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車内のひととき

 大英帝国メシマズのネタで、何話引っ張るつもりだと言われたら、まぁ永遠に? と答える気がする。

 私がかつて過ごした時には、オレンジ(※つまり調理してない)とバケット(※つまりフランスパン)しか食えるものがなかった。五つ星ホテルの朝食でである。ひどい話だ。


 骨董商のマダムによると、最近は規制緩和の影響で、美味しいお店が増えたそうです。それでもBBCが、給食を「カエルのゲロ」とか言っている時点で、水準はやっぱりお察しなんだろうな、と思うんですが。

 BBC英語は、NHK日本語よりも一目置かれる程度に上品なはずですが、そんなBBCが形容して曰く、だもんな。





 出発を知らせる笛が鳴り、ゆっくりと汽車はパディントン駅を発つ。

「当分は暇です」

 紅茶を飲みながら、アリスが言った。

「ずっと忙しなかったから、一息つけた感じだわ」

 メリッサがそう返すと、少し黙った後に、アリスは頷いた。

「たしかに、今日は朝から大変でした」

 まったく遠い昔のような気がするのだが、ベンジャミン・シュムエレヴィッツの『歓喜亭ザ・デライト』が爆破されたのは、今朝の話である。『英仏海峡ドーヴァーの魔女』こと、英国史上初の女性飛空兵(マグパイ)、アビゲイル・ウィリアムズと空中戦をしたのも、今朝だ。そして、グレイズの「カラス商会(ジャックドー)」で、ついにダイヤモンドを銀貨に換金してもらったのも、つい先だってのことなのである。

 濃密にもほどがある一日を過ごしている。

 勿論、ただの配達屋として生活している日常だって、単なる忙しさなら負けない。日課の新聞配達に、それが終わったら追加業務。明るい時間は、飛べる限り飛んで日銭を稼ぐ。

 今の「仕事」は、そんな日銭とは桁違いの収入と、比べるのもおかしいほどの命の危険が、隣り合わせになっている。

 もう一生こんな経験をすることはないだろう。

 ……したいとも思わないが。

 紅茶が美味しいのは、一息つけた安心感もきっとある。常日頃自分が飲んでいるのとは、比較も出来ないだろう良い品であることを差し引いても、多分。

「目的地までカードでもしますか?」

 ほどよく使い込まれた遊戯札トランプを、ダニエルが示す。

「私、賭け金ないわよ?」

 即座にそう反応したメリッサに、アリスとダニエルは、ぽかんと口を開ける。

「……カードが、即座に賭博に繋がるのですね」

 ぽつりと呟いたアリスに、うっ、とメリッサは言葉を詰まらせる。育ちの違いというやつは、こんなところからも出てくるのか。

「や、あの、これは『組合ユニオン』でね、絡まれた時の……」

 しどろもどろになりながら、言い訳を並べる。半分は本当なのが、実に、住んでいる世界の違いを思い知らせてくれるが。

「メリッサは普段どんなゲームをしているのです? 気になります」

「いつも逃げてるんだけど! 私、本当にカードはやらないのよ」

 ここは実話だ。メリッサは、月に一回の消費の日以外は、基本的に堅実に貯金をする。賭け事でひとやま当てようだとか、そういう思考とは縁がない。したがって、何のかんのと言いながら、最終的には絶対に賭博になる同僚とのカードゲームなどは、一切やらない。

「では、メリッサのいる『組合ユニオン』の人間は、どのようなゲームをします?」

「よくやってるのは、ポーカーらしいけど」

「それなら私はルールが分かります」

 アリスは、やります? と今にも言い出しそうだ。メリッサは予防線を張る。

「本当に全くできないのよ。カードが始まったら、いつも逃げるから」

「よほど嫌いですか?」

「賭け事で手にしたお金をすぐ酒に使う同僚を、何人も見ているからかしらね。私、お酒を飲む男の人が、本当に嫌いなのよ。下層階級ギアーズの男なんて、たいてい酔いどれだけど」

