ベイカー街の「教授」
お久しぶりです! 消えたと思ってたかもしれませんが、消えてはいません。一応オチも決まっているのですから、頑張りますよ。ただし、のんびり。
それにしても、もう3回目の風邪っ引きです……うー体調悪い……
ありふれた自動車は、完璧に車列の中に紛れ込んだ。
端的に言うと、軽い渋滞だ。
普段のメリッサは、衝突したら即墜落&死亡、という、危険性だけ見ればもっととんでもない環境にいる。しかし、こと迅速性という点においては、飛空艇の方がよほど優れているのは、紛れもない事実である。
要するに、メリッサは、飛行師免許を持たない者にとってはありふれた程度の渋滞でも、すでにストレスを貯めていた。「英仏海峡の魔女」ことアビゲイル・ウィリアムズと「交戦」する前の、満タンにした愛機のタンク状態まで、あと少しというぐらいにだ。
空を飛ぶことに慣れた者は、地上を歩くのが面倒になる。
いや、不得手になる。
大空では美しい姿を見せる猛禽類も、ひとたび地上に降り立ってしまえば、狙ったはずの獲物に「歩いて」逃げられる。その姿はもの悲しくも滑稽だ。
いつもは飛ぶ側であるメリッサは、歩いて逃げる側に回っている現状に、フラストレーションを溜め込んでいる一方だった。車内で飛び交う言語は、ちんぷんかんぷんなイディッシュ語ばかり。隣に美少女はいるし、仕掛け込みとはいえ、そうそう着られないドレスだって着られた。何より、自分には手の届かない高嶺の花だと思っていた、あの自動車に乗れている。
だが!
と、メリッサは内心に絶叫した。
(こんなに遅い乗り物に乗るぐらいなら飛ぶ! 私は飛ぶ!)
自動車への憧れは、本日、キレイサッパリ消え去った。どうせ衝突事故が死亡につながるのなら、空を飛べる飛空艇の方が、寒かろうが煙たかろうがマシである。
吐き出すすべのない鬱憤を溜め込めば、顔つきは自然と険しくなる。眉間にしわを寄せていると、ふっ、と場違いに爽やかな香りが、鼻腔を刺激した。
「どうぞ、メリッサ」
相談に一区切りがついたのか、アリスが、柳製のバスケットから、小さなケーキを一切れ取り出して、こちらに差し出してくれた。
くん、ともう一度嗅いでみると、間違いなくレモンの匂いがする。
おそるおそる手を伸ばすメリッサを安心させようと、アリスが説明する。
「ニューヨーク式のチーズケーキです。ミリアムが得意にしているお菓子です」
あの美少女の手作りとな。
着替えを手伝ってくれた時の柔らかな感触を思い出し、口元が少し緩む。
しかし、気になるところを一つ、聞いておかねばなるまい。
「ニューヨーク、ってことは、ミリアムはアメリカ系?」
ユダヤ人が世界中に散らばっていることは、そりゃあもう常識だ。アメリカ合衆国の最大都市ニューヨーク(New York)といえば、あだ名が「ジューヨーク(Jew York)」というほど、ユダヤ系人口が集中している町でもある。
なので、もとはそっち出身なのかと思ったのだが。
「ミリアムはイギリス系です。しかし彼女の親戚に、渡米した家族がいます」
話の規模は、もっと大きかった。
「彼女の親戚の男子が一人、こちらの大学で研究するためにイギリスにやって来た時に、カラス商会に滞在していました。チーズケーキは、その時教わったそうです」
「へえ、男なのに、お菓子を作るのね」
思わず素直な感想を述べると、アリスが少し乾いた笑いをもらした。
「このイギリスはともかく、基本的に厨房というのは、男の戦場ですよ。フランス語の菓子職人だって、男性形です。このイギリスはともかく」
二回も言うあたり、アリスはとことん、イギリス料理を信用していないようだ。面白くて、吹き出しそうになるのを堪える。
「イギリスに『パティシエ』がいるのか、そっちがまず疑問ね」
英国人のメリッサ自身が、おいしくないと思っているのだ。大陸の出身で、お菓子の都ウィーンを擁するオーストリア系のアリスにすれば、イギリス菓子なぞ不味くて食えたものではないだろう。少なくとも、あの歯磨き粉のような「自称」チョコレートなどは。
