飛行師メリッサ
暗い煙の立ちこめる街は、石とコンクリートと鉄鋼の迷宮。遙かに仰ぐ、空だけが蒼い。
雨じゃないのはいいことだ、とメリッサは思った。
今日のファッションは、少し気合いを入れてみた。革のエンジニア・ブーツに、使い込んだ革手袋と、太いベルトはいつもと同じだ。ベルトに取り付けた、二つの工具ポーチの中身もいつもと同じだ。だが、今日はいつものように味気ないパンツスタイルではない。今朝方やっとこ縫い上げた、フリルたっぷりのスカートだ。
飛行師などという仕事柄、服装は長さに差こそあれ、男も女も皆パンツスタイルだ。しかしメリッサはどうしても、ふわふわしたスカートを穿いてみたかった。仕事の邪魔にならないように、上流階級の淑女方が見れば衝撃のあまり気絶しそうな、太股の半ばまでしかないという、恐ろしく短い丈にはなったが、それでもふわふわした穿き心地に、彼女の心はうきうきと浮き立った。私用ポーチの中には、この間買ったばかりの香水をつけた、とっておきの刺繍入りハンカチを入れた。
飛行師たちの必需品は、ゴーグルと清浄マスク、そして香水をつけたハンカチだ。煤煙に加え、燃油機関からの排煙が、嗅覚を刺激する。だから時々ハンカチを鼻に押し当てて、頭をすっきりさせなければならない。たまにブランデーを染み込ませている酔っぱらいがいるのは、この業界の公然の秘密だ。
さて、せっかくお洒落をするのだから、煤煙でたっぷり着色されたシャワーを浴びるのは、何としても避けたい。選りに選って、やってきたのが今日である。
今日という日を最高の思い出にするために、メリッサはそれはもう念入りにあれやこれやを確認した。まず、今日の仕事先が、まかり間違っても淑女方が出入りしそうにない場所であることを調べ、粗暴で配慮のない同僚の勤務時間帯を避けるために、行動予定表まで作った。
スカートに合わせて、トップスもアウターも入念に選んだ。煤煙まみれの空を飛ぶので、くすんだ色が多くなってしまったのは少し悔しいが。
黒地に細く淡い灰色でストライプの入ったコルセットベスト。その大きく開いたデコルテからは、アッシュグリーンの、フリルたっぷりのブラウスが覗く。ついでに首もとにも大きな共布のリボンをつけた。いつも首からかけている身分証は、自作したブローチを使って左胸の部分にぶら下げた。アウターのジャケットは、兄のお古を詰めた男っぽいものになったが、ブーツとの相性は悪くない。何度も確認したコーディネートが、通勤途中の家や店の窓に映るのを楽しみながら、メリッサはスキップで揚発場に飛び込んだ。
自分の愛機・燃油機関内蔵小型飛空挺SC-D-ES21――少し型は旧いが、それでも航続距離は十分だ――を収納環から引き出した。慣れた手際で異常のないことを確認すると、帽子のベルトを固定し、ゴーグルをよく確認してからきっちりと装着し、愛用の手袋を嵌める。
ベルトの金具にカンを引っかけ、座席に腰を下ろすと、さらに安全ベルトを掛ける。横倒しのI字型をした操縦桿を、両手でしっかりと握り、右手の親指で点火ボタンを押した。
タイツももっとお洒落なのが欲しい、と思いながら、慎重に上昇エネルギーを操作する。この操作が難物で、初めの頃はこの調整をしくじっては、よく落下していた。
別名を「空飛ぶイルカ」というこのタイプの機体は、「空の方舟」と呼ばれる高級飛空挺と異なり、乗り手の安全性よりもコストの方が重視されている。つまり上昇時に発生する熱や、上空飛行時の低温は、乗り手自身の装備で防がなければならない。特にタイツは不可欠の必需品だが、飛行師は男性が大半を占める職業なので、メリッサの心をくすぐる可愛い品が一つもないのだ。
