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「私の歓喜の息子」

※ この話は、いわゆる陰謀論とは無縁に進みますぞ! ※



 空警兵レイヴンたちは一時撤退してくれたが、メリッサの衝撃は収まらない。

「アリス……私の身元をバラしたのは何故?」

 膝の上のぬくもりが、愛しかったはずなのに、無性に憎らしい。

 金色の三つ編みが、風にヒョイヒョイと揺れている。

「調べればすぐに分かることを隠すのはまずいです。公的機関からの介入を許します」

 淡々と美少女は返答する。

「だからって……」

「それに、隠し立てするとまずいでしょう。ベンヤミンの古着屋、爆弾を仕掛けられました。飛んだ方向から揚発場ポートをある程度絞られたのでしょう。しかし、それだけではない」

 アリスの頭脳はこの瞬間だって明晰らしい。

「MI5なら、爆弾まで使って威嚇する必要はないです。MI6の非合法工作とは違い、ここはロンドンなのです。彼らの本拠地です。小娘一人を確保するために、市民の生活を害することはないでしょう。つまり、さっきの爆弾と赤毛の魔女は、英国政府機関とは関係ない」

 言われてみれば納得だ。

「スターゲイザー財団関係者の可能性はありますが、それでも爆弾まで使うのは解せません。となると、彼らは英国で非合法で活動している勢力、と考えられます。おそらく、他国の勢力でしょう」

「非合法だからって、爆弾まで使うとは思わないけど」

 非合法な手段を選択肢に入れることと、実行してしまうのは別の話だ。

 アリスは少し黙って、それからとんでもないことを言った。

「おそらく、昨日のミスタ・シュヴァルツとの会話を、盗聴されたと思います」

「ハァ?!」

 メリッサの叫び声が響く。うるさかったのだろう。アリスは耳を塞ぎたそうに、肩をゆすった。ここで手を離したら、落下の危険が増大するので、堪えたというところだろう。

「私と彼の話に、連中は焦ったのでしょう。それで性急な手を打った」

 メリッサにはわけがわからない。

「ちょっ、ちょっと……アリス、あなたとモーゼスは、昨日電話で話しただけの間柄よね?」

 顔を合わせたことすらない、しかも長年の文通だとかがあるのならともかく、昨日初めて電話で話しただけの相手と、他国の工作員が焦るほどの話をしたというのか。

 メリッサの問いに、アリスは意味ありげに頷いた。顔は見えないままだが。

「個人的には、昨日の電話だけの関係です」

「……じゃあ、他に何の関係があるっていうのよ?」

 さっきアリスが脅しに使った人物を考え、そしてメリッサの中に、一つの仮説が浮かぶ。

 ばかばかしい都市伝説だろうけれど、でも、それが正解のような気がする。

 モーゼス・シュワルツは、ポーランド系のユダヤ教徒イギリス国民。

 ライオネル・ウォルター・ロスチャイルド男爵は、ユダヤ教徒のイギリス国民。

 メリッサはフランスの事情については疎いが、エドモン・バンジャマン・ド・ロチルド男爵とやらも、おそらくロートシールト家の関係者だろう。

 アリスが答えた。

「私たちは、ユダヤ人です」

 メリッサの推測は的中した。目の前がぐらぐら揺れた気がした。

「昨日言いましたね? 私はドイツの東イースト・オブ・ジャーマニィから来た。そして私は、ベンヤミンに『お前は?』と訊かれた時に、『オスト』と答えました」

「……ええ」

 記憶を掘り返し、メリッサは頷く。

「私は東から来たのです。ドイツの東のオーストリア、そのさらに東から」

 ドイツの東はオーストリア、その東は東欧諸国、そのさらに東は……トルコだ!

 そうだ、思い返せば変だったはずだ。

 どうしてアリスの護衛は、ジェミルというトルコ人だったのだ?