 この価値観を形作ったのは、無論、メリッサの父親である。

「酔って飛空艇エアロボートに乗るのは、危険です」

 アリスは実に正しいことを言う。

「酔いどれだから、その程度のことにも、おつむが回らないのよ」

 いや、何も考えたくないのだろう。

 大英帝国は中層階級エンジンを中心に、資本主義で世界経済を動かしている。そこには、一握りの人間たちの成功と、数多の人間たちの敗北がある。持っている者の子は、さらに持てる者となり、持たざる者の子は、はい上がれないどん底で、あがき続ける世界だ。

 働いても、働いても、いっこうに埋まらないどころか、開き続けるばかりの格差から、目をそらしたいのだ。きっと、大人たちは。酔っていないと、辛くて死にそうなのだ。

 ふっ、と、またあの男の姿が脳裏によみがえる。

 ショレム・ダヴィドヴィチ・レヴィン。

 メリッサの『配達屋組合キャリア・ユニオン』に出入りする整備士ヘロン

 彼はよく、そういった話をしていた。収入の格差がどうとか、資本家ブルジョアジーがどうだとか、労働者プロレタリアートの権利が何だかとか。

 ろくに教育を受けていないメリッサには、正直なところ、よく理解できなかった。

 だが、たった一つだけ分かったことがあった。

 額に汗して働く人間は、もっと報われるべきだ、とショレムは言っていた。

 それについてだけは、メリッサだって理解できたし、同意する。

 朝から晩まで空を飛んで、それでも、月に一度、1シリングの買い物をすることさえ迷うような生活が、正しいものとは思えない。

 でも同時に、少女らしい夢見がちな思考で、働くことを知らない砂糖菓子のような「お嬢様」という存在に、憧れもあった。ショレムのように「働きもせずに甘やかされている、許されざる存在」という怒りを覚えるよりも先に、そのような想像もつかない世界に、まず夢を見た。

 夢を見ている時だけは、現実から逃れられているような気がした。

(ああ、これじゃ、私、酔いどれどもと同じじゃない)





 カードはお流れになった。さすがのアリスも強いる気になれなかったらしい。

「生地の間に、苺のプリザーブを挟んで……」

 かわりに、東欧系ユダヤ人(アシュケナジーム)のお菓子の作り方を、ダニエルに教わる。ユダヤ教徒は、豚を食べないだとか、食事に大量に制限が付いている。それにもかかわらず、彼らの食生活があまりに豊かなことに、メリッサは大いに衝撃を受けた。