上流階級の好みは、次第にそれに憧れる中流以下の階級に降りてくるのが、基本の流れである。紅茶を飲む習慣などは、まさにその端的なものだ。
では、何故世界に冠たるこの大英帝国では、下層階級の手に入るものが揃いも揃って不味いブツなのだろうか? 経済格差か。まぁきっとそれも大きいだろう。
だが、そもそも流行を作る上流階級の味覚がおかしいからだ、と考えたっていいだろう。少なくともメリッサはそう結論づけている。そう考えないとやりきれない。
革命をしろと言う気はこれっぽっちもないが、菓子はフランスを真似たっていいんじゃないかな、というのが率直な思いである。前の休日に、虎の子の貯金をはたいて購入したマカロンは美味だった。しかも、見た目も可愛いという、イギリスではありえない素晴らしさ。
「王家も不味い菓子もどきを食べるのですか?」
アリスのなかなか辛辣な質問に、メリッサは笑って肩をすくめた。
「だって、イギリスよ?」
美味しい食事を犠牲に捧げて、経済発展を獲得した国は二つある。一つがオランダ、そしてもう一つが、この大英帝国である。
チーズケーキを口元に運ぶ。レモンの爽やかな風味と、微かに漂うチーズの香りが、嗅覚を刺激し、味覚の期待を高めていく。
一口かじる。
ほろほろと口の中で溶けて消えていく。
チーズのしっかりした味わいと、さっくりしたビスケット生地の香ばしさ。練り込まれたバターが、穏やかにそれらの味を包み込んで、そしてすり下ろしたレモンの、さっぱりした後味へと抜けていく。ほんの少しミントの香りがした。
「美味だわ」
思わず大仰な口調で、そう讃えてしまった。
通常なら「おいしい」とか、もっと気取らない言い回しを使うのに、真っ先に口をついて出たのは、こんな格式張ったお堅い表現だった。
「大げさです」
案の定、アリスは小さく苦笑いをしている。だが、メリッサにしてみれば、こんな仰々しい形容ですら、物足りない気がするほど美味だった。
「まだ褒め足りないぐらい美味よ! 特例級に美味だわ!」
「ミリアムも喜ぶでしょう」
これは、何としてでもロスチャイルド男爵の庇護下に首尾良く逃げ込んで、大手を振ってまた会いに行けるようにならなければ、と、メリッサは変な方向に決意を固める。
あっという間に一切れ食べ尽くすと、どうぞ、と次が差し出された。
イギリス料理に耐えられなくなりそうだ。もしそれを口にしたら、なら、新生ユダヤ国家に来ればいい、と、アリスは言うのだろうが。
「そろそろ渋滞を抜けられそうです」
ダニエルが、少し東欧の訛りが入った、ごつごつした英語で言った。
その言葉通り、ほどなく大混雑は緩和された。本格的に市街地に入ったので、目的地別に車が別れはじめたのだ。ヴィクトリア・パーク・ロードを、ダニエルは慣れたハンドル捌きで進む。
「地下鉄に乗り換える必要はなさそうですね……ベイカー街へ進みます」
「お願いね」
眉間に寄せていたシワに、感づかれていたのだろうなぁ、とメリッサは思う。それで多分、気を遣って、言語を英語に切り換えてくれたのだろう。
石畳の市街地を、車は進む。まだまだ馬車も残っている中を自動車が走れば、そこそこに目立つのが普通だ。だが、流れ作業の量産自動車は、同じ型のものが大量にありすぎる。道路を軽く進む間にも、何台も何台も、まったく同じ車を見かけた。型番までは気が回っても、識別番号表までは、いちいち記憶できないだろう。
なるほど、自動車という選択肢は、追っ手を撒くという意味でも間違ってはいなかったのだろう。無個性な量産車を眺めながら、メリッサは内心で納得する。
川沿いに、アンドリューズ・ロードへ。リージェンツ・ロウの手前で左折して、ゴールドスミスズ・ロウへ。ハックニー・ロードに合流して、オールド・ストリートへ出る。大通りを道なりに進んで、シティ・ロード。ひたすら西進。トーレンズ・ストリートを越えると、道の名前はペントンヴィル・ロードになる。ロドニー・ストリートとの合流点で左折。スウィントン・ストリートから、アーガイル・ストリートに入って、ペントンヴィルがまた名前を変えた、ユーストン・ロードに再合流。一方通行というのは、本当に不便である。