「……トルコから来たの?」

 アリスは首を左右に振った。

「私は、オスマン帝国に、いたことがあります。ジェミルとはその時からの付き合いです。彼について、私は昨日『ローマの子孫』と言いましたよね?」

「……ええ」

「あれは正確には『ロマニオット』……ギリシャ系ユダヤ教徒のことです」

「ジェミルもユダヤ人ってこと?」

「そうです……それから、ベンヤミン・シュムエレヴィッツも」

「ええ?!」

 どうして気づかなかったんだ、とばかりに、アリスはメリッサの方へ一度視線を投げた。しかしメリッサにしてみれば、ベンジャミンはただの古着を商うやり手商人でしかなかったのだ。

「『メズーザー』を見て気づかなかったんですか?」

「……何それ?」

 メリッサはもう半ば捨て鉢な気分で問うた。とにかく、生まれてこの方とりあえず籍は国教会とはいえ、さして宗教なんてものを気にすることもなく生きてきたのだ。国教会のことすらろくに知らないのに、ましてやユダヤ教の話なんて知るわけがない。

「モーゼ五書の規定に基づく、日常のお祈りの道具です。聖書トーラーの一部を書いた紙を中に入れた容器、もしくは埋め込み式の小箱です。通常、門柱に打ち付けておきます。そして、その扉を出入りする時に、直接もしくは指を通じて、間接的に口づけをします。これによって、日々の生活が主によって支えられているということを、その時々に思い出すのです」

 メリッサはやっと思い出した。

 ベンジャミンの居住スペースに入る前、アリスが妙な行動を取っていたことを。

 なら、あれが「メズーザー」なのか。

「古着屋で移民でベンヤミンと聞いて、私は彼もユダヤ系ではないかと考えていたのですが……あの『メズーザー』を見て確信を得ました。彼は同胞をもてなす人でしたね」

 あのベンジャミンが、抜け目無いやり手商人の彼が、アリスに対しては親戚のおじさんのように気さくで陽気に接していた理由が、ようやく分かった。アブラハムとイサクにまで遡る、本当に本当に本当に遠い、しかし、親戚だったのだから。



「古着屋と移民はさておいて、ベンジャミンって名前も理由になるの?」

 キリスト教圏でも、相当ありふれた名前のはずだ。

 しかし、アリスは「なります」と答えた。

「ユダヤ系でもよくある名前ですよ? ヴィクトリア女王時代の首相、ディズレーリだって、ファーストネームはベンジャミンです。ロチルド男爵のミドルネームだって、バンジャマン……フランス語読みの『ベンヤミン』じゃないですか」

 メリッサは仰天した。

「えっ? ディズレーリってユダヤ人だったの? ちょっと待って、じゃあイギリスはユダヤ教徒が首相になったことがあるの?!」

 変な方向で食いつくメリッサの膝を、アリスはとんとんと指で叩く。

「落ち着いて……ディズレーリ自身は国教会信徒です。ユダヤ教徒(ジュウ)じゃありません。ただ、ディズレーリが自分が『ユダヤ人(ジュウイッシュ)』であることを、誇りに思っていたのは事実らしいですが」

 ディズレーリの父親はユダヤ教に籍を置いていたことがあるが、ユダヤ教徒であることに誇りを持っていたディズレーリの祖父が死ぬと、ユダヤ教とは距離をおいた。そして、息子が生まれた後、国教会の洗礼を受けていた方が職業選択の幅が広がると考え、改宗したのである。

 メリッサの混乱は少しも収まらない。

「待って、待って……『ユダヤ教徒(ジュウ)』と『ユダヤ人(ジュウイッシュ)』って、何が違うの? 名詞と形容詞じゃないの?」

「そこは本当にややこしいですが……ディズレーリは『ユダヤ人(ジュウイッシュ)』という『人種レイス』があると考えていたんですよ。つまり、ゲールみたいな『民族エスニシティ』として、『ユダヤ系(ジュウイッシュ)』という民族エスニック集団グループがあると」

