あの匂いは……
あの匂いは、何だったのだろう。
偶然見かけた、あの女性の。
どこか妖艶な、あの匂い。
・
今日は気持ちのいい晴天だ。
そんな事を思いながら、用もないのに大学に顔を出す。
予定の合う友達はいない。
時間的に部室にも誰もいない。
完全に用はない。
であればと開き直って散歩を始めたわけだが、本当にいい天気だと思う。
暑くも寒くもない適度な気温。風が吹いて心地もいいし、その風にのって各所にある花々の香りが漂ってくる。
特別散歩が好きなわけではないが、こんな時に歩くのは好きだ。
何も考えず、風に誘われるままに歩いていた。
先ほどからしている香りとは違う匂いがする。
これは何なのだろう。
花ではない。
少し焦げ臭さすら感じる。
でも、少し甘くて心地の良い。
気になった私は、その匂いを探しに行くことにした。
自慢ではないが、自分の鼻は人よりいいと自負している。
風は心地の良い程度だが、そこそこに強い風が吹いている。
もしかしたら、この匂いは少し遠いだろう。
丁度いい暇つぶしの題材だと思う。
それからは誘われるままに歩き続けた。
幾つか建物のわきを通り、この心地の良い匂いを楽しむ。
大体10分ぐらい歩いただろうか。
ゆっくりと歩いたから、そんなに距離は歩いていない。
けども、どこか遠いような気もした。
「あ、あった……。」
匂いの発信源は、喫煙所だった。
今まで近づこうとすらしていない場所だ。
正直なところ、自分は煙草は嫌いだ。
健康に悪いし、周りへの影響もあるし、お金もかかる。
良いところなんて無いと思って嫌っていた。
しかし、今回は分かっていても近づいてしまう。
喫煙所に扉のような入口はない。
喫わないのに近づくのはどうかとも思ってしまったが、好奇心には抗えず、覗いてみることにした。
そぉーっと少し見て帰る。
そう決めて、ゆっくりと近づき、首を伸ばす。
そこには、とても美しい女性が居た。
黒髪の長髪に整った顔、バランスのいい体系。
今までにこんな人は見た事が無い。
そう思えるぐらいに美しかった。
煙草を口に運び、煙を燻らす姿も、伸びた灰を落とす姿も、全ての所作が美しかった。
少し物思いにふけるように上を向くさまも美しかった。
3、4度煙草を口に含んだ頃だろうか、目が合ってしまった。
口に咥えたまま、少し驚いた顔をしてから、こちらを手招きする。
少し微笑んでいた気もした。
だが、自分は飛び上がって逃げるように、その場を去ってしまった。
あの匂いは、何だったのだろう。
偶然見かけた、あの女性の。
どこか妖艶な、あの匂い。
そう思いながら逃げつつ、誰もいない部室に逃げ込んでいた。
乱雑に置いてる机と椅子に身を任せて。
静かな空間では、あの匂いと顔だけがループするように流れ続けていた。
・
それから、どれだけ時間が流れたのか分からない。
いつの間にか寝てしまっていたらしく、気づくと人影が見えた。
今日は部活のある時間じゃないのに、人がいる。
そうなると、いる人などただ一人だ。
「あのさ、」
「なんです、先輩?」
「今日、とても美しい天女を見たって言ったら笑う?」
「どこで?」
「大学で。」
「大学に天女なんている訳ないですよ。」
そう言って後輩は笑っていた。
「で、どんな人だったんですか?」
「うーん、どことなく妖艶で、目を奪われるようないい匂いのする黒い長髪の喫煙者。」
「え?あの煙草嫌いな先輩が?」
「それ今関係ないでしょ。とにかく居たんだよ、そんな美しい人が。」
「うーん、イマイチ信じがたいですが、その人物に心当たりがありますね。」
「あー、そっか。一応喫煙者だもんね、君。」
「そうですよ~。今だって吸いたいけど、先輩がいるから吸わずにいるんですから。」
「そもそもここ禁煙だけどね。って、心当たりがあるって言った?」
「はい、言いましたが?」
きょとんとした後輩の肩を揺らす。
「教えて!あの人誰!?」
「見た事あるだけで詳しくはないですよぉ!というか揺らすのやめてぇ!酔う!」
「あ、ごめん。」
言うと同時に肩から手を離した。
すると後輩は下を向き、深呼吸をする。
「本当に詳しくは無いんですよ。偶然、喫煙所で一緒になって隣で喫っただけですから。」
「そっか、じゃあ何も情報無しか。」
「ん、一つだけありますよ。」
