MI5の右往左往
ぼんやりとした頭痛が止まらぬ……そして気がついたらおそろしく増えていたお気に入り件数にビビる。ありがとうございます。色々アレすぎる話ですが、てきとうに楽しんでやってくれれば幸いです。
報酬はしっかり受け取った。それもお墨付きのスターリング・ポンドでだ。
ただし、手にしたのは今までの働きの分だけだ。
「メリッサ、配達の仕事を継続して欲しいと、私は願っています」
まるで常日頃の新聞配達でも頼むように、アリスは平然とそう言って笑った。
メリッサはしばし呆気にとられ、それから首を左右に振った。
「ちょっと待って……さっき『英仏海峡の魔女』とやり合った時点で、相当めちゃくちゃな仕事になってると思うんだけど……まだやれと?」
まだセント・ジェームズ・パークへ行かせるつもりなのか。
そんな思いを込めて睨むと、美少女は楽しげに微笑んでみせた。
「その魔女相手に、逃げ切り戦術を展開して成功したのは、あなたです」
「あれは機体性能の問題で……って、違う! そうじゃない!」
思わず真面目に答えかけて、メリッサは本題からずれたことを認識する。軌道修正だ。
「私がアリス、あなたに協力したのは、あなたが『空から戦争をなくす』と言ったからよ? それが蓋を開けたら、あなたの目的はユダヤ人国家建設のために、ウォルター・ロスチャイルド男爵を説得すること、だったのよ? 嘘をついたのよね、私に」
「私は嘘を言っていません」
アリスは、逆に怒ったような表情で、メリッサを睨んできた。
喧嘩なら買うぞ、と、メリッサも負けじと睨み返す。
「嘘つけ。ユダヤ人国家建設と、空からの戦争駆逐と、スターゲイザー財団と空軍の目論見つぶしと、この三つがどうやって重なるって言うのよ」
「重なります」
「どうやってよ?」
「同胞じゃないメリッサには、言えません。詳細は言えませんが、重なります」
アリスはまたも残りの紅茶に指を浸け、数式を書く。
「私に分からないと知っててやってるわよね?」
「分からなくても、こうやって式を書くのを見せることは、単なる嘘ではないことを示す一つの手段でしょう……この式は、対航空機の戦闘で有用な兵器を開発するのに必要なものです」
アリスはまた長ったらしい数式を並べると、メリッサを睨んだ。
「私は、現存の航空戦力を著しく損耗させる、もっと言うと、空軍を役立たずにする技術を持っています。この技術が出現することによって、空での戦闘が変質するのは明白です」
その内容は、ベンジャミンの古着屋でも聞いた。
メリッサが知りたいのはそこではない。
「うん。それは分かる……それが『ユダヤ人国家建設』と、どうして結びつくの?」
「喋る必要がありますか?」
「喋ってくれないと、配達してあげない」
つれないアリスの返答に、ならこっちもだ、とばかりにメリッサは切り返した。
「私より『魔女』と上手くやりあえる、英国政府の直接統制下にない飛行師がいるのなら、別に話してくれなくても良いわよう」
べっ、と仕上げに舌を出す。
アリスは忌々しそうに、はっきり聞こえる音で舌打ちした。
アリスの「手駒」に、熟練の航空兵がいないことは明白だ……でなかったら、場当たり的な対応だったとは言え、わざわざ英国人のメリッサを雇うことはなかっただろう。少なくとも同胞であるベンジャミンの古着屋に到着した後で、ダイヤをメリッサに見せたりはしなかったはずだ。
そしてさらに、やはり同胞であるモーゼス・シュワルツ氏と、英国に潜む他国諜報機関の人間が慌てふためくほどの込み入った話をした後で、まだまだメリッサを雇おうとするのだから、これはもう、アリスにはメリッサ以外に、飛行師のアテはないと見て、まず間違いない。
この揺さぶりは、見た目からは想像もつかないほど強かで太々しい彼女に、思った以上に有効だったようだ。行儀悪くもテーブルにひじを突いて、アリスは渋々といった風ながら、口を開いた。
「冷静に考えてみて下さい」
「何をよ?」
