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届かなかった名前を、今、呼ぶ  作者: 朧月 華


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第56話 運命の舞台:学園祭の再会

学園祭の朝、キャンパスはまるで別世界のように熱を帯びていた。

 ポスターの色彩、模擬店の香り、笑い声の洪水。私はその喧騒の真ん中に立ち、腕に巻いた実行委員の赤い腕章を指で確かめた。布地の硬さが、今の私の心の輪郭をなぞるようだった。


 ――もう、私は影の女じゃない。

 彼の視界に入らない場所で泣き続けるのは、もうやめたのだ。


 鏡の中の私は、数日前とはまるで別人だった。

 美奈が選んでくれた淡いベージュのブラウスと、ハイウエストのパンツ。地味に見えて、光が当たるとわずかに艶を放つ生地。彼女の言葉がよみがえる。


 「公の光でも、あなたは美しいってことを、彼に思い知らせてやるの。」


 その瞬間、胸の奥で何かが燃え上がった。

 星野 翔に拒絶された夜から、ずっと凍っていた場所が――音を立てて解け始めた。


 午前中は準備に追われた。放送マイクを握り、出店の確認をし、時々笑顔で後輩たちに指示を出す。

 そのたびに、周囲の視線が私に集まるのを感じる。男子学生の一部は「春日さんって、あの野球部の星野と仲良かった子じゃない?」と囁いた。耳に届くその噂に、胸の奥で小さく炎が揺れた。


 ――いい。見ていなさい。

 私は、彼の名の影で生きる女じゃない。


 午後一番、野球部の模擬ブースがメインストリートに設置されると聞き、私は確認のためにその場所へ向かった。空は高く、秋の陽射しが眩しい。

 通りの先に、白いテントとユニフォーム姿の男子たちが見える。あの中に、きっと――。


 心臓が、無言で跳ねた。


 彼はいた。

 グレーのパーカーに腕をまくり、準備の指示を出す姿。かつて私が恋をしたその背中が、今も変わらずまっすぐだった。

 だけど、私の足取りはもう怯えなかった。


 「すみません、星野くん。」


 その声を発した瞬間、空気が一瞬だけ張りつめた。彼の肩が、わずかに止まる。

 ゆっくりと振り返ったその瞳に、驚きと――ほんの少しの焦りが走った。


 「……春日?」


 その声に、笑顔で応じる。

 「はい。実行委員から、電源と安全確認の件で。」

 私は書類を差し出す。完全に“公の顔”として。


 彼は数秒、私を見つめたまま動かなかった。

 あの夜の拒絶の記憶が、互いの間に静かに流れた。でも、もう私はその影に縋らない。


 「そっか。ありがとう。確認は――」

 星野 翔が言葉を途中で切る。私の腕章に視線を落としたその瞬間、目の奥にかすかな嫉妬が灯ったのが分かった。


 それは、確かに私の勝利だった。


 私は、淡々と説明を続けた。

 「こちらの電源口は制限があるので、使うなら申請が必要です。延長コードの扱いも……」


 言葉を並べながら、私自身の声がどこか別人のもののように響く。

 堂々と、涼やかに、彼と同じ“光の場所”で言葉を交わしている――。


 かつて夜の校舎裏で交わした、秘密の囁きとはまるで違う。

 その対比こそが、今の私の力だった。


 「変わったな。」

 不意に、星野 翔が低く呟いた。


 私は一瞬だけ息を止め、笑って返す。

 「そうかもしれません。変わらないままでは、置いて行かれますから。」


 彼の視線が、鋭く私を射抜いた。

 その奥に、言葉にできない何か――支配が揺らぐ気配が見えた。


 午後、ステージ企画が始まると、私は司会進行を任されることになった。マイクを手に、人波の前に立つ。

 陽射しの中で、私の声がスピーカーを通して響いた。


 「次のプログラムは――!」


 拍手と笑い声、そして視線。

 その中に、彼の姿を見つけた。

 ステージ下、少し離れた場所で腕を組み、私を見上げている。無表情を装いながらも、その眼差しの奥で、確かな嫉妬の色が渦巻いていた。


 ――見てる。

 見つめている。


 私が誰と話し、誰に微笑むか。その一つ一つが、彼の中でざらつきを生んでいる。

 私は知っている。彼の中にある「支配の秩序」が崩れ始めていることを。


 「彼の目に、初めて嫉妬が宿った。それは、私の勝利だった。」


 胸の奥で、そっと呟いた。


 夜。

 学園祭の照明が消え、片づけの静けさが戻るころ。私はベンチに座り、腕章を外した。指先に残る汗の跡。

 達成感と、奇妙な虚しさが入り混じる。


 ――私は、彼の視界を奪った。

 けれど、その光は、誰にも寄り添われない孤独なものだった。


 悠斗くんの安らかな声が、ふと胸に蘇る。

 彼の優しさは、もうここにはない。私は自分で、それを手放した。


 「孤独な光は、誰にも奪われない。それが、私の選んだ道。」


 そう呟いて、私は静かに目を閉じた。

 冷たい夜風が頬を撫でる。

 ステージの残り香と、微かな歓声の余韻が、まだ空に漂っていた。


 そして私は――彼の視線の中で、初めて自由だった。

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