もっとも、メリッサの属する配達屋組合では、配達物を飛空挺に乗ったまま投げ落とせるという理由で、あえてイルカ型を愛用する者が多いのだが。
メリッサが運ぶのは新聞である。日も長くなりつつある四月の終わりは、夜明け過ぎが出発時間だ。東の空が金色に輝いている。街の上に飛び上がれば、空も地上で見るより青い。肌寒い風を突っ切って、メリッサはテムズ川沿いの配達先へと向かった。
大英帝国、首都ロンドン。ヨーロッパ屈指の大都市の繁栄は、先の激戦で翳りを見せるものの、戦争中に発達した数々の技術は、今や一般消費者に還元され、生活の形をすっかりと変えていた。特に著しい発展を遂げたのが航空技術である。中でも、大戦中に亡命してきたロシア系技術者、アレクセイ・ミェツタテリィ氏の独創的な発明による数々の技術は、この文明の新たな姿を説明するのに避けて通れない。
物心ついてから、鳥のように空を飛ぶことに憧れない日はなかったというミェツタテリィ氏の功績は、大きなものでも三つある。
まず、従来の蒸気機関よりも小型で持続能力の高い、燃油機関の発明である。彼は東欧から共に亡命してきた友人たちと共に、この新たな動力源の効率化と小型化とを熱心に研究した。自動車に用いられていた燃油機関に改良に改良を加え、彼は単座の飛空挺開発に情熱を注いだ。
そして次に、彼はこの飛空挺の実用化を実現した。これは従来の戦争を変える画期的兵器であるとして、そのさらなる開発には英国政府が支援を行った。これらの革新的な技術を用いた兵器を駆使し、連合軍は、陸戦強国ドイツ率いる同盟国軍を打ち破ったのである。
多くの特許により、ミェツタテリィ氏は莫大な富を得た。彼は、飛行機が殺人の機械となったことを大いに嘆き悲しみ、ある遺言と計画を残して自ら命を絶った。
「魂の翼」とよばれるその遺書は、後に公開され、一般向けに刊行された。その内容は、未来想像図であると同時に、手の届かなかった空間へと飛び込まんとした、子どものような好奇心に満ちた一人の男の生き様そのものである。飛行師の中に、『魂の翼』を愛読書に挙げる者が少なくないのは、ミェツタテリィ氏の空を飛ぶことに対する純粋無垢な憧憬に、大いに共感するからだろう。
ミェツタテリイ氏の莫大な遺産は、彼の信頼する友人たちの手によって厳重に管理され、それはやがて大きな影響力を持つ一つの財団となった。それが、スターゲイザー財団である。現状、英国のみならず世界の航空関連産業のほとんどが、スターゲイザー財団との関わりを持つ。また、ミェツタテリィ氏の望みは平和な空の実現であったが、航空戦力という巨大な武力は、軍と無関係にはいられなかった。スターゲイザー財団は、その始まりに戦いへの拒絶を含むにもかかわらず、現在もなお、軍と太いパイプを有しているという。
国際情勢は、一応今のところは平穏である。フランスが戦時の恨みを叩きつけるかのように、途方もない額の賠償金をドイツに請求し、ドイツ側がそれに対して今も抗議を行っているが、アメリカからの戦災復興支援のおかげもあって、各国とも状態は回復基調にある。
インドは自治権獲得の条件で英国に協力したのに、今もまだ植民地のままである。中国は内戦が激化している。イスラーム圏は、親欧米派と反欧米派とで意見が分かれ、独立国としての形を達成している国は少ない。ただし、一口にイスラーム圏と言っても、アラブではなくトルコの方は、欧米諸国の支援もあって、すでに独立国の機構まで完成させているところもある。
南米諸国はほぼ独立を達成したが、英国への経済依存度が総じて高く、経済的独立への道は途上である。
