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ターキッシュ・デライト屋のアリス

トルコ語一か所あきらかにミスってますが、とりあえずこのまま投下。



「Merhaba, Cemil bey! Nasılsınız?」

 男性を見て、女将が流暢に話しはじめた。どうやら顔なじみらしい。

「Merhaba, Deniz! Çok iyiyim.」

 男性のそう言い終わるかといううちに、例の金髪の少女が、男性の黒いトレンチコートの裾を掴んだまま、顔だけを見せ、たどたどしい声で言った。

「Merhaba! Ben lokum istiyorum! Taman mı?」

「Hoşgeldiniz! Tamam, tamam, tabii! Hangisiniz kaç?」

 金髪のお嬢さんを見て、女将は相好を崩し、目線も相手の高さに下げて話をする。お嬢さんは小首を傾げると、店内に山と積まれたターキッシュ・デライトの一つ一つを検分しはじめた。その間に、女将はトレンチコートの男に、にやにやしながらまた声を掛ける。

「Bu kim? Kizniz?」

「Hayır, hayır! Niye düşündüu mü? O benim işverenin.」

 ああ、と納得したように女将は頷いた。

「İşvereniz İngliz musunuz?」

 男性は少し考え込んでから、「Anlamadım.」と答えた。その答えで、女将は何か察したように、ははぁ、とばかりにしたり顔で頷き、それから少女の方を向いた。

「Hangisiniz istiyorsınız?」

 少女は躊躇いがちにターキッシュ・デライトの皿を、しかし意外に遠慮なく次々と指さしていった。

「Bu ve bu ve bu ve bu ve bu...」

「Olmasınız.」

 ああ、あれは「ダメです」と言われたのだろうな、とはメリッサにも分かった。

「Neden?」

 眉尻を下げて寂しそうな顔をする少女に、男性がぐっと何かを堪えるように握り拳を固めた。

「Ol-ma-sınız!」

 「ダ・メ・です!」と言って聞かせるように、丁寧に区切って強調しながら繰り返され、少女はションボリと肩を落とした。

 ところでトレンチコートの男と女将のやりとりは、まったくちんぷんかんぷんだったので、メリッサはずっと少女の動きを目で追いかけていた。女将と気安く話す人間に付き添われているのだから、この少女はきっとより美味しいターキッシュ・デライトを知っているのに違いないと思ったからだ。

 というのは、あとづけの理由である。

 本当の理由は、彼女があまりにも愛らしかったからだ。ルイス・キャロルの小説に出てくる「アリス」とは、きっとこの子のような美少女だったのに違いないと、メリッサは思った。さらさらの金髪、ミルクのような肌、それに何より、晴れ渡った空のように真っ青な目。

 その目の色にとても似合う、水色のワンピースのスカート部分はもちろんふわふわで、それが翻るたびに見えるペチコートの裾は、高級なレースで縁取られている。見るからに上流層のお嬢様だ。何だって、中産階級だけじゃなく、自分のような労働者階級も出入りするような店にやって来たのか、と思わず首をひねるほどだ。

 それはおそらく、あの護衛っぽい黒トレンチコートの男と、ここの女将とが知り合いだからなのだろうが。

「Cemil, bu ve bu istiyorum... olmuyor?」

 多分、あの護衛さんはジェミルというのだろう。そのジェミル氏に、「アリス」は絞りに絞ったらしい候補を二つ示して問うていた。

「Evet, anladım. Deniz, bu çilek yarım shilling, ve şamfıstığı yarım shilling.」

 苺と、ピスタチオのターキッシュ・デライトをそれぞれ指さし、ジェミル氏は女将に1シリングを手渡した。

「Teşekkür ederim. Buyurunuz.」

 女将は手早くその二種類のターキッシュ・デライトを包むと、「アリス」の手にそれをそっと載せた。その笑顔の華やかさと言ったら、言葉では形容しきれない。少なくともメリッサはそう思った。

「Teşekkür ederim. Elinize sağlık!」

 たどたどしい返事に、女将は目を細めて答えた。

「Afiyet olsunuz!」

 満面の笑顔で、女将はターキッシュ・デライトの包みを抱える少女にそう言うと、さらにジェミル氏に向かって、含みのありそうな笑顔を向けた。

「Kolay gelsiniz.」

 ジェミル氏は肩をすくめた。

「Sağ ol. Hoşça kalın.」

「Güle güle!」


 手を振って二人を見送り、女将はメリッサを振り返る。

(ヴェ・)どれにする(ハンギスィ)?」

 言葉は分からなかったが、手振りで理解して、メリッサはオレンジのとピスタチオのとを指さした。

「あー、これとこれを半シリングずつ」

了解タマーム……ほら、どうぞ(プリーズ)

