ディアスポラの民
お久しぶりです。今回は世界史的な内容。パラレル世界なんですけどね。
メリッサは、頭の中で状況を整理しようとした。
まず、アリスの持っている『ミェツタテリィの遺産』とよばれるダイヤモンドが、17世紀後半の非常に古いカットを施されている。そのダイヤを集めた一人が、ロシア女帝エカチェリーナ2世。
「このダイヤモンドは、ロシア皇室ゆかりのものってこと?」
その問いに、男はうむ、と一つ頷いた。
「オールド・ヨーロピアン・カットを、通常のブリリアント・カットに研磨し直そうとすれば、どうしたってカラットを落とすことになる。良質な石なら、このカットでも輝きは十分だ。だからあえて研磨し直されることなく、今まで伝わってきたんだろう」
ちなみに研磨し直すと、一回りは小さくなると言う。ダイヤで一回りは大違いだ。
「で、お嬢……どこまで話してる?」
質屋の主人の改まった問いに、アリスは軽く肩をすくめた。
「私たちがユダヤ人で、フランスのエドモン・ド・ロチルド男爵とつながりがあること。それから、さっき空警兵に引き下がるように警告する時に、ウォルター・ロスチャイルド男爵の名前を使っちゃったのを聞かれたわ」
聞かれるも何も、思い切り叫んでいたじゃないか、とメリッサは一人ごちた。
「……結構、思い切った札を切りましたなぁ」
呆れたように、男は呟く。
「プランAはだめだわ。ロスチャイルド家との交渉はおおっぴらでいくしかない」
アリスがため息をつく。
からんからんとベルが鳴って、女中が入ってくる。銀の盆にティーセットが乗せられていた。メリッサは素早く彼女の顔を確認した。アリスには到底及ばないが、なかなか可愛い。栗色の髪の毛に、いくぶん茶色がかった明るい緑色の目。年の頃は十六ぐらいだろうか。
メリッサが、可愛い女中さんのお茶の用意に見惚れている間にも、アリスと男の話は続く。
もっとも、イディッシュ語なので、メリッサにはさっぱり分からない。
「ロンドン家の説得は、かなり厳しいでしょうな」
「先代ナサニエル様からして、反シオニストだもの……ロンドン家でヘルツルに好意的なのは、ウォルター様ぐらいなものよ。そのウォルター様が当主やってるうちに、なんとか話をまとめないと」
「なんとかして下さいよ、本当に」
「エドモン様に紹介状を書いていただけたのは、本当に幸いだったわ」
「そうですね。せっかくこんな西の果ての島国まで来たんですから、なんとしても……」
「ええ。ウィーン家から、フランクフルト・アム・マインの本家、パリ家と説得を重ねて……でも、お金の話も重大なんだけど、ロンドン家との交渉は特に特別なんだから……」
「で、何某エヴァンズとの接触は?」
「接触を試みようとするたびに、襲撃されるのよ……英国の防諜ってどうなってんだか」
「おや? ということは、他国の機関の?」
「少なくとも、本拠地であんな威圧的で暴力的なアプローチを掛けるほど、MI5が無能だとは思わないわ。それとも、買いかぶりすぎかしら?」
「いえ。同感です。本拠地でそんな乱暴な真似はしないでしょう」
そう言い終えてから、男は言語をイディッシュ語から英語に切り替えて、女中に言った。
「ありがとう、ミリアム。また待機しておいてくれ」
女中は軽く一礼して、すいっと引っ込んだ。
「……どんなに細い糸であろうと、私たちはこれを掴む。必ず」
アリスは決然とそう宣言した。
「ロスチャイルド男爵の説得は、絶対に成功させる……スターゲイザー財団を敵に回しても、お釣りが来るだけの見返りを提供するわ」
彼女はメリッサに理解できないイディッシュ語ではなく、あえて英語でそう言った。
だからメリッサは、多少の質問は許されるようだと判断した。
「あの……アリス? あなたの目的は、植民地省の官僚である『エヴァンズ氏』との接触……を通り越したところにあるの?」
その質問に、男は少し眉をひそめ、しかしアリスは平然と頷いた。
