第53話 影の避難場所:見透かす眼差し
図書館の空気は、午後の光の中で静かに凍っていた。
外では学生たちの笑い声が聞こえるのに、この一角だけが、別の季節に取り残されたみたいに静まり返っている。
ページをめくる音と、空調の低い唸り。
それだけが、世界と私を繋ぐ最後の糸だった。
……昨日の、あの言葉がまだ耳に残っている。
「今は、やめてくれ。」
何度も、何度も反芻してしまう。
彼の冷たい声、視線、仲間の前での無表情。
夜になってもLineは来なかった。
通知の光が点かないスマホの画面を見続けながら、私はまるで呼吸の仕方を忘れてしまったようだった。
気づいたら、私はここにいた。
――大学の図書館。
悠斗くんが、いつも決まった時間に座っている隅の席。
別に、彼に会おうと思ったわけじゃない。
ただ、体が勝手にこの場所を選んだ。
多分、ここが「痛くない場所」だと、心が覚えていたから。
視線を感じて顔を上げると、そこに彼がいた。
黒縁の眼鏡の奥の瞳が、まっすぐこちらを見ていた。
その瞬間、何も言わずに全てを見透かされた気がした。
「……また、寝てないでしょ。」
低く落ち着いた声。
責めるでもなく、慰めるでもなく、ただ事実を受け止めるような声音。
私は何も言えず、視線を伏せた。
彼の目を見たら、涙がこぼれそうだった。
数分の沈黙のあと、彼は静かに立ち上がり、自販機の方へ歩いていった。
戻ってきた時、彼の手には、湯気の立つ紙コップが二つあった。
「冷たいのじゃ、もう駄目そうだから。」
そう言って、私の前に差し出されたのは温かいお茶だった。
ふわりと立ちのぼる湯気が、心の奥まで届くように優しかった。
缶コーヒーの金属の冷たさじゃない。
手のひらを通して伝わる、人の温度。
――彼の温かいお茶は、凍った私の心臓を静かに溶かした。
「……ありがとう。」
やっとそれだけを絞り出した私に、悠斗くんは小さく笑った。
そして何も言わず、私の隣の席に座った。
彼は私のノートをちらりと見て、何も尋ねなかった。
まるで、「話さなくてもいいよ」と言ってくれているみたいに。
その沈黙が、言葉よりもずっと優しかった。
悠斗くんの沈黙は、「おかえり」という言葉よりも優しかった。
ペンを握る手が震えて、ノートにインクの滲みができる。
私はそれを指で拭いながら、ふと気づいた。
私はまた、彼を利用している。
自分の惨めさを隠すために。
光に拒まれた傷を、彼の影の中で休ませようとしている。
――最低だ。
そう思うのに、逃げられなかった。
「……藤井くん。」
呼ぶと、彼は本を閉じた。
静かな音だった。
「ねえ、どうして、そんなに……何も聞かないの?」
声がかすれていた。
彼は少しだけ考えてから、目を細めて答えた。
「だって、言わなくても、わかるから。」
その言葉に、心臓が締め付けられる。
彼は、私が何に傷ついているのか、すべて知っている。
名前を出さなくても――星野翔のことだと。
沈黙の中で、私は湯気の立つ紙コップを両手で包んだ。
その温度は、今の私がまだ「人間」であることを教えてくれる唯一の証のようだった。
私は、彼の光から逃げて、彼(悠斗)の影に隠れている。
それをわかっていながら、ここにいる。
逃げ場所が必要だった。
優しさに偽装された罪を、もう一度受け入れる覚悟を決めて。
悠斗くんは、私のノートを少し見て、小さく呟いた。
「君ってさ……頑張る方向、いつも間違えてる。」
その言葉は、苦い笑いと共に落ちた。
だけど、怒りや呆れではなく、祈りのような響きを持っていた。
「……かもね。」
私がそう答えると、彼はそれ以上何も言わなかった。
窓の外では、雨が降り始めていた。
ガラス越しに見える濡れたアスファルトが、光を吸い込んで鈍く光る。
図書館の中は暖かく、彼の隣だけが静かで穏やかだった。
そこには、誰の支配も届かない影の空間があった。
それが、私の避難場所だった。
> 「彼の温かいお茶は、凍った私の心臓を静かに溶かした。」
> 「私は、彼の光から逃げて、彼(悠斗)の影に隠れている。」
> 「悠斗くんの沈黙は、『おかえり』という言葉よりも優しかった。」
> 「私は、あなたを利用する罪を、もう一度受け入れます。」




