ロンドン上空攻防戦
さぁ、スカイアクション!
アビゲイル・ウィリアムズは、小娘の叫びを確かにきいた。
「勝算がある……?」
単座式飛空艇に二人乗り、従軍の経験もないただの配達屋の分際で、英仏海峡の魔女と恐れられた自分に「勝つ」つもりでいるのか。
「ナメたことほざいてんじゃないよ!」
体重移動をしながら急加速。
さすが、財団の誇る最新鋭機だ。期待通りの反応をする。
燃動機関からの出力を、ありったけ水平飛行にぶつけつつ、操舵の技巧と体重移動とを駆使して、くるくると錐をもむように回る。常人なら操作を失敗して落ちてしまうし、ついでに酔うこと間違いなしだ。
だが、彼女は「英仏海峡の魔女」だ。
くすんだ青空と薄汚れた街並みとが、目まぐるしく頭上と眼下とに入れ替わる。重力と遠心力と、風圧と慣性と、少しばかりの揚力とが混じり合う不思議な空間で、ただ獲物を見つめる。
複雑な飛行の動線を予測するのは、機体操作に慣れた者でも難しい。
「さぁ、かわしてみせな!」
これから逃げようとするならば、大きく旋回して距離を取るのが普通だ。あのポイントから旋回しようとするなら、また大きくテムズ川方面に向けて動かざるを得ない。
追い込み猟は順調だ。
そう思ったその瞬間、目標が落下しはじめた。
「は?!」
アビゲイルは我が目を疑った。
目標を操る小娘は、生意気なことにエンジンの出力を一気に下げ、機体の高度を一時的に自由落下に任せたのだ。
地表側に一気に下がってこちらの機体をかわすと、今度はグライダーが滑空する要領でコントロールを保ちながら、再び出力を上げて加速した。
「You sure?」
冗談じゃない。あんなアクロバティックな飛行、しかも二人乗りで!
大戦中には自分だって二人乗りもした。負傷兵などを乗せて、野戦病院まで運ぶのだ。ベルトと縄でガッチリ拘束し、どうしたって落ちないようにしてから、火線をかわして後方へ退く。そんな状況なら、躊躇なんてなく曲芸じみた飛び方もした。
しかし眼前の小娘は、安全ベルト一本ずつだけという不安定な状況で、お荷物を抱えたまま急減速から滑空、急加速という芸当をやってのけたのだ。
「……やるじゃない」
もっとも、いくら航空兵用に開発されたとはいえ、所詮相手は旧型だ。舵の利きはこちらの方がずっと良いし、最高速度は比較にならない。
「でも、狩るのはこっち側なのよ!」
急旋回で追う。
市街側へ向けて移動しようとする、その進路に立ちふさがるように。
激しい上下の動きを加え、川べり上空からの移動を妨害する。
「諦めな!」
その旧型の速度では、こちらの速度を上回れない。
速度で上回れないのだから、逃げても逃げても追いつかれる。回り込まれて、そして進路を塞がれて、結局衝突を回避するために、旋回せざるを得なくなる。
じりじりと、テムズ河上空へ追い込む。
高度を下げざるを得ないよう、向こうの動きを制限する。
予想よりずっと手間取ってはいるが、おおむね思い通りだ。
そう思ったところで、アビゲイルは気づいた。
(……あがく理由は、これか!)
この機体は最新鋭で、舵の利きも避ければ最高速度も申し分ない。アビゲイルのアクロバティックな飛行にも、軋み音一つあげることなく反応してくれる。
性能で、小娘の機体に劣るところは無い。
燃費以外には。
(燃料残量が……!)
戦場での長時間および長距離飛行を視野に入れて開発された「SC-D-ES21」は、市内上空での自由飛行を許可されている小型機の中では、もっとも燃費の良い型の一つだ。
それに対して、部隊規模での運用を旨として、短時間戦闘の大原則のもと、空警兵団用に開発されたこの機体は、長時間・長距離飛行にはあまり向かない。
もちろん、そこら辺の機体に比べれば、十分な時間を飛んでいられるし、このスピードを生かせばずいぶん長い距離を飛べる。
しかし、進路妨害と目標ゾーンへの追い込みのために、アビゲイルはわざとアクロバティックな飛行を行っていた。通常飛行ならまだ燃料に余裕はあっただろうが、この不規則な飛び方は、ただでさえ分が悪かった燃費という問題を、さらに大きなものにした。
(小娘どもと侮っていたわ!)