 妙な英語に戸惑いながら、メリッサはターキッシュ・デライトを受け取った。

「ありがとう」

どうも(サーオル)またね(スィーヨウ)

 聴き取りにくい英語だなと、自分の階級の訛りは棚に上げて思いながら、メリッサは早速右手の手袋を外してベルトにカンで引っかけ、包装にされている新聞紙を開いた。オレンジとピスタチオは、別々の茶色い小袋に分けられていて、どっちがどっちかよく分からない。ええい、と適当に片方を開くと、甘いけれどもどこか爽やかな、オレンジの香りが広がった。

 おそるおそる触ってみる。ぷるぷるとして柔らかいが弾力感もある。サラサラの粉砂糖の中から一つ、つまみ上げて口に放り込む。

「甘ッ! 美味ッ!」

 ねっとりとした歯触りで、いつまでも甘みが歯にまといつくようである。ミントチョコレートと言う名の、歯磨き粉に茶色いコーティングがされただけのようなモノに慣れた口には、あまりに新鮮で感動的である。

「はぁ。トルコ人って、いつもこんな美味しいモノ食べてるの? 羨ましい!」

 心底からの本音が出た。イギリスの食事の不味いことは、数々のジョークからも明確である。昔々、それこそ処女王エリザベスヴァージン・クイーン・エリザベス時代のイギリス料理は、それなりには美味しかったらしい。サラダもあったという。

 しかし、産業革命からこっち、工業化された都市部に大量の人間が流入し、どこの誰がどうやって作ったかも分からない食材が町中に溢れると、生野菜を食べるサラダというものは、下層階級では忌避されるようになった。世界で最も早く、食品偽装への刑事罰を盛り込んだ法律を制定したのは、この大英帝国である。本当に、ナニが入っているか分かったものではない。野菜に寄生虫など朝飯前、毒物のごとき農薬もあり得るし、それを洗い落とすための水が、またいただけたものでないのだ。

 大英帝国首都ロンドン、悠久の流れテムズ川。この川の水は、水一滴に百万匹の病原虫がいるとすら言われる汚水である。下層階級の人間は、そんな汚水でも生活用水にせざるを得ない。安全な水とは買うものである。

 正直、テムズ川沿いの配達を請け負っているメリッサとしても、夏場は悪臭で気絶しそうなほどである。なので比較的賃金が良い。そういうわけだからメリッサも、香水をつけたハンカチを口元にあてつつ、この配達の仕事を譲れないのであるが。

 高級品だがガスマスクを購入しようかと思うほどだ、と夏場の悪臭を思い出し、おっと、と我に返る。

 せっかくの美味を味わっているのに、わざわざ不味くなるようなものを思い出してはいけない。今日は最高の一日になるのである。

 さっき見かけた「アリス」を思い起こしつつ、今度はピスタチオの方を頬張る。これも甘くて美味い。あの美しくも愛らしい上流階級のお嬢様も、自分と同じモノを味わっているのだと思うと、それだけでうっとりする。

 オレンジは自分の好物だが、ピスタチオを買うと決めた決定打は「アリス」である。可愛いモノ美しいモノが大好きなメリッサにとって、上流層の美少女の嗜好品というのは、それだけで憧れの対象になり得るのだ。

 すれ違うこともまず稀少な美少女と、同じ空間で呼吸をしていたというだけで、メリッサはかなり満足である。あのターキッシュ・デライト屋の何分かで、煤煙スモッグで汚れた肺が浄化された気さえするほどだ。

 いや、メリッサは別に変質者ではない。そう言い張っているので、少なくとも本人はそのつもりではない。

 ただの美しく可愛いモノを愛でたいだけの乙女である。

 それぞれ半分ずつを食べ終えると、ウェストポーチに紙袋ごと突っ込んだ。包装代わりの新聞はとっくに道端に捨てていた。野良猫が寝床にでもするだろう。

 本日の甘味は、想像以上の収穫をもたらし、大満足の結果である。さて、とメリッサは次の予定を考えた。



 今日は消費者として一日を楽しむのだ。飛行師スワロウは、厳密には農林水産業に従事するような生産者ヘンではないが、毎日毎日贅沢に消費者として過ごせる仕事ではない。大量生産のクソ不味い缶詰を小鍋にあけて煮込み、乾いてパサパサになったパンを浸して腹を満たす。そうしてお金をコツコツ貯めて、己の食い扶持と生活のあれやこれやを支えている。それがメリッサの人生だ。

 毎日毎日、資本主義の歯車として働き続けるだけでは、体も心も擦り切れる。だからこそ、月に一度きりのハレの日である。心身ともにリフレッシュする、享楽の一日だ。

 さぁ、買い物に行こう!

