管制灯台守モーゼス・シュワルツ氏
ようやくアクション。
女将の店でサンドウィッチをもらい、リプトンの紅茶でしばし優雅な気分に浸る。本音を言えばリプトンよりもリッジウェイの方が飲みたいし、かのトワイニングのプリンス・オブ・ウェールズにも憧れがある。何と言っても王室御用達フォートナム&メイソンは、まさにメリッサの夢である。
現実はリプトンのイエローラベルである。せめてブルーラベルが飲みたい。
飲食代と駐機場使用代を支払い、収納環から愛機を引っ張り出して、そのまま揚発場から空へと舞い上がった。煤煙に汚れた空気は喉に痛い。誤魔化すためにミントキャンディーを口に含む。
(ああ、歯磨き粉みたい! どうしてイギリス人は、トルコ人みたいな料理を作れないんだろう! トルコ人のことを野蛮だとか何だとか言うけど、彼らより不味いモノを毎日毎日食べている私たちって、実は野蛮とすら評価されない家畜なのかしら? ああ……下層階級は家畜で、中層階級は料理人で、お貴族様と大資本が、私たちを食べてるってわけね)
配達屋組合の本部の整備士が、そんなことを言っていた。詳細は思い出せないが、あの美味を生む国が野蛮だとは、今のメリッサには思えなかった。
(それより先に、俺たちをこの不味いメシから解放しろ、か……)
同僚の言葉が、前よりじんわり胸にしみる。
ターキッシュ・デライト屋で見かけたアリスは、多分、トルコ語を喋っていた。あんなに美しい少女が野蛮人だとは、メリッサにはとても思えない。隣に立っていたジェミル氏も、こざっぱりと清潔な印象が残っている。彼らがトルコ人ならば、英国人が思うほどにはトルコは野蛮ではないだろう。
(もう一度会えないかな)
そんなことを思っていたからだろうか。
〔メリッサ、高度が下がりすぎだ!〕
飛行管制灯台から無線が飛んできた。名指しで呼んでくるあたり、顔見知りに違いない。783番が女の飛行師なのは知られているが、名前まで知っている人間は、同じ組合に出入りする連中ぐらいだ。
そして、メリッサ所属の飛行師の組合に出入りする、管制灯台守といえば、彼女の知っている限りは二人だけだ。片方は傷痍軍人のじいさまで、彼は自分の仕事中は必ず労働者番号でこっちを呼んでくる。残るは一人だ。
「はいはい、真っ黒クロスケ氏!」
名前のごとく真っ黒な髪、鋭い灰色の目に、鍛え上げた逞しい肉体のシュワルツ氏は、そのドイツ風の名前も相まって、非常に厳格で近寄りがたいように思われている。ドイツ人が生真面目で頑固で融通が利かず厳格で恐いというのは、イギリスのメシが不味いぐらいの真理だと、メリッサの同僚は言う。
だがシュワルツ氏はドイツ人ではない。もちろん管制灯台守までしているのだから、現在はイギリス人である。だが元は、大戦前の迫害でこっちに逃げ込んできたポーランド系ユダヤ人だ。
イギリスだって、かつて追放令を出した程度にはユダヤ人迫害をする国なのだが、少なくともポーランド含む東欧地域よりは安心と踏んだらしい。まぁ、初代ロスチャイルド男爵など、貴族院議員の宣誓をユダヤ教式にやったぐらいだし、それを言うならヴィクトリア女王時代の大政治家、ベンジャミン・ディズレーリだって父親は元ユダヤ教徒だ。その後国教会に改宗しているが。
シュワルツ家は代々の医者だそうで、灯台にいる当代モーゼス・シュワルツ氏も医者である。栄養状態芳しからぬ下層階級出身のメリッサは、骨の成長のことでモーゼスの世話になったことがあるのだ。面倒見の良い性格らしい彼は、今は故人となった父親のヨセフ・シュワルツ氏ともども、男社会で働く十代の女子を、何かにつけて心配してくれた。
で、どうして医者のモーゼス・シュワルツが、管制灯台守などしているのかといえば、理由はかなり簡単だ。空を飛ぶ飛行師の事故は、起きればほぼ必ず死人を出す惨事になる。なので、管制灯台守には、医者の資格を持っている人が結構多いのだ。事故が起きると、医者の方が救出に向かうため、塔には必ず二人以上が常駐している。何故こんなに手厚いシステムなのかと言うと、飛行師が国家にとって、有用で貴重な潜在的航空戦力だからである。
メリッサが配達屋組合に所属したのは十五歳の時だが、彼女は例外的な存在だ。それはつまり十五歳以前に、技量を磨く機会があったということになる。それは何故かというと、彼女の一番上の兄がそもそも航空兵だったからだ。現在のメリッサの愛機、燃油機関内蔵小型飛空挺SC-D-ES21は、戦死した兄からのお下がりなのである。
(たしかに、ね)
なるべく人のまばらな所の上を飛ぶのは、全ての飛行師の義務である。「空飛ぶイルカ」も「空の方舟」も、落ちれば惨事の鉄塊であることを、忘れてはいけない。
テムズ川上空から、ビッグベンとウェストミンスター寺院の間をすり抜け、セント・ジェームズ・パークへと向かう。この辺りで墜落したら大惨事だ。連合王国最高裁判所に財務省、もうちょっと北に行けば外務省に、ダウニング街十番地すなわち首相官邸である。