わき目もふらずに、ひたすらユーストン・ロードを西進する。リージェンツ・パークを突っ切るあたりから、道はまたメリルボーン・ロードと名前を変える。ウェストミンスター大学のメリルボーン・キャンパスを左手に見ながら、さらに西進。チルターン・ストリートを越して、このブロックの終わりが、ようやくベイカー・ストリートとなる。長い。遠い。
だが、真の試練はここからで、ベイカー・ストリートは北から南への一方通行だ。メリルボーン・ロードは、ベイカー街の真ん中あたりを貫いているので、北半分に自動車で行きたい場合、もっと進んだ先にある、グロスター・プレイスで右折し、大きく北進して、パーク・ロードで急激に向きを変えねばならない。で、パークロードが南に進むと、ベイカー・ストリートになる。
航空網も「管制灯台」によって交通整理されているが、立体交差が難しい地上の道路は、管理する側はともかく、通行する側にとっては、凄まじくややこしい。
ダニエルは、ベイカー・ストリートの角を左折し、南へ向かった。北半分には用がなかったらしい。狭い車内時間が少し減った気がして、メリッサは内心に胸をなで下ろす。
右折すると、ヨーク・ストリートに入る角で、車は止まった。
ダニエルは座席を降りる。
なんだなんだ、と思っていると、車のドアが開いて、うさんくさい笑顔を浮かべた白髪の男が、さらに乗ってきた。
「ひょっひょ。久しぶりじゃの、アリックス」
慣れた様子での挨拶に、アリスもまた軽く頭を下げるにとどめる。
「ご無沙汰しておりました、シュタイン教授」
アリスの挨拶で、ああ、これが例の「ベイカー街の教授」か、と理解した。そういえば、この人物と穏便に合流するために、自分たちは変装をして、面倒くさい道のりを進んできたのだった。
退屈と、チーズケーキの美味しさで、あやうく忘れかけていた。
「さて急ぐぞい。わしは普段から監視下にあるからの」
なんとも物騒なことを言って、一昔前の辻馬車よろしく、ステッキの持ち手部分で車の屋根を叩いて、発車ヨシの合図を送る。もちろん自動車では、合図を出すも何も、運転手は同じ車内にいる。しかし、旧世代の教授の体には、古い習慣が染みついてしまっているらしい。
「アリックス、わしは出来る限りお前さんを援助する、とは言ったが、最初からここまでのカードを切る必要があったのかね?」
ネチネチした物言いである。どうやらお説教が始まるらしい。
「ジェミルが撃たれて、動転したと思います」
「すでに何百万人の犠牲が出ていると思っているのじゃ?」
教授のその言葉に、メリッサはぎょっと目を剥いた。
百万人?
今、彼は確かに「何百万人」と言った。
まだジェミルが死んだという連絡は入っていない。
教授の言葉はあまりにも、突拍子がなさすぎる。
しかし、アリスは神妙な顔つきのまま、黙って俯いてしまう。
この少女のために、何百万人もの犠牲者が出ているというのか?
「私、分からないのです」
「分からない、とは?」
「私をここに送り込むための犠牲がどれほどだったか、私は覚えていないのです」
泣き出しそうな顔になりながら、アリスはそう答える。
ふむ、と訳知り顔に、教授はゆっくりと頷く。
「そりゃあそうじゃろうがの。知っておれば、そもそもわしなんぞの助けは要るまいて……じゃが」
ぎろり、と、白い眉の下の、鋼色をした鋭い目が光る。
「忘れてはならんぞ。お前は『ティクヴァ』……最後の最後の希望の光じゃ。我々にとっては、お前が最後の可能性なのじゃ……お前が倒れれば、失われた何百万の命も無駄になる……いや、これから失われるであろう、と言うべきなのじゃろうがの、現時点では」
学者は変わり者が多いときくが、教授はいっとう奇妙な物言いをする。
「我々の未来全てを預けた賭に出るのに、そこな英国人の小娘が必要だったかね?」
ムカッとして、メリッサは腕を組み、足を組んで、顔を背けた。
「メリッサがいなかったら、私、殺されていたかもしれません」
アリスが可愛らしい声で弁解をしてくれる。
ああもう、抱きしめたい愛らしさ!
