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暗号名ミールナ

お待たせいたしました……見事に夏バテしてます。ただでさえ行動が制限されていてボロボロだってぇのに……一日一食状態ですよ。頑張れ私!



 MI5の一室で、マッカラン氏とディーンストン氏が事態の急展開に驚愕している頃、スミノフ氏率いるソヴィエト連邦のスパイたちも、英国機関と同様に狼狽していた。

 ここはテムズ川に浮かぶ船の上である。

 無線機で盗聴の電波を受信した、学生君ことフィドラーは、大急ぎで敬服する調教師ハンドラーを呼んだ。スミノフ氏にくっついて、髭もじゃのミールナもやって来る。

「……『ALIX』を狙っている、我々(ソヴィエト)以外の存在か」

 スミノフ氏は、口元を右手で覆い、しばし考え込む。

 アリスとメリッサ・ベルという女飛行師とを巡り合わせた、謎の襲撃者たち。彼らとジェームズ・トバイアス・エヴァンズとを、刃物の一振りで葬り去った「切り裂きジャック」の正体。

「CIAでしょうか?」

 フィドラーの答えに、スミノフ氏は少し目を眇め、そして「いや」と答えた。

「アメリカは英国政府からは、ソ連ほどには警戒されてはいない。『ジャック』は、我々以上に強硬な手段に打って出ている。ということは彼は……彼女、もしくは彼らかも知れないが……とにかく『ジャック』は、動けば我々以上に目立つ存在だ、ということだろう」

 CIAなら、無論アメリカ式の訛りはあろうが、ソ連系の自分たちよりは、よほどうまく英国に紛れ込んでみせるだろう。わざわざここまで目立つ行動をする必要はないはずだ。

 スミノフ氏の説明に、フィドラーは少し目を見開き、肩をすくめた。

「同志スミノフ、その解説は概ね理解しました。ただ、アビゲイル……ペルツォフカよりも目立つ存在というのが、僕には少々思いつきかねます」

 フィドラーの言いぐさに、ミールナが顔をしかめ、スミノフ氏は笑った。

「なるほど、同志フィドラー。君の言葉はもっともだ。さすがの私も、ペルツォフカより目立つ人間というのは、たしかになかなか思いつかないな」

 特徴的な赤毛を、さらに右側だけ短く刈り込んだ、独特の髪型。そして左側がまた、腰に掛かるほど長く伸ばされているから、輪をかけて悪目立ちする。

 ミールナは、そんな二人に言ってやった。

「……髪なら切りましたよ」

 途端、二人が絶句して、ミールナの方を向いた。

「切った?」

「切ったんですか?」

 スミノフ氏とフィドラーは、ミールナがアビゲイルの髪を切った時には、傍にいなかった。

 だから、二人が驚くのも無理はないことなのだが、それにしても驚きすぎではないだろうか、と、ミールナは内心に呟く。二人とも、彼女を見ていない。

 メリッサ・ベルに粘り勝ちを許してしまったことを、アビゲイルは心底悔しがっていた。いや、悔しいという形容では、あまりにも生易しいだろう。英国初の女性飛空兵として、そして「英仏海峡ドーヴァーの魔女」と恐れられた古兵として、アビゲイルは自分の航空戦での実力に自信を持っていた。

 そんな彼女が、二人乗りを始めたのはつい昨日という小娘に、最新式単座式飛空艇(エアロボート)の一人乗り、対、旧型二人乗りという、圧倒的に有利なはずの状況で敗北したのだ。

 それはそれはもう、顔色が真っ青になるほどのショックの受けようだった。

 噛みしめた唇が切れて、血が出てすらいた。

 その姿を見た瞬間、ミールナは慰めの言葉をのみ込んだ。

 アビゲイル・ウィリアムズの生き様を、ここに至るまでの血のにじむような努力を、メリッサ・ベルという天才は、一瞬にして叩きのめし、踏みつけてみせたのだ。

「あの小娘を、私、小娘じゃないと思う」

 半ば狂気を感じさせるような声で、アビゲイルは低く唸った。

「だから、私はゲイルに戻る」

 戦場で男たちと戦っていた頃の、いや、男も女もなく、命のやり取りをしていた頃の名前を告げて、彼女は、ナイフで左側の長く伸ばしていた髪を、ざっくりと切った。その鬼気迫る顔に、ミールナは静かに頷いたのだ。