ソヴィエト連邦も大英帝国も欲しがる頭脳をもつ「ALIX」と、昨日の正体不明勢力によるこちらの予定外の襲撃を、おそらくぶっつけ本番の二人乗りで乗り切った「メリッサ」。
二人の真価を、自分たちは理解していなかった。
(畜生! なんでこの「魔女」が、こんな小娘相手に!)
アビゲイルは悔しさに歯噛みする。
ぶっつけ本番で二人乗りが出来るのは、良い飛行センスの持ち主だ。だが、昨日覚えたばかりの二人乗りで、この「魔女」と競り合えるだけのアクロバット飛行ができるのは、はっきり言って「良いセンス」などというレベルではない。常識外れ、桁違い、そんな表現でもまだ生ぬるい。
「悪魔が!」
アビゲイルは叫びながら、射撃の準備を開始した。
敵が銃の使用を決断したのを見て、メリッサは緊張を深めた。
連中はアリスを殺したくないはずだ。
だからわざわざ、手間暇を掛けて川の方へ追い込もうとしていたのだろう。
それが今になって、どういうことだろう?
アリスの頭脳に詰まった諸々は、強力な切り札になり得る。大英帝国植民地省の官僚エヴァンズ氏は、だからアリスを確保しようとしている。
でも、エヴァンズ氏の関係者なら、こうまで威嚇をする必要はない。セント・ジェームズ・パークで待っているか、待ちきれないならこちらに連絡すれば良いだけだ。
だから「魔女」の雇い主は、エヴァンズ氏ではない。
ここまでは、メリッサにも見当がつく。
空警兵の機体で攻撃を仕掛けているのが、気になる。
しかし、絶対に「魔女」は空警兵ではない。
世界史上初めて戦場となった空で、敵同盟軍を震え上がらせた「英仏海峡の魔女」は、戦後「女である」というただそれだけの理由で、首都の空の守りから弾かれたのだ。
ゲイル・ウィリアムズと名乗って男装して戦場に行き、男として戦い、しかし女だと知られても、あまりの戦果に引っ込めることも出来なかったという、異色の兵士。
だが、戦時には実力で上層部を黙らせた彼女であっても、最後の最後には性別という壁を越えられず、悔し涙にくれたという話は、飛行師なら誰でも知っている。特に同じ女の飛行師である自分には、誰が言うともなく、そういう話が伝わってきていた。
だから今、彼女をあの機体に乗せているのは、空警兵団ではない。
「やっぱり、スターゲイザー財団なの?」
メリッサは困惑とともに問う。
さしものアリスも、答えに窮しているようだ。
「財団なら最初から撃ってきたと思いますが」
「……生死を問わないってことじゃない?」
「考えられます」
でも、とアリスは一呼吸おく。
「おそらく、メリッサの作戦が当たってきた、のだと……」
まず短く威嚇射撃。
「……作戦? 右へ!」
この短時間で叩き込んだ、二人同時の体重移動で、機体の動きを調整する。アリスは本当に呑み込みが早い。
ゴーグルの狭い視野に「魔女」の姿を必ず捉える。敏捷性に劣るこちらが、相手の狙いを読んで、かつ回避するためには、見る以外に方法はないのだ。
「左へ、半分!」
アリスが体重の半分ほどを、左足方向に移動させる。メリッサ自身は体重を移動させず、しっかりと操縦桿を握りしめたまま、風のしなりをしっかりと捕らえる。
威嚇射撃が繰り返される。機体全体を使った追い込みとは違い、小回りの利く銃での行動制限は、確実に二人の乗る飛空艇を、相手の狙い通りの場所に追い込んでいる。
「銃を使う理由は、おそらく焦りです……変に飛んだせいで、燃料の減りが、こっちの思っていたよりもずっと早かったのです、きっと!」
「ってことは、あとちょっと踏ん張ればいいのね!」
「おそらく!」
どんな鳥でも、空腹のまま飛ぶことは出来ない。
どんなに高性能の飛空艇でも、燃料なしではただの鉄塊だ。
「オーライ、粘るわよ!」
向こうが先に力尽きれば、こっちは一気に離脱しさえすればいい。
空戦用の旧型機でも、強みはたしかにある。
(今朝、燃料を足しておいた私、超サイコーよ!)