「もう話すしかないでしょう……ミスタ・エヴァンズは、植民地省の官僚であり、中東を担当する部署に所属しています。そして彼は、ウォルター・ロスチャイルド男爵の知己です。私がフランスからイギリスへ渡ってきた真の目的は、ロンドン・ロスチャイルド家の説得です」
どう見ても年少者のアリスだが、この場の主導権は、質屋の主人らしい男にではなく、彼女が完全に握っているようだ。男はアリスの話を遮ろうとはしない。
それだけアリスが、部外者のメリッサが聞いても大事だと理解できるこの企みで、重要な役割を担っている、ということだ。いや、任されている、のかもしれない。
アリスは紅茶を一口、優雅に口に含む。
薄汚れた下層階級の服装をしていても、漂う気品は見間違えようもない。
メリッサは、アリスへの「お嬢様」という形容を、「お姫様」に訂正した。
使用人に傅かれることが当然、という顔をしている人間を「お嬢様」と呼ぶのなら、アリスは「お嬢様」では決して、ない。質屋の主人に「お嬢」と呼ばれていようが、アリスは戦う姫君だ。ロスチャイルド男爵を説得することで、彼女が何を得ようとしているのかは分からない。それでも、彼女が得ようとしている何かが、きっととてつもないものであろうことは、ひしひしと皮膚へ染み入ってくる。
今、自分は戦争の中にいる。
メリッサは、啓示のようにその事実を認識した。
スターゲイザー財団の一部と空軍による、軍産複合体の成立妨害というのは、すなわち、目に見える戦争の前哨戦、いわば非顕在の戦争を戦うことに他ならない。
愕然とするメリッサの耳に、カチン、とカップを置く音が響いた。
「メリッサ、あなたの認識する『アレクセイ・ミェツタテリィ』とは、何者ですか?」
アリスの、やや唐突とも取れる問いに、メリッサは呆然と口を開いた。
「アレクセイ・ミェツタテリィとは……?」
おうむ返しにそう言うと、ええ、とアリスは頷いた。
「推測するに、ロシアからの亡命貴族で、航空機産業の基礎を築いた天才、でしょう?」
まったくその通りだったので、メリッサは黙って頷いた。
アリスはじっとメリッサの目を見つめながら、次の問いを発した。
「ミェツタテリィ、とは、どういう意味か知っていますか?」
メリッサは、目を瞬かせた。
「意味?」
やはり知らなかったのか、とでも言うように、質屋の主人が少し口元をつり上げた。
アリスは気にする様子もなく、答えを述べる。
「元は『мечтатель』……ロシア語で『夢見る人』です」
「……偽名ってこと?」
なんとか絞り出した答えは、面白くも何ともないものだった。アリスは淡々と答える。
「そうとも言えます」
その白く細い指先が、こつん、とダイヤモンドを突いた。
「アレクセイ・ミェツタテリィ……現代世界にその名前で知られている男は、元々はロマノフ家の縁者……つまり、ロシア皇帝一族の一人です」
それで、メリッサの中でもようやく話が繋がった。
「エカチェリーナ2世以来の宝物も受け継ぐ、由緒正しきロシア貴族、ということ?」
そういうことです、と質屋の主人は頷いた。
「ダイヤのうちのいくつかは、古い王室の財産目録で確認が取れるほどです」
アリスはそんな宝物を、こともあろうに下着に隠して持ち歩いていたのだ。用心深いのだか、間が抜けているのだか、ここまで話が壮大になると、いっそ笑うしかない気がする。
アリスは、そんなメリッサの視線の意味を汲み取ったかのように、するりと視線を天井に逃がし、まるで話を濁すかのように、再びティーカップに口をつけた。
「先ほどから『ミェツタテリィの遺産』と呼んでいる、このダイヤモンドは、償いのために私たちに届けられたものです」
一息おいてから語られた単語に、メリッサは首を傾げた。
「……償い?」
アリスは黙ってカップの紅茶に人差し指を浸けると、ものすごい勢いでテーブルに文字を書き連ねはじめた。最初は単語かと思われたそれは、ほどなく非常に複雑な数式だと判明する。
「この式がどういう意味か、わかりますか?」