「圧倒的技術力を擁する存在がいたら、それを意識して、他国の動きは牽制されるでしょう?」
その切り口には、たしかに幾分かの説得力がある。
「その牽制を行う存在として、我々の国は成立するのです」
アリスは、これが答えだ、とばかりに、それっきり鼻を鳴らして腕組みをしてしまった。
「……ごめん、よく分からない。もうちょっと、かみ砕いてくれない?」
アリスは苦虫を噛み潰したがごとく、思いっきり顔をしかめた。
美少女は、こんな表情をしても様になるのだなぁと、メリッサは変なことを考える。
さながら覚えの悪い生徒に、鞭を構えつつ眉をつり上げるガヴァネスのように、アリスは実に嫌そうな顔で、「つまりですね」と言葉を続けた。
「我々が独立します。そうすると、私の頭の中にある技術の諸々が、既存のどの国にも恩を持たない、完全な新興勢力の所有になります」
まぁ、いかなロスチャイルド男爵が協力したとて、新生ユダヤ国家は英国政府に恩などないだろう。何せ、こんな事態になったのは、半分以上が英国政府のせいである。
「うん。それは分かった」
「そして我が国は、この技術力を武器にして、他国の動きをコントロールします。それによって、戦争が発生しないように圧力が掛けられるのです」
「……なるほど」
はっきりとは分からないが、何となく分かったような気はした。ようするに、新生ユダヤ国家は、アリスの頭脳に秘められた様々の技術によって、世界各国を牽制する抑止力になるというのだろう。メリッサの頭ではそこまで明確に言語化された答えは出せなかったが、それらしき理解は得られた。
「……で、私は何をしたら、追加報酬を得られるのかしら?」
メリッサはそう問いながら、椅子の上で足を組んで、ふんぞり返った。
MI5のマッカラン氏と、MI6のディーンストン氏は、急激に増えた情報を処理せねばならず、それはそれは忙しくなった。生真面目なディーンストン氏は、胃に穴が空きそうな量のコーヒーを砂糖も入れずに飲みながら、マッカラン氏がお仲間から調達した情報に目を通している。
昨日アリスを襲ったと思しき連中がまとめて斬り殺され、アリスと彼女を運んだ飛行師のメリッサが逃げ込んだ古着屋の揚発場が爆破され、先だって空警部隊に納品されたばかりであるはずの最新鋭機が敵勢力の手中にもあることが判明し、それどころか「英仏海峡の魔女」と恐れられたアビゲイル・ウィリアムズが敵勢力に与していて、そしてアリスを確保しようとしたらロスチャイルド家の名前が飛び出してきたのである。
そろそろ混乱しそうである。
マッカラン氏は、混乱して頭を休めるためと称して、砂糖とミルクをたっぷり入れたアッサム・ティーを飲み、そしてバターたっぷりのマドレーヌを囓った。
「エドモン・バンジャマン・ド・ロチルド男爵か……」
唸りながら、ディーンストン氏がようやくビスケットに手を伸ばした。一時だけのとはいえ相棒たる彼の胃壁に穴が空くのは、マッカラン氏も勘弁願いたいことだったので、もっと食えという心を込めて、自分用に用意した焼き菓子を、載せた皿ごと彼の方へ押しやった。マッカラン氏の心中を察してか、ディーンストン氏は、食べ応えたっぷりの分厚いショートブレッドを手に取った。
「現在フランスは共和制だから、厳密には『男爵』ってのは、帝政時代の名残の、あだ名みたいなもんだがな……まぁ、英国の爵位は現在進行形だ。うん」
最後は歯切れ悪くつけ足して、マッカラン氏はスクランブルエッグにマヨネーズをかけ、薄く焦げ目がつくように焼いたイングリッシュ・マフィンの間に、ハムと挟んでかぶりつく。相棒の旺盛な食欲を見て、ディーンストン氏は何故MI5の一室に、わざわざトースターが設置されているのかを理解した。いや、マッカラン氏だけのために設置されたのではないだろうが、彼のためにも素晴らしいことであることは、もはや疑う余地のない事実だろう。