「そして油で揚げたら、粉砂糖をかけて、できあがりです」

「美味しそう……イギリスにもないのかしら?」

「ユダヤ人居住区になら、あるかもしれませんね。年に一度だけのお祭りのお菓子ですから、多分、どこの共同体コミュニティでも、作り方にそう差はないと思いますし」

 今教わったのは、スフガニヤという甘い揚げ菓子だ。「ハヌカ」という、ユダヤの「光の祝祭」の菓子らしい。毎日ロウソクに火を灯して祝うそうだ。

「ううーん、揚げ菓子を作るほどの油は、ねぇ……」

 かなり贅沢な菓子であるというのが、労働者階級の感想である。

「年に一度だけですからね。普段はここまで油を使ったものは食べません」

 ダニエルは穏やかに笑うが、メリッサの問題視しているのは、そこではない。

「というかね、私の手に入る揚げ油なんて、どこかで機械油グリースが混ざっていてもおかしくない、変な味のものだからさ……」

 途端に、ダニエルもアリスも、吐きそうな顔になった。

 だろうな、とメリッサも思う。実際に吐いた者の実感を込めつつ。

「食品偽装は、やっぱり英国が世界最悪なのです」

 アリスが、うえっ、と舌を出す。とりあえず、ピンク色の唇から、赤い舌がのぞく様は、色々とメリッサの変態的な部分を刺激した。頑張って鼻血を堪える。

「昨今はドイツも悪化していますよ」

「ドイツの場合は、あの物価超高騰ハイパーインフレも関係するでしょう? ヴェルサイユ条約で、フランスが報復的な内容を無理強いするから」

 ややこしい言い回しだけは流暢に喋るあたり。アリスの英語力は、実にいびつである。軽い話が出来ない、不自然な語学力は、彼女の受けたであろう教育の偏りを彷彿とさせた。

「ただ……あの高圧的な条約内容には、モルガンが噛んでいると聞きました」

 少し言いよどみながら、アリスは、メリッサには意外な名前を口にした。

「モルガン? 米国の金融王の?」

 メリッサは無学な下層階級ギアーズだが、世界経済を揺るがす大資本家のことは、まったく無知というわけでもないのだ。同僚の整備士ヘロンのおかげで。

「はい。戦時に多額の貸し付けを行いましたから、その元本を回収したいそうです。ドイツを追い詰めるというのに、彼は押し切ってしまいました」

 貸した金は回収したいのが、人間の心というものだと思う。

 まして、中世以来、金融業を主要な生業としてきたアリスたちユダヤ人なら、モルガンのその心情は、理解できてあまりあるだろうに。

 だのに、アリスはとても苦々しい顔をしている。

 そんな顔もとても愛らしいあたり、実に反則であると思うが。

「貸した金は取り返すもの、なんじゃないの?」

「あの条約はやりすぎです……あれでは、ドイツの極右勢力を助長します」

「政治の左右はよくわからないけれども、それって、問題なの?」

「大いに問題です……今、ドイツでひそかに根を伸ばしている極右勢力は、とても反ユダヤの色が濃いのです。とても、とてもです」

 なるほど、それは、ユダヤ人のアリスには大問題だろう。

「英国にいるなら関係なくない?」

「私たちは、世界のどこにでもいるのですよ……まして、ドイツには私の親戚もいます。すべては繋がっているし、やがて繋がるのです」

 どこか掴みがたい、曖昧な物言いだったが、アリスの焦ったような顔色が、メリッサのその違和感を吹き飛ばした。焦った顔も可愛かったので。

「シュトレーゼマンの活躍で、現状、ドイツ経済はなんとか落ち着きを取り戻しましたが……不和は続いています。1930年はすぐ近く……時間は期限が迫っています」

「校正期限前の印刷屋みたいなこというのね」

 メリッサは、これでも本業は新聞の配達屋だ。印刷所で、時間ぎりぎりまで格闘している活字拾いなどの言い回しを、いくらかは聞くこともある。

 アリスはそんなメリッサの表現に、いくらか毒気を抜かれたようだった。

「間に合わせる必要があるという意味では、近いでしょう」

「何に間に合わせる必要が……ってのは、多分私が聞いていい話じゃないんでしょうし、きっと私の頭じゃ、聞いてもわからないんでしょうけど」

「まぁ、分からない方が幸せなこととは思いますし、分かる前になかったことにしたいです」

 文法が不得手なせいか、後半がどうにもよく分からなかったが、とりあえず、分からない方が幸せ、という前半の主張に全面的に従い、質問は差し控えた。

「色々が動いています。私の頭だけでどうにかなる部分を、越えているところも多いです……だから情報を集めています。あまりよろしくない。だから、私は急いでいるのです」





 その焦りが、通りがかりの英国人を巻き込んで、今に至る、その衝動の根幹にあるのだろう。それは、ぼんやり理解できる。何に焦っているのかは、さっぱりわからないが。

 ダニエルが手帳を融通してくれたので、メリッサは教わった料理や菓子の作り方を書き留めた。字が汚いのは仕方がない。下層階級ギアーズ出身なのに、それなりに読み書きが出来るという点は、むしろ褒められても良いだろう。

 アリスも少し、驚いていた。

「メリッサ、字が書けるのですね」

 そんなことを言う。つまり、字が書けないとまで思っていた相手に、難解な数式を示して質問をしていたわけである。冷静になるとなんともひどい話だ。

 しかしメリッサは気にしない。答えは一つ、アリスが美少女だから。

真っ黒クロスケ氏(ミスタ・シュワルツ)のおかげでね。私、ちょっと骨の成長がおかしかったから、小さい頃はあまり出歩けなくてさ。学校に行かせてくれる親じゃなかったから、むしろ、そのおかげで字を学べたのかもね」

「……メリッサの親とは?」

 少し遠慮がちに、アリスは尋ねてきた。メリッサは小さく笑った。

「母さんは私を生んだあとに病気で死んだわ。兄は海軍と陸軍。姉は、私が子どもの頃には嫁いでた。私の飛空艇エアロボートは、戦死したもう一人の兄のものだったのよ……で、親父はね、元陸軍の傷痍軍人の飲んだくれ。だから私、お酒が嫌いなの」