パーラメント・スクエアを飛び越したところで、メリッサは異常に気づいた。
機体の異常ではない。
あの昼間にターキッシュ・デライト屋で見かけた美少女「アリス」が、グレート・ジョージ・ストリートを、一人で走っている。あの美しい金髪を振り乱し、水色のスカートを翻しながら、必死で。
すばやく視線を動かすと、ジェミル氏が黒いトレンチコートを翻しながら、追っ手らしい連中を見事な体捌きで沈めていた。
おお、とメリッサが内心に感嘆の声をあげた瞬間、眼下の街から銃声が響いた。
がくりとジェミル氏が崩れ落ちた。
アリスは必死に逃げている。
〔メリッサ、高度を上げろ!〕
シュワルツ氏が無線越しに指示を飛ばしてくる。
「それどころじゃないわ。眼前で銃撃事件、暴漢どもがお嬢様を襲って、護衛を撃ったの!」
〔何だって?〕
「護衛は負傷。場所はグレート・ジョージ・ストリートとストアイアーズ・ゲートの交差点付近よ」
〔どうする気だ?〕
「お嬢様は、バードケージ・ウォークへ西進してる。セント・ジェームズ・パークで、彼女を保護するわ。地上警官なんて待ってられない!」
結構露骨な、飛行師の特権意識的言い回しに、シュワルツ氏はメリッサの著しい焦りと、入れ込みようとを感じ取った。間違いない。このお嬢様は美少女だ。
〔了解。彼女の保護は君に任せよう。護衛の方は我々で何とかする。頼むぞ!〕
「Sir, yes sir!」
メリッサは、加速ペダルを踏み込んだ。
アリスは必死で走っている。人通りの少なくない道を、少女が必死に走る有り様は、非常に異様で人目を惹いた。意識的に人目のある通りを狙ってか、ホース・ガーズ・ロードへ曲がろうとする。進行方向右手に財務省がある。
「No!! Go straight!」
上空から呼びかける。ちらりとアリスの目がメリッサを見た。
「Go to the Park! I'll help you!!」
もしかしたら英語が通じないかもしれない。
メリッサはなるべく簡単な表現で、手振りを交えながら指示をした。
アリスは「ヤー!」と応えて、バードケージ・ウォークを真っ直ぐに走っていく。
どうもメリッサが目印になってしまったらしい。追っ手がまだ続いてくる。見たところ、普通のスーツを着た勤め人のようだが、それが五人も六人も固まって美少女一人を追いかけ回しているのは、何をどう見ても変質者か犯罪者である。つまり要するに犯罪者だ。
「Turn right! I'll find you! No problem!」
そう言って、メリッサは墜落しない程度に減速すると、高度を一気に上げて、通りの上空で旋回した。この素早い機体操作こそが、飛行師が「つばめ」と称される所以だ。
アリスが公園へ逃げ込んだのを肩越しに確認し、メリッサはウェストポーチに手を突っ込んだ。取り出したのは緊急用のマーカーだ。飛行師という職業には逮捕権はないが、仕事の性質上、犯罪現場を思わぬ所から目撃することも少なくない。そういう時に投げつけ、後々の捜査を手助けするために開発された、衝撃を受けると異臭を放つ液体が出てくる玉である。
官公庁の集まる通りで投げるモノでもないかもしれないが、他に攻撃手段がない。
断続的に加速装置をふかしながら、気流を読みつつ、アクロバティックな飛行を演じる。
よもや、小娘がそんな熟達の動きを見せるとは思わなかったのだろう。一瞬、呆然と口を開けた彼らに、思わず口元がつり上がる。ベルトが体に食い込むのを感じながら、メリッサは頭上に見える通りの男どもへ、マーカーを投げつけた。
一つでさえ臭い玉を、四つまとめて投げつけたのだ。あとは阿鼻叫喚である。
「おさらば!」
洒落っ気をまぜてフランス語で言ってやる。もっとも向こうに聞く余裕はなさそうだった。いいことだと思いながら、メリッサはセント・ジェームズ・パークへ向かう。
「ミスタ・シュワルツ! 暴漢どもにはゲロ玉をお見舞いしたわ。公園に下りてアリスを保護するわよ!」
〔アリス? お嬢様の名前か?〕
問い返されて、メリッサはうっかり、自分のつけていたあだ名を口走ったことに気づいた。
少し決まり悪く咳払いをして、返事をする。
「キャロルのアリスみたいな美少女なの」
己の推測が的中したことを知って、無線の向こうでシュワルツ氏が呻った。本当に、メリッサは、美少女をえこひいきする人間だ。ちょっと心配になるほどに。
「じゃあね! 着陸します!」
メリッサは小柄な金髪をすぐに見つけ出し、その近くの芝生に着陸した。
「大丈夫だった?」
アリスはメリッサを見上げると、少しきゅっと口元を引き結んだ。
「私だけなら、だいじょうぶ」
シュワルツ氏よりも甘いが、英語の標準発音よりは強い巻き舌の「r」。
「What's your name?」