言外に、分からないでしょうけれど、と付け足されているような気がしつつも、しかし、さっぱり理解できないことなのは事実なので、メリッサは黙って頷いた。
「航空機の設計に関連する式のいくつかです」
そういえば、古着屋ベンジャミンは、アリスについて「おそらく技術特許か何かを持っている」と言っていた。そらでこんな式が書けるのだから、それは大当たりだったようだ。
だが「償い」という語の説明には、直接は結びつかない。
「……まさか」
「元々、航空機開発のための理論研究や、設計に関与していたのは、私の両親なのです。ミェツタテリィという人物は、亡命の際にそれらの資料を持ち出したに過ぎません」
頭を鈍器で殴られたような衝撃が、メリッサを襲った。
「……本当?」
「現実です。もしメリッサ、あなたが航空機関連産業の発展の歴史について学んでいるのなら。思い返してください。アレクセイ・ミェツタテリィの航空機開発は、いきなり試作機の製作から始まりましたね? 違いますか?」
ほとんど絶句しながら、しかし記憶を探ったメリッサは、頷くしかなかった。
空を飛びたかった。だから航空機を作ることにした。
それは非常に自然なようでいて、実はきわめて不自然な展開だ。
空を飛びたいと思った人間など、古今東西掃いて捨てるほどいただろう。空を飛びたいと思ったからといって、そこからいきなり航空機の製作を開始して、そして成功させるというのが、どれだけあり得ないことなのか、言われて考えてみれば、それは明白だった。
ミェツタテリィが天才だった、という一言で、今の産業界は片づけている。
だが、彼が天才であったという一言で片づけるのは、暴論だったのかもしれない。
亡命前にある程度の理論を完成させていた、のだとしても、いくつか不自然な点はある。
そんな有望な研究を一族の一人がしているのに、航空機などに欠片も興味を示さなかったロシア皇室も妙だし、革命後ロシア、すなわちソヴィエト連邦で、なかなか航空機開発が進んでいない、というのも変だ。先の大戦では、新兵器にもかかわらず、実戦配備に至るまでの時間が異様に短かったことから考えても、ロシア国内にはある程度の研究蓄積があったはずである。もし、アレクセイ・ミェツタテリィが、何某ロマノフとして、ロシア国内で航空機開発の研究を行っていたのだとすれば。
だがそれが、ロシアでない国で進められていた研究なら、ソヴィエト連邦における航空機開発の停滞については、研究蓄積が存在しないのだから、当然の帰結といえる。
だがアリスの両親は、ハプスブルク帝国の技術官僚だったはずだ。
「ロシアに航空機開発の研究蓄積が存在しなかった、のは理解したわ。でも、それならあなたの両親がいたハプスブルク帝国はどうなの?」
その問いに、アリスと質屋の主人は、同時に皮肉るような笑みを浮かべた。
「メリッサ……私たちの祖国は、二千年前に滅んでいるのですよ」
ユダヤ人。
世界史上で最も有名な、さまよえる亡国の民である。
アリスは穏やかに、しかし底知れない闇を覗かせる目で、メリッサを見つめた。
「メリッサ、ドレフュス事件を覚えていますか?」
いきなり出てきた事件の名前に、しかし、メリッサは目を白黒させる。
下層階級出身の教養のない彼女は、隣国の事件をよく知らなかった。
きわめて簡単に説明するならば、フランス陸軍所属のドレフュス大尉が、ドイツのスパイであるとして罰された事件だ。だが、当時から冤罪ではないかとの疑いの声があがっており、そして、その後にハンガリー系フランス人のエステルアジが真のスパイであったことが判明している。
「しかし真犯人だと判明した今でも、フランス政府は公式にはドレフュス大尉の無罪を認めていません。何故か? それは彼がユダヤ人だからです。ゾラがいくら糾弾しようと、政府は動かない。どれほど身を尽くし心を尽くしても、私たちはユダヤ人であって、フランス人にはなれかったし、オーストリア人にもなれなかった」
歯噛みをし、悔しげにアリスはどこかを睨む。