あの時燃料を足していなければ、こんな作戦はとてもできなかった。
そして、お金もないのに新型機の広告を読みふけり、そのスペックにため息をついていた時間だって、決して無駄ではなかったのだ。馬鹿みたいに読み込んでいたおかげで、今こうして、向こうとこっちの性能差を考慮して策を立てられたのだから。
(逃げ切る!)
じりじり相手の狙いに追い詰められている。
「あれが『魔女』の仲間ね!」
不自然な位置に繋留している船がある。甲板では何か作業中だ。
「間違いないです。双眼鏡でこちらを観察……」
「左ッ!」
アリスが何かを言い淀んだのと、メリッサが指示を出したのは同時だった。
「……メリッサ、4時方向!」
言われて一瞬だけ視線を流す。
「嘘でしょ……」
悪戦苦闘の真っ最中にある最新鋭機が、5機、雁行してやって来る。
「嘘です!」
アリスが叫んだ。
「彼らは空警兵団です! 一瞬、所属と番号が見えました!」
「でも、どっちにしたって敵じゃない……」
アリスは、エヴァンズ氏のところへ届けねばならない、のだ。
政府および軍の関係機関である空警兵団に、掴まるわけにいかない。
「しかし、魔女にも敵です!」
市街で銃を使っている時点で、より警戒されているのは向こうのはずだ。
アビゲイルは唇を噛んで、信号弾を撃った。白煙がたなびく。
「作戦失敗、撤収する!」
無線は繋がらない。当然だ。ここで拾われたら目も当てられない。
それでも彼女は叫んだ。
「悪魔め……!」
だが心のどこかで、期待する声が囁いている。
(あたしの破れなかった「ガラスの天井」、あんたは蹴破ってみせるの?)
残りの燃料を確認し、全速で離脱する。
空警兵団と同じ機体を使ったのは、最初のカムフラージュ以外でも有効だった、と、アビゲイルは内心で呟いた。同じ機種なら最高速度も同じだ。
二機がアビゲイルの追撃に回る。
メリッサとアリスには、残る三機がやって来る。
「……どうする?」
強敵の離脱に安心する暇もなく、捕まるわけにはいかない相手が今度は三機。
飛空艇操縦の専門家、飛行師のはずのメリッサが、十二歳の少女に、今後の方針を質問しているのは、端から見たらかなり滑稽だったろう。
だが、頭の回転はアリスの方が早いのだ。
「……現在地はどこですか?」
メリッサは首をめぐらせ、川の形と建物の位置から、答えを割り出す。
「南岸がダートフォードだ……もうちょっと東へ飛べばグレイズ」
「グレイズへ! 全速力で!」
「任せて!」
ロンドン中心街からは、かなり外れさせられてしまった。
だが、グレイズに行けば、少なくともメリッサには嬉しいことが一つある。
あそこに行けば、アリスの言っていた「カラス商会」という質屋で、この「ミェツタテリィの遺産」と呼ばれるダイヤモンドが、ついに現金に換金できるのだ。
よし、と意気込んで、加速ペダルを踏む。
と、向かいの空警兵の一人から、無線が飛んできた。
〔SC-D-ES21の操縦者に告ぐ。繰り返す、操縦者に告ぐ〕
「何をよ?」
〔本事態の発生経緯について説明を求む〕
「悪党に誘拐されかけていた女の子を助けて、送り届けるところよ!」
〔さらに詳細な説明を求む。詰所まで同行願いたい〕
燃料の残量にちらりと目をやる。うん、これでいこう。
「無茶言わないで! こっちは燃料ギリギリよ! 詰所に着く前にガス欠で落ちるわ!」
空警兵団の駐屯地は、ロンドンの中心部近くだ。すぐ東のグレイズまでは燃料がもっても、市の中心部近くまで飛ぶのは難しいというのは、うまい理屈のはずだ。
だが、ワタリガラスは案外しつこかった。
〔ティルベリー・ドックスの簡易詰所ならば、すぐ近くだが?〕
たしかに、グレイズ直近のドックだ。
どうかわそう、と思案していると、アリスが代わりに返事をした。