「I... I can't tell you it.」
名前は言えない。
なら、このまま自分のあだ名で呼んでしまおう。
「I see. So, could I call you "Alice"?」
「Yes. What's your name?」
「Melissa.」
メリッサ、と伝えられた名前を、アリスは小さな声で繰り返した。
「メリッサ……ジェミル、私といた男のひと、私を護衛して、撃たれた。生きてる?」
たどたどしい英語で、アリスはそう問うてくる。
「知らないわ。けど、助けは呼んだ。あとできっと連絡が来る」
今にも泣きそうなアリスに、メリッサは残しておいたターキッシュ・デライトを差し出す。アリスは少し驚いたように顔を上げて、それから「感謝します」と言った。
「でも、私たちは飛んで逃げるべきです。ここはまだ危ないでしょう」
アリスの言い分は、年端もいかない少女のものとは思えないほど冷静だった。
「わかった……じゃあ、こっちへ。女子二人なら大丈夫でしょ」
ウェストポーチにターキッシュ・デライトを仕舞い、メリッサはアリスを愛機の方へ誘導した。仮にも元は航空兵の機体だ。気流の乱れは多少気になるが、重量的にはいつも運んでいる新聞と、どっこいどっこいだろう。単座型だが、なんとか二人乗りできるはずだ。
予備ベルトを自分の体に掛け、アリスを膝に座らせて、本ベルトを彼女に掛ける。
「足を、私の足の内側に」
手振りで示しながら、メリッサはアリスの足を、自分の股の内側に入れさせて、がっちりと挟み込んだ。上昇時の熱量を避ける装備を、アリスはつけていない。
「熱くなるよ。しっかりベルトを掴んで!」
まさか操縦桿に掴まらせるわけにもいかないので、体を固定するベルトを握らせる。アリスの体を抱え込むような体勢のまま、メリッサは上昇操作に入る。
(落ちませんように!)
乗せておいてから何だが、メリッサは今まで二人乗りというものをしたことがない。なのでもちろんのこと、二人乗った状態での離陸など初体験である。一人乗りでも繊細な作業だ。
(いやいや落ちてたまるか! 美少女は世界の宝!)
今のこの瞬間に、アリスがメリッサの頭の中を覗けたら、変態だと断定しそうなことを考えながら、しかし慎重な操作で上空まで上がる。そしてここからが正念場、上昇方向に向けていた推進力を、水平方向へと切り替える。上昇をマスターした新人は、だいたい次にここでしくじって落ちるのだ。
ここは訓練場とは違って、下は保護網ではなく、落ちれば終わりの剥き出しの地面だ。自分のためにも美少女のためにも、落下するわけにはいかない。
風の流れを読みながら、無事に水平移動へ移行する。
知らず、止めていた息を、ふぅっと吐き出すと、腕の中のアリスもほっと息を吐いた。こわばりが幾分か解けてきたのが、触れた部分から伝わってくる。
「メリッサ、どこへ行きますか?」
アリスが膝に挟まったまま、そう問うてきた。メリッサは、それをちっとも考えていなかったことに、今更ながら気づいて、少し言葉に詰まった。
「管制灯台のつもりよ」
おそらく「ウォッチ」では通じまいと考え、メリッサは堅苦しい言い方を使う。
「……私が思うに、それは悪い選択です」
出だしは少し遠慮がちに、しかしズバッとアリスはそう言った。
「なんで?」
「あなたは『シュヴァルプ』です。無線で連絡した、灯台と。そうですね?」
「……えぇ」
シュヴァルプという語は分からなかったが、灯台と無線で連絡はした。
「だとしたら、我々が管制灯台に行くと、彼らは最初に考えます。きっと間違いなく。従って、違う所は考えはないですか?」
拙い英語だが、着眼点の鋭さは確かだ。
メリッサは少し考えて、しかし、何も思いつかなかった。
「アリスは、行きたいところ、あるの?」
「私は、古着屋と質屋に行きたいです」
古着屋は自分が行く予定だった場所である。
「オーケー、古着屋ならアテがあるわ。でも、なんで?」
古着屋もそうだが、質屋とは、なかなかお嬢様が口に出す単語とは思えない。
「今の私の服、派手です。でももし古着に着替えると、安全でしょう」
「質屋は?」
「お金はジェミルが持っていました。質屋で換金します」
「質草、あるの?」
見るからに手ぶらのアリスを見ながら、メリッサは問う。アリスはこくりと頷いて、メリッサにとってはとんでもない爆弾発言を落とした。
「たとえば私の下着などは、いくらかの価値はあると考えます」
メリッサは鼻血が出そうになった。
……なんかいかがわしいですが、違うよ! 違うよ! ペチコートの高級レースなんかは、それ自体が質草になるっていう意味だよ!
多分メリッサは、変態的な方向での価値を感じていると思うけど!
05, May. ナサニエル・ロスチャイルドと、ベンジャミン・ディズレーリについての記述を追加。作中時間は1920年代なので、とっくに二人とも故人ですが。