「この事件をきっかけに、ハンガリー系ユダヤ人のヘルツル・ティヴァダール……テオドール・ヘルツルは、一つの結論に到達しました。フランス民族が多数派である国がフランスであり、ドイツ民族が多数派の国がドイツやオーストリアであり、マジャール人の国がハンガリーであるのなら……ユダヤ人が多数派の国を手に入れることで、この問題は解決されるのだと」
自分たちが少数派であるから差別されるのなら。
自分たちが多数派の国をつくれば、この差別から解放されるはずだ。
……簡潔明瞭な結論である。
「そう。『ユダヤ人国家』の建設です」
ヘルツルが1896年に出版した本である。
「これは先の大戦終了後、達成されるはずだったのです」
アリスは悲痛な顔で、吐き捨てるようにそう言った。
「先代ロスチャイルド男爵、ナサニエル・ロスチャイルドからの戦費援助と引き替えに、英国政府は中東地域にユダヤ人の『National Home』の建設を認めるという、バルフォア宣言を行いました……しかし、同時に連中は、アラブ人とはフサイン=マクマホン協定を、フランスとはサイクス=ピコ協定を結んでいた。終戦を迎えても、我々の悲願は叶わなかった」
大国の意志に踏みつぶされたのです。
ほとんど叫ぶようにそう言ったアリスは、今にも泣きそうな顔をしていた。
「私は、亡き両親の意志を、私に希望を託して逝った全ての同胞の夢を、実現します。そのために、ウォルター・ロスチャイルド男爵の協力が不可欠なのです。現状、我々が祖国にと望む地域を武力で実効支配しているのは英国ですし、その英国で我々に協力してくれるだろう有力者は、彼の他にありません」
メリッサは、あんぐりと口を開けた。
そしてそれから、いや、でも、と呟いた。
「たしかに男爵は、イギリスで一番有力なユダヤ人だと思うわ。私だってそう思うわ。だけど、たかが男爵一人の心で、大英帝国が植民地を明け渡してくれると言うの? ユダヤ人国家建設のために?」
メリッサの問いに、またもやアリスと質屋の主人が、まったく同じタイミングで、皮肉っぽい笑みを顔に浮かべた。
「そんなわけ、ないでしょう」
にべもなくアリスはそう言い切った。
「はあぁぁ?」
メリッサは今度こそ目ン玉を引ン剥いた。
「だったら、どうしてこんな危険を冒してまで、男爵と伝手を得ようとするのよ?」
「彼の協力が必要だからです」
「その男爵の協力では、パレスチナ地域でのユダヤ人国家建設はできない、と、さっき断言したのは、他でもないあなたよね、アリス?」
メリッサの叫びに、しかしアリスは、意味ありげに微笑むだけだった。
「黙って報酬分の仕事をしてくださいな、英国人」
命の恩人に向かって、さすがにその物言いはないだろう、と叫ぼうとしたところで、質屋の主人がチリンチリンとベルを鳴らした。
ほとんど間をおかず扉がノックされ、ミリアムと呼ばれた女中が姿を見せる。
その手に持たれた盆の上に、頑丈な麻袋が載せられていた。
質屋の主人は、まるで小麦粉袋でも開けるように、無造作にその袋の口を開けた。
中には、間違いようもない、正真正銘の銀製ポンド硬貨が詰まっていた。
どうぞと押し出された袋の中に手を突っ込んで、メリッサはもう何も答えられない。
「紙幣だと不安でしょうから、スターリング・ポンドで用意させました。残りはロートシールト銀行の手形になりますけどね」
にんまりと笑うアリスの表情は、むしろチェシャ猫のようだった。
テオドール・ヘルツルの『ユダヤ人国家』出版年は、現実世界と一緒です。まぁこんなもんを問うなんて、H橋大学の入試ぐらいな気もしますが。いや、さすがのあそこでもコレはないか?
あの大学の世界史は、なんだってあんなコアな問題だらけなんでしょうか……オタクのオタクによるオタクのための世界史か? そうなのか?!
体はまだまだアレなので、次の更新までもまた空きそうです。
予想通りに腫瘍が見つかって、なんかもういっそ笑うしかないのか……とにかく、完結目指して頑張りますよ! ただしマイペースで!!