「ド・ロチルド男爵は、フランスでも知られたシオニストだ。ウォルター・ロスチャイルド男爵の件といい、護衛のジェミルというトルコ人の件といい、『アリス』の本音がシオニズムと関連しているのは、これでほぼ確定だな」
チーズを載せたライ麦パンに、ケチャップとたっぷりのピクルスを載せながら、ディーンストン氏がそう言った。ようやく、固形物による胃壁保護の重要性に気づいたようだ。
「……国外での彼女の動きの追跡では、判明してなかったと?」
意外そうに首を傾げながら、マッカラン氏はぺろりと唇を舐めた。
「MI6が情報を集められるようになったのは、彼女とパリ・ロスチャイルド家の接触からだ。そこから急遽遡って、フランクフルト家とウィーン家の情報を照合した。十二歳の小娘が国際問題の鍵を握る重要人物だなどと、すぐに思いつく方がどうかしているだろう」
「それもそうだな」
ピックに刺したピクルスをぱくりと口に納め、マッカラン氏は頷いた。
ケチャップを口まわりにつけつつ、ディーンストン氏は話を続ける。
「大戦のせいで資料がひどいことになっていて、アリス本人の詳細は未だもって不明なんだが、彼女が大陸でロートシールト財閥に示した論文は入手できた……それで、我々は彼女のとんでもない危険性に気がついたというわけだ。同時に、スターゲイザー財団もな」
紙ナプキンで律儀に口元を拭って、ディーンストン氏はピックをつまんだ。
「『魔女』を雇ったヤツと財団とは、どこかで繋がるだろうが……」
一口大に切り分けられたオレンジにそれを突き刺し、ディーンストン氏は目を眇めた。
「ド・ロチルド男爵の話が時間稼ぎの脅しであれ、事実であれ、アリスとウォルター・ロスチャイルド男爵を、接触させてはならない。それが現在の最重要事項だ。事実の確認も重要だが、英国貴族の保護下に入られるのは実にまずい」
気になることが大量にあるのは事実だが、それより優先すべきことがある。
「うむ。それは間違いない事実だ」
大いに頷きながら、マッカラン氏は同僚たちがまとめてくれた書類を広げた。書かれているのは、植民地省勤務の官僚で、姓を「エヴァンズ」という者たちの情報だ。珍しくはない姓なので結構な量があるが、ここはスミスやジョーンズでなかったことを感謝すべきなのだろう。
追加情報を元に、中東と関連のある人物に焦点を絞った。
「出たぞ、相棒……アリスのお目当ては、おそらくコイツだ」
ディーンストン氏に書類を押しやり、マッカラン氏は再びピクルスをつまんだ。歯ごたえを楽しみながら電話を取り、早速、情報収集を仲間たちに依頼せねばならない。
「ジェームズ・トバイアス・エヴァンズ……」
外務省および植民地省で中東関連の部署を渡り歩き、さらにはウォルター・ロスチャイルド男爵と、大学で同窓だ。おまけに祖母がユダヤ人とくれば、これはもう間違いないだろう。
一つ辿り着いた、とディーンストン氏が思った瞬間、受話器を握っていたマッカラン氏が、「はああぁぁ?」と、素っ頓狂な叫び声を上げた。
「コンチクショウ!」
書類をひっくり返しながら、マッカラン氏は受話器に向かって怒鳴りつける。
「警察に、とっとと情報を寄こせと言えよ! あと、モーゼス・シュワルツは……よし、目を離すなよ! あン? ベンジャミン・シュムエレヴィッツが行方不明? 何やってんだ、役立たずの庭師どもめ……ああ、メリッサ・ベルの配達屋組合に監視追加だ。新聞配達の仕事を休む連絡をするはずだからな……とにかく、その刃物を突き止めろ! 至急だ!」
矢継ぎ早に指示を出して、マッカラン氏は慌ただしく次の電話を掛ける。
「空警部隊のティルベリー・ドックス詰所に回せ! 大至急だ!」
交換手に、ほとんど怒鳴るように指示する。
「分隊長のスペイバーンにつなげ! 小娘二人組の件でマッカランが急用だ!」
ただならぬ気配に圧されたか、聞き耳を立てているとはいえディーンストンのところにまで、慌ただしく線を繋ぐ音が聞こえてきた。