「ごめんあそばせ。あたくし、男の方は恐いの。さっきのならず者と同じ機体でらっしゃるでしょう? 生きた心地もしませんわ」
ものすごいフランス語訛りの英語だ。文法も嫌味なほど難しいものを使っている。
「あたくしの話を聞きたいとおっしゃるなら、フランス大使館を通して、きちんと身元を証明してくださいまし。あなた方が空警兵に偽装したならず者の仲間ではないと、いったいどなたが証明してくださるの? 今、この場で!」
脅迫するような低音を出す。もっとも、少女の声の低音など、恐くも何ともないが。
〔我々の身元証明書ならばここに……〕
アリスは、半ば嘲るような声色
「そんなもの、ソヴィエト連邦のスパイでも偽造できましてよ? あたくし、紙切れ一枚より、自国の大使館の方が、よっぽど信用に値すると思いますの。違いまして?」
空警兵側から返事はない。
「今この場で、強引にあたくしを連行なさるつもりなら、フランスとの国際問題に発展しましてよ? それでも構わないと仰るほど、親愛なる国王陛下にご迷惑をおかけしても平気な恥知らずでらっしゃるのかしら? 誇りある大英帝国首都空警部隊の隊員ともあろう御方が? まぁ、大英帝国はよほど人材もおつむも足りなくてらっしゃるのね。フランス国民に対してそんな無礼を働けば、我がフランス政府が黙ってはおりませんことよ!」
嫌味をたっぷりまぶし、皮肉をこってり込めた言い回しが、きついフランス訛りと相まって、強烈に空警兵たちの心をえぐっているのが、メリッサには見える気がした。
「ですから、ご提案しますわ」
アリスは、高圧的なフランス人のお嬢様、という口調を崩さず、妥協案を示す。
「あたくしはグレイズの宝石商におります。逃げも隠れもいたしませんわ。ひとまずあたくしの足下を落ち着かせてくれませんこと?」
そう言って、アリスはぺらぺらと宝石商の住所を述べる。
「そちらに、確かな身分証明とともにいらして下さいな。あたくしのことをフランス本国に問い合わせたいと思われたのなら、エドモン・バンジャマン・ド・ロチルド男爵の縁者と、すぐに返答が来ましてよ。それでも疑うつもりなら、ライオネル・ウォルター・ロスチャイルド男爵に照会なさい!」
アリスは挑戦的な声で述べる。
悔しそうな空気が、無線越しにも伝わってくる。
〔……了承する〕
国外及び英国貴族の縁者という札を切られ、さすがにこれ以上は近寄れないと判断したのだろう。全ヨーロッパの金融に大きな影響力を持つロートシールト財閥の、パリ家とロンドン家に喧嘩を売るのは、一介の空警兵の裁量を、大きくどころか遙かに越えている。
「運んでくれているのは、労働者番号0B-0783のメリッサ・ベルよ。ほら、これだけ手の内を明かしたのだから、さっさと下がりなさい!」
アリスのだめ押しに、メリッサはゴーグルの中で目ン玉を引ン剥いた。
作中のロートシールト・ロチルド・ロスチャイルド家は、現実のとは別モノですよと、くれぐれも言い足しておく。パラレルですもの。ちなみにシオニズムが話の流れに入ってくるのは当初の予定通り。
ジェミルの件だなんだ、伏線はまだまだあります。あと、最後に一ひねりしたい。
ちなみに、こちらの世界はミェツタテリィ氏関係でずれてはいますが、ドレフュス事件も起きていれば、例の宣言ももちろんあります。しかし、この話はあくまでもパラレル世界のフィクションですよ!
ところでこの小説は、英語で考えているのを、わざとぎこちなく和訳して書いております。外国風を文体からも演出しようという企みの産物。サラ・パレツキーの『レイクサイド・ストーリー』に出てきた、「プラスチックの小袋」みたいなちょっと妙な日本語に、すごく「ああ異国文学だ」と感じるのです。
ところどころ英語のままなのは、言葉遊びや伏線のため。トルコ語が読める人は、2話のジェミルと女将の変なやり取りが腑に落ちたかもしれない回。