偶然出会ったバーの心地よい時間
夜にしっぽり読んでもらいたいです。
都会の雑踏が少し途切れる。
涼しくなってきた風が心地よく感じる。
ふと風が吹く方へ足を向けてみると、半地下に小さなバーの看板。
“Vediamo”と書かれた店名の下にカタカナで“ヴェディアーモ”の文字が見える。
横文字におしゃれな雰囲気を感じ、ドアを押してみる。
薄暗がりの店内。
想像していたバーそのものだ。
談笑が重なって聞こえるが、居酒屋のようなうるささではない。
どちらかというと、その声自体も背景に溶け込んでいる。
カウンターに座る俺。
休日の街中のような服装のお客が多い中、俺だけスーツ。
「お疲れ様です。ご注文は何にいたしましょうか?」
落ち着いた低い声。
マスターと呼びかけたくなる。
そっと置かれたメニューを見るがカタカナばかりで分からない。
ビールが入ったドリンクを見つけ、とにかく注文する。
「シ、シャンディガフで」
「承知しました」
近くにいたマスターが離れてしまうと、自分だけここから切り離された気分になる。
椅子を斜めに回転させて、少しだけ店内を見られるようにする。
「お待ちどうさまです」
シャンディガフはシャンパンのようにきめ細かい泡をたてる。上品な琥珀色。
一口飲むと、喉に流れていった。
キレはない。だが、心地よい。
俺は鼻に抜けるようなジンジャーの香りを楽しむ。
「あの、失礼ですが何を飲んでらっしゃいますか?」
椅子一つ分空けた隣に、職場の女の子ほど年の離れた女性が座っていた。
「これはシャンディガフです」
「ありがとうございます。マスター、私にもシャンディガフをください」
ぎこちない仕草の彼女。
俺は仲間意識が芽生える。
「もしかして、ここは初めてですか?」
「はい、恥ずかしながら」
俺もそうだと答えると、彼女は息を大きく吐きながら笑った。
彼女の肩の力が抜けたように見える。
俺は辺りを見渡した。
自分のようなくたびれた歳の人はここにいない。
テーブル席に座る彼も彼女もキラキラと光って見える。
これから何だってできる。
若さは武器だと、嫌でも身に沁みる歳になったのだとようやく俺は分かった。
十年も二十年も前に戻れたら、どんなにいいか。
電車の移動は会社の行き帰りだけ。
会社が終わっても、用事がないので、何事もなく直帰する毎日。
今日は偶然が重なって、本来なら訪れることもなかった場所に、こうして座っている。
目の前の彼女のような歳に戻れたら何ができるか。
このような場所に前から通っていたら、何か変わったのだろうか。
平凡を地で行く男だ。
特別光るものもなく、磨けば光る可能性も見いだせなかった。
才能なんてものは、どこを探しても見つからない。
磨けば光るって、磨いてるうちに人生が終わりそうだよな。
あぁ、だからこんなやつになったのか。
いつも自分にないものを数えて、ため息をついて終わる。
「今日はシャンディガフが知れました」
隣の女性はグラスに口をつける。
目を見開く。
表情が手に取るように分かる。
(あれは“美味しい”の顔か)
「美味しい!」
俺は彼女の心の中をピタリと当てて、愉快な気持ちになる。
「今日はシャンディガフが美味しいことを知りました」
「俺も今日シャンディガフが美味しいことを知ったよ」
心が浮かれるわけじゃない。
でも心地がよい。
小さな発見の嬉しさが、静かに流れ込んでくる。
カウンターにガラスの当たる音が意識を現実に引き戻す。
「ミックスナッツいりますか?」
「えぇ、いただきます」
「私もいただきます」
ガラスの器に入ったアーモンドに白くて細い指が伸びる。
「私、会社にあなたみたいな上司がいるんですけどね、何を考えているのか分からないんですよ。あっ、愚痴ではないですよ?」
俺もガラスの器に手を伸ばす。
胡桃を口に入れる。
「大丈夫です。私にも会社の君のような女の子がいるよ。話すことは全然ないんだ」
胡桃のほろ苦さが口の中を刺激する。
「でも今は心地いいよ」
「私もです。おじさんって昔の話をよくしますよね。会社の飲み会だったら、もう昔の話が始まっている頃です」
俺と彼女は同じタイミングでシャンディガフを飲む。
「「おいしい」」
声がハモってしまった。
二人とも苦笑いをする。
「今がないから、昔の話ばかりするんだ」
自分でそう言って、自分で感心している。
(そうか、自分はそう思っていたのか)
「私、海外旅行に行ってみたいんですよね。ポンペイ遺跡って知っていますか?」
海外のことなんて考えたことがなかった。
「いや、初めて聞いた。エジプトあたり?」
彼女の顔が綻んだ。屈託のない笑みが浮かんでいる。
「ふふ、イタリアです。火山の噴火で一夜にしてなくなった場所」
火山灰が降り積もり、逃げることもできなかった人も多いらしい。
さらに彼女は、ポンペイには立ち飲みの店もあったのだと教えてくれた。
石のテーブルには丸い穴が空いていて、コップを差し込んでいたのではないかと研究されているらしい。
「へえ、よく知っているね」
感心の声を上げながら、見たことも聞いたこともないポンペイに思いを馳せてみる。
「俺は知らないことばかりだな」
そう言いながらも、話題を提供しようと考えていた。
昔の話しかない。
俺は笑うしかなかった。
(あぁ、だから昔の話しかしないと言われるのか)
「次までに話のネタを集めておくよ」
彼女は自分のスマホを近づけてくる。
「ここに来ればいいんじゃない?」
なんとなく自分たちの出会い方は偶然でいい気がした。
「運に任せる。面白いと思います」
彼女はスマホを仕舞って頷いた。
俺はシャンディガフを飲み終えた。
名前も連絡先も知らない。
「これで出会えたら奇跡だ」
マスターを呼び、シャンディガフ二杯分の勘定を済ませる。
「じゃあ、またね」
名前も連絡先も知らない彼女に挨拶をする。
そんな知り合いがいるのもいいだろう。
バーの外に出る。
“Vediamo”と書かれた店名の下にカタカナで“ヴェディアーモ”の文字が見える。
「次に店へ来たら、名前の意味を聞いてみよう」
俺は軽い足取りで雑踏に溶け込んでいった。
お読みいただきありがとうございました!
蛇足ですが、
“Vediamo”(ヴェディアーモ)はイタリア語で、待ち合わせという意味のようです。