「一時金で手を打っておけば、巻き込まずに済んだものを……まぁ、今から言っても詮無き事よの。基本的に、過去を変えることは出来ぬのじゃから」
「私を助けたことで、メリッサは『MI5』の監視対象に入ってしまったのです。だから、一緒に行動するしかないのです。恩人です。拷問かけさせる、絶対にさせません」
物騒きわまりない単語が出てきて、メリッサはぞっと鳥肌を立てる。
「……拷問?」
「私の情報を知るために、そのぐらいの手を使う輩がいても、不思議はないという意味です……拷問は国際法上禁止ですから、英国はやらないと思いたいですが」
「三枚舌を駆使するような国に、誠実さを求めるのは間違いじゃぞ」
教授から辛辣な指摘が飛ぶ。まぁ、事実である。しかも、つい最近の。
「キリスト教圏の連中を信用するのは、ほどほどにしておくのじゃぞ。連中は不都合があれば、いつだって我々のせいにするのじゃからな」
そう言うと、教授は医者が往診の時に使うような鞄を取り出して、開いた。
「お望みの切符じゃ。パディントン駅発、プリマス行き」
ああ、それでこっちまで出てきたのかと、メリッサは納得した。イングランド南西部へ向かう鉄道は、パディントン駅がターミナルだ。
「プリマスの海軍関係の施設に、ちょいと手を回しておいた……伝手はわしの二番目に強力な札じゃからの。ウォルター様はお年じゃから、甥御のヴィクター様がおいでになるようじゃ。あの方は、ウォルター様よりもさらに、ユダヤ国家建設について積極的じゃ。強力な後押しをして下さるじゃろうの」
「……ご協力痛み入ります」
「なに、犠牲を一人でも少なくするために、全ては必要なことじゃろう。すでに血は流された……ならば、我々がなすべきこととは、すなわち、これ以上の流血を避ける事じゃ」
「はい」
しっかりと切符を握りしめるアリスに、一つ頷いて、教授はまた鞄を漁った。
「ところで、わしの新発明なんじゃが……」
途端、アリスの真面目な顔が崩れて、うんざりしたような目つきになった。
言われなくても分かる。これは「またか」と言っている。
「……拝見します」
深々とお辞儀をした理由が、苦虫を噛み潰したような顔を見られないためだ、というのが、すぐ隣に座っているメリッサには、ようく分かった。
ウォルター様じゃなくてヴィクター様が出そう。
それにしても、初代からこっち、皆さんミドルネームとかファーストネームが「ナサニエル」ばっかりで困る。初代男爵の名前を受け継ぐにしたって、何もみんなナサニエルにしなくったっていいじゃないか、と思うんだが、それは東洋的な発想なんだろうなぁ。
スチパンといえば、一応はSF。SFといえば、やっぱり怪しい教授の怪しい発明品は欠かせないと思うので、テンプレを踏襲してみました。
じいさんなので一端退場しますが、オッサン燃えの延長にはじじい燃えがあると信じてる作者なので、いずれ再登場しそうな気もする。
道路の一方通行を確認するのが、死ぬほど面倒くさかった。
イギリスではタクシー運転手が尊敬される職業だというのも納得だわ。よくもまぁこの通りの名前やら一通やら、ゆかりの観光地やら開催中のイベントやら、全部記憶できるもんだわ。
あと、路線図面倒くせぇ。アテにならんらしいので、時刻表は気にしないことにした。
なぜプリマスかって? ロスチャイルド家ってハートフォードじゃないのか、って? そりゃ、ピルグリム・ファーザーズゆかりの地だし、フランスとフェリー繋がってるしで、いろいろ暗喩に向いてるからです。
ヴィクターは陸軍系だろ、と言われたら、まぁそれはそのとおりなんですけど、彼が陸軍入るのは二次大戦からだし。