「……アーサー? さっきド・ロチルド男爵の名前を出した小娘二人組だが、宝石店への手配は? グレイズの四番ポートに下りたんだな……ハァ? 尾行つけてねぇとか、このボケナスが! 見つけたらすぐに取ッ捕まえろ。フランス政府だか大使館だかとのことは、MI5で何とかする。気にするな。とにかく、一刻も早く、捕まえろ。可及的速やかに、骨の二三本へし折ってもいいから、小娘どもを捕まえるんだ!」
剣呑なことを言い出す相棒に、さすがのディーンストン氏も顔をしかめる。
「あと、魔女の捕獲はどうなった?」
ついでのように尋ねるが、スペイバーン氏にとっては、むしろこちらの方が重要事項だったようで、ディーンストン氏にも聞こえるほど大声で、成果についてまくし立ててきた。
曰く、クリフ・プールズ近辺で、燃料がほぼ空になった機体は発見したが、魔女自身にはうまく撒かれたらしい。一応、クリフ一帯に捜査の網を張っているそうだが、水路の発達したあの近辺で船を使われると、いかに本人が目立つ外見とはいえ、発見は相当難しいらしい。
たしかに、テムズ川を挟んでクリフの対岸には、大規模な国際港であるワールド・ロンドン・ゲートウェイ・ポートもある。船舶通行量の多さは推さずとも知るべしである。
魔女の捕獲は難しそうだが、あの外見であるし、何より戦中戦後のエピソードで無駄に有名人だ。動きがあれば高い確率で目につくだろう。おそらく。
彼女がどういう理由で「連中」に与したのかは不明だが、惜しいなと、ディーンストン氏は素直に思う。戦争終結後、空警部隊に入れておけば、今回のような事態は避けられただろうに。
女の飛行師が「アリス」を連れ去ったと聞いて、ディーンストン氏が真っ先に連想したのは、他ならぬアビゲイル・ウィリアムズだった。英国初の女性飛行師にして、女飛空兵。戦時からの通算番号でも100番台の猛者。そんな彼女が「アリス」の味方でなく敵であることは、英国にとってどんな影響をもたらすのだろう。
沈思しかけたディーンストン氏を現実世界に引き戻したのは、マッカラン氏だった。
「ミスタ・ディーンストン。事件だ」
ようやく受話器を置いたマッカラン氏は、重々しい口調で相棒に告げた。
「らしいな」
「うむ……同時進行で複数の事件だ。まず、もっとも腹立たしいニュースからだ」
そう言って彼は、ばん、とジェームズ・トバイアス・エヴァンズの履歴書を叩いた。
「エヴァンズも斬り殺されたぞ」
その知らせに、ディーンストン氏はぽかんと口を開けた。
「……は?」
それ以上、彼には何も言えなかった。
忌々しそうに顔をしかめ、マッカラン氏は自分の首を刎ねるように、手を動かしてみせた。ディーンストン氏は、黙って続きの言葉を待つ。
「昨日の連中と同じく、鋭利な刃物で頸動脈をバッサリだ。セント・ジェームズ・パーク湖から、遺体が引き揚げられた。警察の見立てじゃ、昨晩じゅうには死んでるらしい」
どうやら昨晩のセント・ジェームズ・パークには、切り裂きジャックが復活していたらしい。もっともこちらのジャックは恐ろしく手際が良く、どの死体もほぼ一撃で頸動脈を切断されているようだ。ヴィクトリア女王時代のジャックに比べると、いっそ職人と言いたいほどの鮮やかだ。
「二つ、絡んでるな……」
マッカラン氏の意見に、ディーンストン氏も頷いた。同感だ。
「魔女を雇った連中と、切り裂きジャックと……今、俺たちの他に二つの勢力が、『アリス』を狙っている……シオニスト連中と『アリス』が接触するのが早いか、魔女とジャックのどっちかが先に彼女を捕まえるか、それとも俺たち英国政府が彼女を確保するか」
とにかく、今はティルベリーの空警兵たちを急かすしかない。
状況整理について、マッカランとディーンストンは実に重宝しますね。
スペイバーンもスコッチ・ウィスキーの蒸留所。創業1897年。処刑場跡地に建てられていることで知られる蒸留所の一つ。もう一つ有名なグレンマレイは、さすがに「グレン」がウィスキーっぽすぎるので避けました。