「なに!?なんでもいいから教えて!」
「彼女の喫ってた煙草なら。」
下に置いた鞄をごそごそと漁りだし、一つの少し大きい箱を出してきた。
それは煙草が何種類も入っている箱だった。
なんで何種類も持っているのか知らない。
そこからまた一つの小箱を取り出す。
「彼女の喫ってた煙草は、確かこれでしたよ。ラッキーストライクのエキスパートカットの6mmのボックス。」
「なんか独特な箱だね。大きい丸?」
「ラキストと言えば、この大きい丸ですからね。」
箱から一本取り出し、こちらに向けてくる。
「嗅いでみます?」
「まぁ、一応。」
受け取り、嗅いでみるがよくわからない。
なんか乾燥した葉と紙、少しの化学合成の繊維の匂いがするなぁとしか思わなかった。
「うーん、分からない。あの時嗅いだ匂いじゃないのは確かだけど。」
「そうですかぁ……。うーん、火を付けてないから匂いが若干違うのもあると思うけど、そこまで違うとは思えないんだけど……。」
「そもそも違う可能性無いの?」
「可能性がないわけじゃないけど、数回会ってますが毎回これでしたよ。」
「そっかぁ。じゃあ、違う匂いが主だったのかな……。」
「まぁ、火を付けてない訳ですし、つけてみます?」
「い、いや。一応ここ火気厳禁だし……。」
「今日は誰も近くに居ませんよ。どうです、一本?」
「け、けど自分喫ったことないし……。」
「大丈夫ですよ。一口やって喫い切れなければ、残りは自分が喫うんで。」
「そ、それなら……。」
待ってましたとばかりに、すぐに着火され、火が付いた。
赤い光が仄かに移ると、こちらに渡してくる。
「肺に入れないでくださいよ。口に含むだけですぐ吐いて。」
「わ、分かった。」
口に咥え、少し吸ってみる。
「ゲフッ!ゲフン、ゲフン!」
「あー、ほら、言わんこっちゃない。すぐ吐いてって言ったじゃないですか!」
「ご、ごめん。やっぱり無理……。」
「分かりましたよ。残り喫うんで寄こしてください。」
頭がくらくらし、吐き気が少ししながら残りを渡す。
「もう、見ててくださいよ。慣れてないときはこうすんですよ。」
そう言って後輩は、少し、ホント少し吸うと、すぐに煙を吐いていた。
似たような匂いが広がる。
どこか違うが、確かに似た匂いが。
「あ、似てる。あの時嗅いだ匂いに。」
「そりゃ、そうですよ。同じ煙草なんだから。」
「けどなんか違う……。決定的にどこかが。」
「えー、そう言われると分かんないですよ。同じもの喫っててそう言われたら。」
「それもそうか……。一歩進んだけど、ほぼ振り出しだなぁ……。」
「仕方ないですねぇ……。あ、そう言えば気づいちゃったんすけど。」
「何よ?」
「これ、間接キスですね。」
笑いながらこちらに煙を吹いてきた。
「お、お前ぇ!ふざけんな!消せ!」
「え~、勿体ないからこのまま喫いますよ~。」
騒ぎながら煙を燻らせていると、いつの間に時間が経っていた。
・
あれから少し喫うようになってしまった。
完全に同じではないが、少し似てるからと、あの銘柄を。
喫い方は後輩に習いつつで、1か月ぐらいは気持ちのいいと言うほどの喫い方は出来なかっただろう。
しかし、あの匂いが嗅ぎたくなって、時折火をつけていた。
唐突に喫いたくなって、以前あの女性を見た喫煙所に行ってみることにした。
火をつけ、煙をくぐらす。
もう慣れたものだ。
何も考えず、ぼーっと喫っていると、誰か入ってきた。
何時ぞやの、あの女性だった。
びっくりしつつも顔に出さないように、そのまま喫い続ける。
ちらちらと彼女の方を見ると、どうやらいつも喫っているのが空っぽだったらしい。
「あ、あの!」
少ししょんぼりとしたような彼女に、声をかけてしまった。
「な、何かしら?」
「良かったら、喫ってください。」
先ほど閉まったばかりの箱を差し出す。
「同じ煙草ですよね?その箱。」
「え、ええ。そうね。頂くわ。」
受け取ると彼女は一本取り出し、箱をこちらに返すと、慣れた手つきで火をつけていた。
ああ、この匂いだ。
惹かれた匂いが漂い出す。
恐らく、この人の匂いと、この煙草の匂いが混ざり合うと、この匂いがするのだ。
心地よく感じながら、自分も煙を燻らせる。
そこには、2つの煙が上がっていた。




