第58話 支配の連鎖 ― 波紋を呼ぶ光
星野翔とあの夜に話した日から、三週間が経った。
夜のキャンパスで交わした言葉の余韻は、今もどこか肌の奥に残っている。彼の声、彼の沈黙、そして――私の「拒絶」。
あれ以来、彼からのLINEは少しだけ頻度が落ちた。でも、完全に途絶えることはなかった。
まるで彼の中で何かが崩れ、また新しい支配の形を模索しているように。
私はそのあいだ、わざと忙しくした。
学園祭実行委員の後片付け、来月の舞台公演の準備、そしてゼミのグループワーク。
周囲には新しい人たちが増えた。
中でも、同じ実行委員だった佐伯 蓮とはよく一緒に作業をしていた。彼は静かで穏やかで、けれど目の奥には鋭さがあった。翔とは正反対のタイプ。
その対比が、私の中に奇妙な安堵を生んでいた。
「彼」ではない誰かと、まっとうな関係を築けるという安心。
でも同時に、それが翔の世界をかすかに揺らしていく音も、確かに聞こえていた。
「春日、最近よく佐伯と一緒にいるね」
その言葉は、ある夕方、キャンパスのカフェテリアで聞こえた。
声の主はもちろん――翔だった。
彼は野球部のジャージのまま、ドリンクを片手に立っていた。髪は少し乱れていて、額に汗が光っている。練習帰りなのだろう。
その表情には笑みの形だけが残っていたが、目はまるで試合中のピッチャーのように鋭く張りつめていた。
「うん。舞台の照明関係で、彼が詳しいから」
私はできるだけ淡々と答えた。
「へぇ……そうなんだ」
短い沈黙。
彼の指先が、紙コップの縁を無意識に掴む。
「……俺、昨日の練習でコーチに怒られたんだ。集中できてないって」
「そうなの?」
「でも、たぶん原因はわかってる」
彼は少し笑い、そして低く続けた。
「――おまえが、他の誰かと笑ってるからだよ」
胸の奥が、一瞬きゅっと音を立てた。
それは懐かしい痛みだった。高校の頃、彼の視線の下で何度も感じた「所有」の気配。
けれど今の私は、あの頃の私ではない。
「翔、私の世界は、もうあなたのグラウンドの中にはないよ」
そう言うと、彼は一瞬まばたきをした。
理解できない、という表情。
「……何、それ」
「あなたのボールの軌道みたいに、私の生き方もあなたがコントロールできるものじゃないってこと」
微笑んで言ったつもりだった。でも、自分の声が少し震えているのを感じた。
翔は、無言で紙コップを握りしめる。
そして、吐き出すように言った。
「……変わったよな、本当に。
あの日の春日は、俺の隣で、俺の世界の一部でいてくれたのに」
「それがあなたの“支配”だったから」
「支配? 違う、守ってたんだよ。俺は――」
「でも私は、もう守られたくない」
その瞬間、彼の呼吸が止まったように見えた。
彼は何かを言いかけて、結局、飲み込んだ。
そして立ち去る前に、小さく呟いた。
「……じゃあ、好きにすればいい。でも俺は、そんなおまえを簡単に見逃せない」
彼が去ったあと、私の手はわずかに震えていた。
強くなったと思っていたけど、彼の言葉ひとつで、まだ心がざわめく。
それでも、私は負けない。
私は、私の光で生きる。
数日後、噂を聞いた。
翔が最近、練習中に集中を欠くことが多く、監督に強く叱られていると。
「星野、何考えてんだ!」という怒鳴り声が、グラウンドの外にまで響いていたらしい。
そして、チームメイトのひとりが私にこう言った。
「最近の星野、ちょっとおかしいよ。試合中も、誰かを探してるみたいな顔してさ」
私は答えなかった。
ただ、心の中で静かに呟いた。
――それは、私が撒いた波紋。
夜、自分の部屋でレポートを書きながら、スマホが光った。
LINEの通知。「翔」から。
『おまえ、明日の昼空いてる? ちょっと話したい。』
私は数秒だけ画面を見つめ、返信を打たなかった。
代わりに、机の上のメモ帳を開き、ペンを走らせる。
「私は、彼に嫌われる覚悟で、彼に愛されることを望んでいる。」
それが、私の矛盾。
支配を拒みながら、まだ彼の中に残る「私」を確かめたくて仕方がない。
画面の光が、静かな部屋を淡く照らす。
私は小さく息を吐いた。
「……私の光は、彼の世界で、小さな波紋を呼んでいる」
そう思った瞬間、胸の奥に痛みと、誇らしさが同時に広がった。
翔の嫉妬は、私にとっての最も甘い報酬。
でも、その報酬を得るたびに、私は少しずつ安寧を失っていく。
彼を動かせた。
けれど、それは私自身をも壊しかけるほどの代償だった。
「私は、誰にも支配されない。
でも、彼の支配が完全に消えることもない。」
そう気づいたとき、
私の胸の中に浮かんだのは――
消えない名前だった。




