死んでしまった。この小型飛空艇の元の持ち主である長兄は戦死、次兄は海軍、三兄は陸軍で、姉は嫁に行った。
二人の兄からの仕送りは一応あるが、父が酒代に突っ込んでしまうので、メリッサは自分の食い扶持は自分で稼がねばならない。金が貯まれば家を出たい。むしろあの父親と同じ空気を吸いたくない。母が言うには、父は昔は優しい人だったという。しかし陸軍にいた父はメリッサの物心ついた頃には出征中だった。メリッサの記憶にある父親は、うるさくて粗暴で酒臭い野蛮人だ。
だからメリッサは、自分より小さくて可愛いものが好きなのかもしれない。
きっと父とは対極のものを、求めているのだろう。
「……その友人と連絡は取れたの?」
「フランスで電報は打ちました。連絡は取れたと考えていました」
アリスの言葉遣いが、とても慎重になった。
連絡は「取れたと考えて」いた……ということは、実際は違うのか。
「……あの襲ってきた男たちは、何者?」
アリスはしばらく口を噤んだ。
「よく、分かりません」
沈黙の後に返ってきた答えは、たったそれだけだった。
眼下に『歓喜亭』の屋上が見えてきた。速度を落としながら旋回に入る。だだっ広い公園に着陸するのとは違い、こういう小型の揚発場への着陸は、慎重に慎重を重ねなければならない。万が一にでもしくじったら、翼が折れて、次の機体が発射するまでの邪魔になってしまう。しかも忌々しいことに、再度離陸可能な状況が復興されるまで、駐機場の使用料が、恐ろしい勢いで加算されていくのである。
垂直方向にエネルギーを噴出。徐々に弱めながら着陸へ。
「着陸完了」
〔確認。スイッチ切ったら、昇降機で駐機場へ下ろす。収納環には自分で停めてくれ〕
「了解」
全てのメーターを確認し、機体から鍵を引き抜く。手袋のリールが自動的に、手首内側の収納スペースに、鍵を引っ張り込んでくれる。なくす心配がないので、歩き回る時は便利だ。
昇降機のボタンを操作し、アリスを連れて愛機と五階へ下りる。
「よう、メリッサ」
家主の古着屋ベンジャミンが、にやにや笑って出迎えてくれた。
「お久しぶり、ベンジャミン……早速だけど、古着を見繕いたいの。この子の」
収納環の方へ機体を移動させながら、手でアリスを示す。
ベンジャミンは目を真ん丸に見開いた。
「メリッサ……いつかやるんじゃねぇかと思っていたが……お前、誘拐……」
「助けたのよ! 悪漢どもから!」
案の定の誤解を、メリッサは全力で否定した。
まったく、この男は自分をなんだと思っているのだろう!
とメリッサは内心に憤慨したが、ベンジャミンにしても、モーゼス・シュワルツ氏にしても、おそらくそれを口に出して問われていれば「変質者」と即答しただろう。
「……本当か?」
ベンジャミンは胡散臭そうにメリッサを見て、それから膝を曲げて目の高さを少女にあわせて、常よりいくらか猫なで声で問うた。
「お嬢ちゃん、メリッサに助けられたのか?」
「はい。メリッサは私を助けました。私の服、目立ちます。だから私、目立たない古着が欲しい。ミスタ・ベンヤミン、質屋を知っていますか?」
矢継ぎ早に話されて、ベンジャミンは目を白黒させた。
「……念の入った芝居じゃねぇだろうな?」
なおも疑り深い店主に、メリッサは「くそったれ」と呟いた。罵詈雑言もフランス語にすれば優雅な気がする。ちなみにドイツ語にすると柄の悪さが倍増しにする気がする。これはあくまでもメリッサ個人の偏見であることを追記しておく。
「ミスタ・ベンヤミン、彼女が私を助けたのは真実です」
そう言ってくれるアリスは本当に愛らしいので、今すぐ抱きしめて頭を撫でて、ついでに匂いを嗅ぎたいほどだと、メリッサはやはりどう割り引いても変態的なことを考えた。
「今、私はお金を持っていません。なので、まず質屋に行きたいのです」
見た目よりもしっかりと大人びたことを言う少女に、ベンジャミンはとりあえず納得することにしたようだ。つまり、メリッサが誘拐犯ではない、ということについては。
「ふーん……換金できるモンがあるのか?」
ベンジャミンの問いに、あっ、とメリッサが叫んだのは手遅れだった。
アリスはちょこっとスカートの端をつまんで持ち上げ、ちらりとペチコートを見せた。
真ん丸に目を見開いたベンジャミンに向かって、アリスは問いかけた。
「このレースは、かなり高価でした。質屋は、引き取りませんか?」
鼻血を吹きかけたメリッサは、香水つきハンカチで口元を抑えた。
ベンジャミンは面食らったように、あんぐりと口を開けて、それからハハハ、と笑い出した。アリスは不服そうに、可愛らしい唇を尖らせる。
「笑わないです。ジェミルは撃たれました。私は恐がっています」
その一言で、ベンジャミンは笑いを引っ込めた。メリッサの方に目をやる。
「どういうこった?」
「ジェミルはこの子の護衛。グレート・ジョージ・ストリートで、この子を追っ手から逃がそうと戦っていて撃たれた。この目で見たわ。この子はセント・ジェームズ・パークで保護したの。灯台守のモーゼス・シュワルツ氏には連絡済みよ」
メリッサの説明に、ふむ、と頷いたベンジャミンは、「詳しくは四階で聞こう」と言って、階段へ二人を案内した。なお、昇降機は揚発場許認可のためだけにつけたものであり、離着陸場である屋上と、駐機場である五階との往復しかしてくれない。
どうやら三階はもっぱら倉庫で、ベンジャミンの私生活空間が四階らしい。