アフリカおよびオセアニア地域については、独立している国の方が少ない。オセアニア地域は、領土面積という意味で大半を占めるオーストラリアおよびニュージーランドが、英国の自治領となっているのを除けば、植民地、信託統治もしくは委任統治領がほとんどだ。アフリカについてはリベリア共和国とエチオピア帝国が独立国家、あと特筆すべきは戦後英国の自治領に昇格した、南アフリカのローデシアぐらいなものである。残りは今もまだヨーロッパ各国の植民地だ。
そして、現在の欧米諸国が、最も大きな危機感を抱いて観察しているのが、ソヴィエト連邦と日本である。
日本は現状、英国と同盟関係にあるが、ドイツがオセアニア地域に領有していた領土を、ほぼそっくり自国の管轄下に置いたことについて、英国政府は懸念、もっと正確に言うと危機感を抱いている。日本には明確な領土拡大の意志がある。先の戦争は、日本の大洋州地域での植民地獲得競争への参入を、明確に示すものだった。同盟国たる英国を含む欧米諸国は、たった三十年で凄まじいばかりの近代化を遂げた極東の新興国に対して、不信感と言い表しがたい恐怖感とでいっぱいである。英国は日本と同盟を結んでいたが、近々、条約更新を停止する予定だ。
だが、それ以上に警戒すべき敵が、ソヴィエト連邦だ。日本が極東地域におけるソヴィエト連邦の勢力拡大の歯止めとなることを期待するからこそ、英国は不信感を抱きつつも同盟を継続している。
労働者の労働者による労働者のための国家。
階級社会であるこの英国で、革命と共に戦争の中から産声を上げたソヴィエト連邦の建国理念というものは、まさに許すべからざる異端の極みなのである。
もっとも、階級に辟易する人々の中には、ソヴィエトの理念に共鳴する者もあり、政府関係者の神経をひりひりさせている。
メリッサの仕事場には、戦時に難を逃れて英国へ移ってきた東欧系の労働者も少なくない。戦後、彼らの祖国の多くは、ソヴィエト連邦に対する塹壕か防壁のように、怒濤のごとく独立を認められていたが、戻らない者も多くいた。そういった人々の中にソ連のスパイが紛れ込んでいるのではないかと、英国政府機関は胃をキリキリさせながら、今日も監視の目は休めていない。
そんな情勢など何も知らず、メリッサはテムズ川沿いのパブに、大衆紙を配達して回る。『タイムズ』などという知識層向け高級紙は、メリッサの配達するものではない。パブで回し読みされ、一日で垢にまみれ、焚きつけだの緩衝剤だのに利用され、やがてゴミになる。
そんな新聞のように、メリッサも生きている。
その日その日を飛び回り、とにかくお金を稼ぎ、自らの愛機の維持修繕費、生活費を確保し、そうして少し余裕が出来れば、お菓子とお洒落を楽しみたい。それが今のメリッサの生活で、そして思考の全てだ。
「労働者番号0B-0783、本日午前の配達業務、完了しました、どうぞ!」
無線で本社に連絡を入れる。
「了解。臨時業務は? どうぞ!」
「本日は希望しません。それでは、失礼します!」
戻ってまた別の仕事で稼ぐのも良い。だが今日は、お金を稼ぐ側ではなく、使う側になって楽しむと決めた、月に一度の特別な日である。
煤煙や機械油で多少臭かろうと、お洒落をして町に出て、「お客様」と店員にかしずかれるのは、メリッサにとっては特別で素晴らしいことだった。
今日一日は、お姫様とは言わないまでも、お嬢様のような気分を少し味わえるのだ。たとい、出入りするのが王室御用達の高級百貨店ハロッズなどではなく、港湾部の労働者階級向けの店だろうとも。
飛行師向けに、屋根や中庭に着陸・離陸場を用意した店が増えてきたのは、メリッサにとって嬉しいことである。そういう店はほぼ例外なく、筋骨逞しい男性労働者向けの店であるのだが、たいていの場合駐機場も兼ねているので、職場に戻ることなく食事を取ったり、あるいはそのまま遊びに行ったりすることすらできる。