 はさみを探し出して、ミールナは丁寧に、彼女の髪を切り、整えてやった。

 長く伸ばした左側の髪は、彼女の「女」の象徴だったのだろう。

 取り戻そうとしていたものを、彼女は捨てる。

 目立たなくなるためだとか、そういう理由ではないのだと、ミールナは理解した。アビゲイル・ウィリアムズのままでは、メリッサ・ベルには勝てないのだと、彼女はそう判断した。だから髪を切る。

 命がけで戦った祖国を捨てて、ソヴィエトへの内通者になる。

 それだって、重い決断だっただろう。

 だが、アビゲイルにとっては、今この髪を切る決断よりも、軽かったに違いない。

 ミールナはそう思う。そして、きっとこれが間違いない、と思う。

 整備士ヘロンというのは、飛行師スワロウのいちばん傍にいて、そして最大の理解者になる職業だ。このソヴィエト・スパイ・チームの整備士ヘロンとして、ミールナは「アビゲイル・ウィリアムズ」のことを、きっと誰よりも真剣に見ている。

 彼女が、心底から英国に期待していたこと。そしてそれを裏切られて、誰よりも絶望したこと。男とか女とか、そんなものを越えた、一人の「兵士」として扱われたがっていること。

 半分は男のように刈り込んで、半分は女のように伸ばして。

 どちらにもつけずに苦しむ彼女そのままのような、その髪型を終わらせる。

 英国への未練の欠片を、自分の意志で踏みつけ、丁寧に轢き潰すように。

 その決意を、変装だなんて安い判断で、汚してもらいたくない。

「ペルツォフカは、良い兵士ですよ」



 ばっさり短い髪になったペルツォフカを見て、スミノフ氏とフィドラーは「おお!」と声を上げた。ペルツォフカ自身は、そんな反応などどうでも良いという顔をしていたが、ミールナは、彼女の耳が僅かに赤くなっていることに気がついた。彼女には少し子どもっぽいところがある。

 さて、せっかく手に入れた最新鋭機だが、あれは倉庫に置いてきてしまった。とっておきの札を最初から出し、一回でアリスを追い込む予定だったのだ。

 しかし、メリッサ・ベルというとんでもない逸材が出てきたせいで、その目論見は大幅に修正を余儀なくされた。

 終わったことを悔やんでも仕方ないので、ミールナは整備に励む。

 ペルツォフカの愛機、改造を繰り返しつつも、大戦中から乗っているSF-A-K101。航続距離が長く、燃費も良い。敏捷性に優れ、旧型機の中ではトップクラスの、航空格闘戦に耐えうる操縦性の高さが特徴だ。その代償として装甲が少々心許なく、特に翼に一発喰らえば落ちるとも言われる脆さが弱点である。

 しかし、ペルツォフカの操縦技術と戦闘センスなら、かなりカバーできるだろう。さすがに、ピストル一発で落ちるほどには脆くない。対空砲の威力は向上を続けているが、この容赦のない古兵ならば、一発やられる前に、対空砲の砲座めがけて、正確に爆弾を投げ込むに違いない。

 それでも、なるべく被弾での損害を減らせるよう、ミールナは装甲をいじる。

 あの最新型に使われていた、超ジュラルミンで、カスタムパーツを用意しておいたのだ。万一はないと思いたかった。しかし、ユダヤの都市共同体シュテットルで培われた危機想定能力と対応能力は、はからずもその真価を発揮する事態となってしまった。

 迫害ポグロムの最前線で幼少期を過ごしたミールナにとって、危機を察知する能力、あり得る危険を全て想定する能力、そしてそれら全てへの対処を考え出す能力は、生き抜くために必要不可欠のものだった。