 だめだ。アリスの説明は丁寧なのだろうが、わからない。

 高等教育と縁の無かったメリッサにとっては、あまりに高等すぎる。

「ごめん、ヘブライ語に聞こえる(ちんぷんかんぷんだわ)……ところで、そろそろ着陸したいんだけど、どこに下りたらいいの?」

 もう眼下には、グレイズの街並みが広がっている。

 大きな骨董市があることでも知られ、メリッサにとっては憧れの街の一つだ。

市場マーケットのアーケードの上にある、駐機場ガレージに」

「……そんな目立つところに?」

 いいのだろうか、という心の疑問に、アリスは答えてくれる。

「逃げも隠れもしないと、空警兵に言いました。それに、いくら何でも、ここまで人の集まるところで爆弾を使うことはできないでしょう」

 なんとも肝の据わった人質の取り方だと、メリッサは少し思った。

「昨日みたいに、人混みにまぎれて男どもが襲ってきたら?」

「昨日の連中は来ませんよ」

 残る懸念に対し、アリスはさらりと返事をした。

「何故?」

「モーゼスから聞きました。昨日私を襲った連中は、その後、クライスト・チャーチ・ガーデンズで殺されていたそうです。鋭利な刃物で、首の血管を切られて。一瞬で死んだでしょう。その死体が、ちょうど同じ病院に運ばれていたようです。おそらく警察の捜査のために」

「……なるほど」

 眼下に市場を覆うアール=ヌーヴォー様式の巨大な屋根が見えてくる。優美な曲線を描く鉄骨とガラスとを組み合わせた、デザイナーの渾身の力作だそうだ。

 この屋根の所々に、揚発場ポートがある。普通は市街地に揚発場ポートは設置しないのだが、荷流しの関係でどうしても設置させて欲しいと、嘆願が上がったそうである。

 荷流しの混雑緩和のために揚発場ポートを設置して欲しい、という嘆願なら、コヴェント・ガーデンの方を優先するべきではないか、とメリッサは思う。あの混雑はひどい。

 実際の所、コヴェント・ガーデンの方でも嘆願はあったらしいのだが、景観保護地区だからとか何とか、そういう理由で却下されてしまったのだった。

労働者番号レイバーズ・コード0B-783、メリッサ・ベル、着陸許可願います!」

〔……4番ポートに着陸を許可する〕

「了解!」

 ローマ数字を床面に大きく描いてあるから、間違えることはない。

 メリッサは慎重に着陸した。

 ガラス張りの揚発場ポートなんて、初めてである。

 着陸すると、安全ベルトを外し、二人、床に下りる。当たり前かも知れないが、脆いガラス製に見えた床は、意外に頑丈だった。というか、ガラスではなくて、プラスチックのようだ。音が鈍い。



 透き通る壁面パネルの向こう側には、鉄骨の柱、ワイヤーを巻き上げる駆動装置やその歯車の一つ一つまでが、まるで作品のように展示されている。19世紀末の自然美を重んじるアール=ヌーヴォー様式の屋根と、その後に設置された工業的で未来的な揚発場ポートのデザインは、奇妙な調和をもっていた。不思議な世界に来たような感覚に、メリッサはおそわれる。

 アリスは先導するように、メリッサの前を歩いている。

「……で、本当に例の宝石店に行くの?」

「そうですね、でもその前に『カラス商会(ジャックドー)』に寄ります。これはどうしたって、現金を調達した方が良い展開ですから」

 ジェミルが襲われなければ、こんなことにはならなかったんですが、とアリスは呟く。そういえば、アリスが現金を持っていないのは、ジェミルが財布を持っていたせいだった。

「ついでですから、メリッサのダイヤも換金しましょう」

「待ってました!」

 これでようやく、この心細くて危険な仕事が報われる。

 まるで勝手知ったるとばかりに、アリスはすいすいと進んでいく。昇降機エレベータのボタンを操作し、地上一階へ下りると、そのまま人混みの中を進んでいこうとする。見失わないように、二人は手を繋いだ。アリスの手は小さくて柔らかかった。

 アーケードの下にはあるが、人通りは少ない裏路地の奥に、二人は入った。ぺたりとした石造りの壁に、焦げ茶色に塗装された重々しい扉がはまっている。

 アリスは何の躊躇もなく、ドアノッカーを3回叩いた。そしてまた3回、少し急くようにさらに叩く。それからまた、さらに3回、今度はもっと急いで叩く。最後に、いっそどうやったらそんな速度で叩けるのか不思議なほどの速度で、また3回ドアノッカーを叩いたところで、ようやく扉が開いた。