数少ない女性の飛行師なので、店の親父と女将さんは、すっかりメリッサのことを覚えている。月に一度、やけに気合いを入れてお洒落をし、その日は臨時業務の申請をせず、日頃の憂さ晴らしに遊ぶ、という彼女の習慣も、もちろん知っている。飛行師は大戦中に原型が成立した非常に新しい職業だが、メリッサとて十五の年から、もう二年もこの仕事をしているのである。
「今日一日、預かっといて!」
鍵を抜いた愛機を自ら収納環に収め、馴染みの女将に預けると、メリッサは町中へ掛け出した。
「さぁ、行くわよ!」
ハンカチで口と鼻を多い、新しい香水の匂いを胸一杯に吸い込む。そしてまず、最近評判のお菓子を買うべく、上空から見た風景を頭の中に再生しながら、件の店へ向かう道を歩き始めた。
そのお菓子は、大戦中に中東に派遣されていた兵士が、トルコから持ち帰って広まったものだ。ターキッシュ・デライトというそのお菓子は、非常に甘く、しかも不思議な食感をしているという。
見つけたその店はなかなか繁盛しているらしい。飛行師によく見られる悪癖が、歩く時間の計算が出来ないことである。空を飛ぶのはお手のものだが、地上を歩くのは勝手が違うのだ。ゼンマイ式の大きな時計を革ベルトに固定した、ちょっと不格好な腕時計を確かめて、メリッサは少し眉を顰めた。が、それも一瞬のことである。
店に入ると、たっぷりと貫禄のついた女将がメリッサを見て、丸い目をさらに真ん丸に見開いていた。
女なのに見るからに飛行師と分かる装備であるからか、それともあまりにスカート丈が短いからか、自分の思っている以上に機械油と煤煙の臭いが染みついているからか。どれが理由だろうかと、メリッサは少し首を傾げた。まぁ、スカート丈のこと以外は、よく驚かれることである。別に彼女が英国初の女性飛行師でもないのだが、人は珍しがる。
機械を使っているのか機械に使われているのか分からなくなる労働という点では、飛行師にも工場労働者にも大した違いはない、とメリッサは思っている。しかし実のところ、自分で機械を操作し、あまつさえ空まで飛んでしまうこの仕事は、一部の人々にとってはまだまだ信じられない御伽噺であり、目新しい仕事なのが事実である。
たとえばメリッサの労働者番号「0B-0783」一つを見ても、その目新しさは十分に分かる。つまり、彼女は英国人で七百八十三人目の飛行師である。これは戦中からの飛行機乗りを含む数であり、大英帝国の総人口、いや、グレートブリテン島の総人口と比較しても、お話にならないほどの極少数である。
しかしメリッサ自身は、その珍しい職業の人間たちと日々接している。なので、彼女自身の感覚が一般人から乖離してきている、といった方が、事実を正確に言い表しているだろう。
「ターキッシュ・デライト、下さい」
そう言って、メリッサは1シリングを取り出して見せた。この店はどうやら量り売りらしい。
「どのお味?」
相当訛りのある女将の英語を聞いて、改めて店内を見回すと、確かにいくつもの大皿の上に盛られたその菓子たちは、一様に粉砂糖のヴェールを被ってはいたが、その向こう側には色とりどりの鮮やかな色彩と香りが潜んでいたのだった。
悩ましい。オレンジは好物なのだが、薔薇の味とはどんなものなのだろう。ピスタチオがたっぷり含まれた、あの緑色のも気になる。レモンは泣く泣く諦めるとして、さて、この虎の子の1シリングで買える、究極に美味しい組み合わせとは、どれとどれなのか。
迷っていると、チリンチリンとまた扉が開いた。
入ってきたのは、どうにも英国人とは思えない、エキゾチックな顔立ちをした壮年の男性と、それから極上の絹糸のようにきらめく金色の髪をした、せいぜい十歳ぐらいの少女だった。
2016.02.27. 世界情勢を、少し史実寄りに変更。