 察知しなければ逃げられない。想定できなければ避けられない。そして、もしもぶつかってしまった時に、対処法を考えつくことが出来なければ、それは死にさえ結びつく。

 ミールナはソヴィエト連邦に期待を抱いている。社会主義と、その果てに達成されるという共産主義に、心の底から希望を抱いている。

 アビゲイル・ウィリアムズが、男も女もないただの「兵士」になることを心底願っているのと同様に、ミールナは……ショレム・ダヴィドヴィチ・レヴィンは、心底から、自分がただの「人間」に、「労働者」になれることを願っている。

 ユダヤ人だとかロシア人だとか、フランス人だとかドイツ人だとか。そういう国境とか民族とか、そんなものを越えて、人間がまさに「人間」になって生きられる。それこそが共産主義なのだと、ミールナは信じているし、だからこそ、命を危険にさらしても、賭ける価値があると感じている。

(同志カール・マルクス……)

 共産主義を高らかに、世界に向かって宣言した、ユダヤ系家庭出身の背教者の名を、ミールナは……ショレム・レヴィンは、口の内側で密かに呟いた。

(あなたも「一人の人間」になりたかったんですか? ユダヤ人ではない、ただの「人間」に)

 生まれる環境を選ぶことは誰にも出来ない。

 生まれを理由に差別を受けるなんて、人類の歴史の中ではいくらでもあった。

 その生まれに固執して、逆境をプライドの根拠に転換する中で誕生したのが、ユダヤ教だ。

 反ユダヤ主義の連中の言うような「選民思想」なんて、自分たちの中にはなかったと、ミールナは思う。自分たちが優れているから選ばれただなんて、聖書には書いていない。

 執拗に書かれているのは、ユダヤの、イスラエルの民が、どれほどにか弱く力なく、そして神への信仰心すらも保ちきれないほどの、脆弱な心をしかもっていないか、だ。

 そのとおりだ。我々は、世界でもっとも弱い民族だ。

 弱いからこそ、神は数々の試練をくぐり抜けさせることで、我々を強い者へと変えて、神ご自身の御力を世界に示す事例となされるのである。そう、いつか。やがて。終わりの日に。

 そこまで勉強したところで、ショレムは聖書の勉強を止めた。

 啓蒙派ハスカラーの先生方の言う言葉の方が、ショレムにとってはよほど理解できた。

 いかに神の感覚において、千年が一日のようであろうとも、迫害の最前線で闘い、生き抜いてきたショレムにとっては、むしろ一日が千年のような苦痛の毎日だった。

 いっそユダヤ人であるという現実から逃亡したかったショレム・ダヴィドヴィチ・レヴィンにとって、共産主義思想というものは、変な表現だが、降って湧いた天啓だった。



 カスタマイズされた新しい機体を見て、アビゲイルは感嘆の声を上げた。

「すごいじゃない! たったアレだけの時間でここまで?」

 危機対処能力の差が、生死を分ける世界に生きてきたショレム……ミールナにとっては、このぐらいの警戒と対策は当然のことである。だが、それをはっきり言ってしまえば、アビゲイル……ペルツォフカにとっては、自分の腕が信用されていなかった、と思われるだろう。