階段を下りたところにある扉を解錠すると、ベンジャミンは「入れ」とばかりにあごをしゃくった。メリッサはまずアリスを先に入れようとしたが、ちょっと押しただけでは彼女は動かなかった。アリスは扉の傍に釘で打ち付けられた、変な板のようなものをじっと見ていた。
「……アリス?」
メリッサの呼びかけなど聞こえていないかのように、アリスはその大きな目を一度瞬かせ、黙って自分の右手の人差し指と中指にキスをし、その指を板に触れさせた。
「おら、さっさと入れ」
ベンジャミンに促されるまま、メリッサはアリスの背中を押した。
ばたん、と扉が閉じられる。
ベンジャミンは、まだ明るい外からの光を遮るように、カーテンを閉めた。そしてその代わりに、古びたランプに火を灯した。
「ようこそメリッサ、それから『アリス』。古着屋、兼、酒場の主人、兼、飛行師の、ベンジャミン・シュムエレヴィッツだ」
ベンジャミンの姓は初めて聞いた。ヴィッツで終わるということは、たしかに東欧系なのだろう。これは、スラヴ系言語で「~の息子」という意味のはずだ。英語でいうところの「Johnson(=ジョンの息子)」や、スコットランド系の「McDonald(=ドナルドの息子)」のような意味だろう。ようは「シュムエルの息子」といったところか。
アリスは真っ直ぐに立ち、いかにも上品な「淑女」のお辞儀をした。
「お世話になります。私はアリス」
ベンジャミンは、今までに見たこともないほどに優しげに微笑んだ。
「ようこそ。歓迎するよ」
メリッサは意味が分からず、目をぱちぱち瞬かせた。
ベンジャミンという男は、メリッサの知っている限りでは、商売上手で、抜け目がない、それこそ商人の見本のような人物だったはずだ。
だが、今目の前にいる「ベンジャミン・シュムエレヴィッツ」は、まるで親戚の子どもが訪ねてきたのを、喜んで歓迎するおじさんのようだった。
「命を狙われている。それは確かかね、アリス?」
ソファに座らせながら、ベンジャミンはアリスにそう問うた。
アリスは真っ直ぐにベンジャミンの目を見て、しっかりと頷いた。
「少なくとも私自身を狙われています。それは確信します」
風変わりな言い回しに、ベンジャミンの眉間にしわが寄る。
「私は両親が死んでいます。父の友人を頼って英国へ来ました。彼にはフランスで電報を打ちました。私とジェミルは、今日ロンドンに到着しました。そして彼に会うつもりでした。彼は植民地省の関係者なので、セント・ジェームズ・パークで会う予定でした。公園へ向かう途中で、私たちは数人の男たちに声をかけられました。名前を確認されたあと、彼らは私を誘拐しようとしました。ジェミルは私を逃がしました」
その説明で、メリッサは何故アリスが自分の名前を言おうとしなかったのか、を理解した。
「ジェミル、とは?」
「私の護衛……」
そこまで言いかけてから、アリスは少し心配そうにメリッサを見た。メリッサは、安心させるように笑って、それから言った。
「大丈夫。私はアリスを襲わない。あなたの信用は裏切らない」
アリスはおそるおそる、ベンジャミンの方を見た。
「うん、まぁ何というか、メリッサは信用して良いだろう……その、なんだ……」
口ごもるベンジャミンを見ながら、アリスは不思議そうに首を傾げる。
「あのだな、メリッサは、お前さんみたいな可愛らしい女の子を見ると……うん、そうだな、とても優しくしたくなるんだ。なんというか……その、妹が欲しいらしくてな」
何故そんなに、しどろもどろになる必要があるのか。
そう思ってメリッサは、じろりとベンジャミンを睨んだ。
こんなに狼狽しているベンジャミンを見るのは、初めてのことだ。
「妹……」
小さな声で呟いてから、アリスはベンジャミンに言った。
「ジェミルはローマの子孫です」
なんだってここで古代帝国の名前が出てくるのか、メリッサは理解に苦しんだ。しかし、ベンジャミンは何故か、この説明で理解したようだった。なるほど、と頷いている。
「お前さんは?」
ベンジャミンの問いに、アリスはにこっと笑った。
「東」
ベンジャミンはからからと笑った。
「ようし、アリス。お前さんにぴったりの古着を用意してやろう。金は心配するな。今着ている服を質草に預かる。その布地と縫製なら、保管の手間賃を取っても十分だろう」
あと、下着のレースもな。
そう付け足したベンジャミンに、アリスは頬を真っ赤にした。
「よし、メリッサ。お前が見繕ってやれ」
いきなりのご指名に、メリッサは少し慌てて、しかし、それはそうだと思い直した。ベンジャミンとて男だ。美少女の服をオッサンに選ばせてはならない。
「小型飛空艇での移動も視野に入れて、耐熱耐寒装備にしとけ」
「了解です」
軽く敬礼してみせると、ベンジャミンはさも楽しそうに、声を上げて笑った。
えーと、展開が読めた方は、お願いですから「シーッ」でお願いします。「シーッ」で。ネタバレはなしでお願いします。
いや、ここまで大量にネタを振っておいて、話の骨子が分からないってこたないと思うんですが、お願いですので黙っておいて下さいませ(平伏)
分からない方はそのままで! その方がきっと楽しいはず!
ちなみに、英国では日本で言うところの「1階」を「0階」あるいは「地階」と言うのですが、さすがにその表記だとややこしすぎるので日本式で書いてます。
あと「ナイーム・メオッド」は、本当は「はじめまして」の方が適訳です。というか普通はそう使うんですが、メリッサにはそう聞こえた、ということで。