 アリスは返事に詰まったようだ。

 ダニエルは、如才なく、皮を剥いたリンゴを差し出してきた。

 メリッサは差し出されたリンゴを受け取り、沈んだ空気を払うように笑った。

「気にしないで。今の私は、自力で稼げるんだから。今回のダイヤの収入で、自分だけの家を借りられると思うしね。それで、猫を飼うのよ。ピンクのリボンをつけてね」

 ベンジャミンの古着屋での会話を、アリスも思い出したようだ。

「白い猫にですね」

 そう返され、メリッサは笑った。アリスも覚えていた。それが嬉しかった。

「白くなくてもいいけれど、可愛い子にね」

「それから、素敵なティーセットに、美味しい紅茶を飲む」

「ええ! とびきり新鮮なミルクに、遠慮なしに砂糖を入れてね!」

 何せ私の普段のミルクは、古いのを新しいのに混ぜた、おっかないものだから……と付け足すと、本当に英国の食品偽装はひどいと、二人はまた呆れたように笑った。

「それから、今日ダニエルに教わったお菓子も、きっと作るわ」

 英国流の不味いメシとは、この手帳できっとおさらばできるでしょうから、と言うと、ええ、とダニエルも楽しそうに笑った。

 しばらく、三人は主に美味しい食べ物の話をして過ごした。

 ニューベリーを過ぎたところで、新しい顔が増えた。

「すみません、他が埋まっているものですから、こちら宜しいですか?」

 とても丁寧な口振りで言ったのは、眼鏡を掛けた、東洋系の顔をした男だった。

 メリッサは東アジア人の年齢を推定するのは不慣れだったが、四十絡みといったところだろう。物腰からの推測なので、あるいはもっと若いかもしれない。

 羽織っていたインバネスを脱ぐと、薄茶色のツイードの三つ揃いが見えた。昨今流行りの既製服プレタポルテではなく、きちんと仕立てたものだ。

 男は小さめの旅行鞄から、メリッサにとっては吐き気のしそうな、数式にまみれた専門書を取り出して、平然と読み始めた。アリスが目を瞬かせる。

「……ミスタ、あなた、物理学者なの?」

 数式を平然と書き連ねた少女は、眼前の本も理解したらしい。

「いえいえ……そう名乗るほどの者でもありませんよ。ただ、世界の真理に興味を持つ者の一人ではある、と申し上げましょうか」

 まわりくどい言い回しで、男は謙遜をした。そうメリッサは判じる。

「ところで、お嬢さん」

「何かしら?」

 アリスは可愛らしく小首を傾げる。男は狐のような細い目を、さらに細めた。

「よく、これが物理学の本だと、お分かりになりましたね?」

「相対性理論でしょ? アインシュタイン博士の」

 アリスはピンク色の唇を尖らせる。

 また「石ころ(シュタイン)」かよと、メリッサは頭を抱えたい気分になる。今度のシュタインは、ユダヤ人の物理学者だろう。そのことだけは間違いないな、と、内心に呟いた。

 東洋人の男は、いっそう笑みを深めた。

「素晴らしい! 博士の相対性理論については、理解できる者が少ないのですが……その難解さ故に、専門の学者ですら」

 瞬間、まず反応したのは、ダニエルだった。

 高く澄んだ金属音。

 ダニエルは、さっきのリンゴを剥いた果物ナイフで、男の刃を防いでいた。眼鏡の奥の目が、にたり、と凶悪さを増した笑みに歪む。

「……まさか、あんたが、あの連中の?」

 メリッサの言葉に、はっ、とアリスが目を見開いた。

 あの、ジェミルが襲われた、最初の事件!





さーて、動く密室な鉄道アクションに入ろうか!

鉄道でにこやかに声を掛けてくる東洋系不審者のネタは、書き始めた段階からやる気満々で想定していた。

大方の方はお察しかと思いますが、詳しい話は次で!


アインシュタインの相対性理論は、そのあまりの奇抜さ(※当時としては)故に専門の物理学者ですらうまく理解できず、ノーベル物理学賞も、相対性理論ではなく、分子のブラウン運動に関する研究で受賞している。

……つまりだ、そんな研究をさらっと理解している様子を見せる時点で、アリスは完全に墓穴を掘っているんですな!

重力波がついに検出されてハァハァ。そんな私は文系出身です。


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