 だからミールナは、特段何を言うでもなく、頷いた。

「ちょっと外へ出たら、試しに乗ってみるわよ。いいでしょ?」

 ペルツォフカの言葉に、スミノフ氏は頷いた。

「ああ……このままうまく、テムズから外海の方へ回れたら、いいだろう」

 よーし、と拳を握りしめて、ペルツォフカはミールナに、機体に施された変更点や注意点、新しく加わると推定される特性などについて、早速質問攻めを開始した。

 飛空師スワロウ整備士ヘロンの、ディープな会話についていくことを早々に諦めた、学生君フィドラーは、敬愛する調教師ハンドラースミノフ氏に、今後の予定を問うた。

「目的地の予定は?」

「サウサンプトン港だ。ポーツマスという手もあったが。ちと警戒が強いらしい」

「ウォルター・ロスチャイルド男爵の所在は?」

 ずばりと問われた内容に、しかし、スミノフ氏は悠然と回答する。

「コッツウォルズの方に所有している領地にいるらしい。カントリーハウスに滞在中のようだ」

「そろそろ社交のシーズンなのに、ちょいっと妙ですね」

 春から夏にかけて、上流階級の皆様方は、社交界での顔つなぎに忙しいはずだ。早い面々ではすでに十二月頃から、家族でロンドンにあるタウンハウスの方へ移動を開始する。

 ユダヤ系貴族であり、キリスト教行事であるクリスマスなんぞ知ったことではない、というロスチャイルド家の面々が、十二月の降誕祭関連の諸行事に興味を示さないのは、まだ納得できる。クリスマスを祝う代わりに、揚げ菓子と燭台ハヌキヤとロウソクを用意して、光の祭り(ハグ・ハウリーム)の別名を持つ「ハヌカ」を祝っている方が、よほど想像もつくというものである。

 だが、さすがにもう四月である。いちばん盛り上がるのが、これまたキリスト教行事である復活祭イースターの時期であるから、これに興味がないのも、まだ納得するとして。

 しかし、これから八月までの時期こそが、もっとも社交界がにぎわうシーズンなのだ。

 爵位を持つロスチャイルド男爵本人が、未だもって領地に引きこもっているというのは、何か妙な感じである。いや、ウォルター自身がすでに高齢であることを割り引いても、一族揃って、たいした動きを見せていないというのが、何やら気味が悪い。

「……同志スミノフ、憶測ですが、発言を許可していただけますでしょうか」

 少し考え込んでいたフィドラーが、そうっと挙手して調教師ハンドラーを伺った。

「許可しよう、同志フィドラー」

「これは、もう、ウォルター・ロスチャイルド男爵へと『ALIX』の情報が流れていると考えた方が、よろしいのではないでしょうか?」

「うん。エドモン・ド・ロチルド男爵のことからも考えて、おそらく、間違いないだろう」

「ということは、ウォルター・ロスチャイルド男爵は、領地の方で『ALIX』の到着を待っている……という勘定になりますか?」

 フィドラーの仮説に、少し考え込む様子を見せる、スミノフ氏。

「……おそらく、そうだな。手引き役だったと思しき、ジェームズ・トバイアス・エヴァンズが殺されてしまったことを鑑みるに、次はまた別の手引き役が出てくるだろう」

 そこまでは、納得のいく展開なのだが。

「その手引き役も、正体がバレたら、例の『切り裂きジャック』に殺されるのでは?」

 フィドラーが不安を口にすれば、調教師ハンドラー殿はあっさりと肯定した。

「その可能性は非常に高いな」

 けろりと物騒なことを言って、しかしスミノフ氏はのんびり頭の後ろで手を組んだ。

「だが、こちらには別の目算があってだね……」

 ニヤニヤと、チェシャ猫のように笑いながら、スミノフ氏は言葉を続けた。

「この目算が的中するなら、今度は逆に『ジャック』の方が、裏をかかれるさ」

 フィドラーは目を真ん丸にした。

 スミノフ氏は、空中に、上向きの正三角形と、下向きの正三角形とを組み合わせた、六芒星を描いた。すなわち、ダビデの星(マゲン・ダヴィド)……ユダヤの象徴と目されるマークである。

「我々の同志にはミールナがいるが……まぁ『ジャック』はユダヤ人ではないだろう。仲間のふりをして近づく方が、よほど便利なのに、あれほど過激な手段に打って出ている……さて、ここで問題だ。あの『ALIX』が、このままやられっぱなしで終わると思うかい?」

「……思えませんね」

「そう! では、次に『ALIX』が打つ手は何か……何、簡単な推理だよ」




お次はアリスとメリッサの話になる予定。

だがしかし、パソコン部屋に空調機器がないという、この焦熱地獄……夜間にちょこっと、早朝にちょこっとというペースでは、次が仕上がるのはいつになるやら。

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