 にょっと顔を出したのは、しわが刻み込まれ始めた五十歳ほどの男だった。

「お嬢か……そっちの娘は誰です?」

 無礼にも、顎をしゃくって、メリッサの方を示す。

「昨日、雇ったの。ジェミルは暴漢に撃たれて病院にいるわ」

 アリスはなかなか偉そうな態度で、そう答える。

「……同胞ですか?」

 メリッサは開かれた扉の向こうに、あの「メズーザー」を見つけた。なるほど、この「カラス商会(ジャックドー)」も、ユダヤ人の店らしい。

「いいえ。私たちのことを何も知らない。だから偏見も少ないと思う」

「それは楽観視だと思いますがね」

 男は随分どころでなく用心深く、そして警戒心が強かった。

 大丈夫だから、とアリスはドイツ語っぽい言葉(イディッシュ語)で説得する。中身はちんぷんかんぷんだったが、なんとか中には入れるようだ。

 外の殺風景さとは裏腹に、中はずいぶんと小綺麗だった。

「まだもうちょっと換金の必要があるの」

 アリスは、ダイヤモンド入りの小袋を取り出してみせる。

「小粒ので頼みますよ。いくらロートシールト銀行の手形でも……」

 ぶつくさ言いながら、男はアリスとメリッサに椅子を勧め、自分も座った。電灯をつけ、鼻眼鏡を掛け、さらに拡大鏡ルーペを取り出す。

「いくつかは現金でお願い」

 アリスがさらりと出した要求に、うわぁ、と男は顔をしかめた。

「お嬢……『ミェツタテリィの遺産』は、経歴がはっきりしていれば、もっと高値がつくと言ったのに……またこうもぞんざいに……裸石ルースをまとめて袋に入れたら、ダイヤ同士で擦れ合って傷がついて評価が下がると言ったでしょうが……」

 取り出されたダイヤモンドを検分しつつ、ぶつぶつと男は呟く。

「うん……テーブルの狭さやクラウンとパビリオンの厚み……しかも、ガードルが丸く研磨されています……間違いない、オールド・ヨーロピアン・カットです。まったく、こんなお宝がほいほい出てくるんだから、恐ろしいもんですね」

 古着屋のベンジャミンとほぼ同じ事を言っているのに、メリッサは気づいた。

「あの、テーブルとか王冠クラウンとか、あずまや(パビリオン)とか腰帯(ガードル)って、どういう意味ですか?」

 思わず疑問を口にすると、男は少し驚いたようにメリッサの方を見た。

「……まぁ、良いだろう」

 男は鑑定の終わったダイヤを一つつまみ上げて、メリッサの眼前に示した。

「ダイヤモンドを横から見ると、ほぼ五角形の形をしている」

 うん、とメリッサは頷いた。

「横から見た時に、下の三角形に見える部分を『パビリオン』といい、上の台形に見える部分を『クラウン』と呼ぶ。クラウンの天辺の平たい面が『テーブル』だ。で、この『パビリオン』と『クラウン』の境目に、よくよく見ると細い真横を向いた面がある。こいつが『ガードル』だ……ここは通常、細かな四角い面が繋がっているが、お嬢の持ち込んだこのダイヤのガードルは、丸くてカットが入っていない」

 ルーペを渡されたので、メリッサは言われたとおりに観察した。

「……本当だわ」

「こいつはオールド・ヨーロピアン・カット。最も初期のブリリアント・カットの一つで、17世紀後半のダイヤの特徴だ。この後に、こういったダイヤモンドを最も熱心に収集した一人が……」

 男は、アリスの方をちらりと見て、そして言った。

「ロシア女帝、エカチェリーナ2世だ」





エカチェリーナは18世紀の人ですが、研磨済みのダイヤも大量に収集しているので、コレクションにオールド・ヨーロピアン・カットのもかなりあったと推測。

さぁ、少しずつ謎解きが進んでいきますよ。


……と言ったところで、なんか入院しそうな体調の悪さなので、更新が滞りそうな予感がします。すんません。


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