 買い物に行くなら、なんと言ってもやはりコヴェント・ガーデンに向かうべきだろう。テムズの水運を利用して商品を運びこむここは、17世紀より市場としての発展が進み、ロンドンのみならずイングランドで最大のマーケットを形成している。

 コヴェント・ガーデンといえば青果市場が有名であるが、他の品物を売る店も集まっている。そして人々が集まる場所には、彼らを客と取り込むべく、娯楽などもまた盛んになる。

 器用な動きでマリオネットを操り、木箱の上を小劇場へと変貌させる者。次々と球を放りあげては、見事にまた受け止めるお手玉を披露する者。かと思うと、精巧な蝋人形かのようにずっと静止し、開いた鞄にお金が投げ入れられたときだけ、ぜんまい仕掛けのような動きで一礼をする者。

 大道芸人たちを楽しみながら、メリッサは店の品々を見て回る。

 ターキッシュ・デライトは結構お腹にたまった。もう少ししたらパンが要るだろうが、今のところは特に食べ物は要らない。だが菓子は買う。あの美味の後では洗剤の塊のようにさえ思えるが、徳用のミントキャンディの缶だ。煤煙スモッグに燻される仕事柄、喉の清涼剤はいくらあっても足りない。

 だが、仕事絡みでない買い物だってしたい。可愛くて安いものがいい。ただし、花は枯れる。残念だが却下だ。形が残って、後々も使えるものがいい。

 メリッサは、生地や既製服を扱う店の集中する区域へ向かった。

 布地を一から買って仕立てるなんてのは、今のご時世には時代遅れだ。それでなければ、注文服オートクチュールを常用するようなお貴族様かお金持ちだろう。昨今の労働者は、出来合いの服(プレタポルテ)を着るものである。そしてメリッサのように日銭を稼ぐような生き方をする者は、古着屋に縁が深いのだ。

 しかしまずは手芸用品店だ。機械編みの技術が発達したおかげで、愛らしいレースの値段が下がってくれたことは、メリッサにとっては喜ばしいことだ。

 染みのついたレースの切れ端をまとめて買う。紅茶かコーヒーの出涸らしを使って染めれば、さして気になることもなかろう。先週の特売コーヒーというやつは、半分がすでに出涸らしだった。あの忌々しい粗悪品も、染料だと思えばそう腹も立たない。いっそ薄い色の古着を買って、まとめて染めたらなかなか良い具合になるのではなかろうか。

(それでリボンだけ、ちょっと違う色にしたら、お洒落かも)

 そうと閃けば、馴染みの古着屋へ行こう。東欧系移民の営むあの古着屋には、古臭くて時代遅れだけれども、メリッサの好みには結構合った、なかなか良い品が結構あるのだ。

 黒いヒゲもじゃの中年店主は、組合ユニオンにこそ属していないが、大戦時に飛行師スワロウをやっていたとかで、店の屋上は小さな揚発場ポートになっていて、狭いながら駐機場ガレージもある。まだ現役は退いていないようで、時々は組合ユニオンから仕事の紹介も受けているらしい。

 布ものは案外重いので、メリッサは一度女将のところへ戻り、愛機を回収しにいくことにした。そこから古着屋の屋上に着陸して、存分に買い物を楽しめば良い。

「あれ? 前回と同じパターン……」

 ふともれた呟きを、しかし首を振って否定する。

 今日は特別な日である。

 なんと言ったって、ターキッシュ・デライトを食べて、アリスを見たのだ。





次の話からアクションに入れる……はず……。


ちなみに、食品偽装に刑事罰を盛り込んだ法律を、世界で最初に制定したのがイギリスというのは、ホントの話。コーヒーや紅茶を売る時に出涸らしを混ぜるのは、悪徳業者のよくある手口だったようです。

摘発された偽装で最悪だなと思ったのは、水にチョークの粉を溶かして糊でとろみをつけて「牛乳」と偽った事例。何故バレないと思った。


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