第51話 偽りの約束:曖昧な恋人たち
朝、いつもより早く目が覚めた。
カーテンの隙間から射し込む光が、まだ眠気の残る部屋を淡く照らしている。枕元に置いたスマホが震えた。
――「おはよう。」
星野くんからのLine。
たった五文字のメッセージなのに、胸の奥が小さく跳ねる。
数日前の夜、彼が私の部屋で鍵を回したあの日から、私たちの距離は確かに変わった。
彼は毎朝「おはよう」を送ってくるようになった。
夜になると「おやすみ」と一言。
その一つ一つが、恋人の証拠のようで――でも、正式な言葉ではない。
「付き合おう」も、「好きだ」も、彼の口からはまだ聞いていない。
それでも、彼の声、体温、指先の記憶が、確かに私の中に残っている。
その温もりだけで、一日を生きていける気がした。
大学のキャンパス。
昼下がりのカフェテリアはざわめきに満ちていた。
窓際のテーブルで、私は友人の美奈と向かい合っていた。
彼女はストローを噛みながら、私の話を静かに聞いていた。
「……つまり、まだ『告白』はされてないってこと?」
「うん。けど、ほとんど一緒にいるの。夜も、時々……」
そこまで言って、私は言葉を濁した。
美奈は意味深に眉を上げた。
「遥、それってもう恋人同然じゃない?」
「……そうかもしれない。でも、彼、大学では……」
私は視線を落とす。
数時間前、キャンパスの廊下ですれ違った時、星野くんは部の仲間と一緒にいた。
私と目が合っても、ほんの一瞬だけ、軽く笑っただけだった。
まるで「ただのクラスメイト」であるかのように。
「部活では、彼、違う顔してる。真面目で、冷静で、遠くて……」
「うん。でもそれが星野翔って人なんでしょ。」
「わかってる。でも――私だけが知ってる『彼』が、本物だと思いたいの。」
美奈はコーヒーをひと口飲んで、優しく言った。
「告白がないままでも、あなたは彼の“光”じゃなく“影”を掴んだんだよ。
彼が誰にも見せない部分を、あなただけが見てる。それって、ある意味勝利じゃない?」
――影を掴んだ。
その言葉が、胸の奥に静かに沈んだ。
夕方、キャンパスを出た私は、自然と練習場の方へ足を向けていた。
金属バットの乾いた音が、秋の風に溶けていく。
柵の向こうで、星野くんが汗を拭きながら仲間に笑いかけていた。
その姿はまぶしくて、どこまでも遠い。
私が知っている「彼」は、夜に現れる。
部屋の灯りの下で、少し疲れた顔を見せて、「お前の部屋、落ち着くな」と笑う人。
その人は、誰にも見せない表情を私にだけ向けてくれる。
だけど、今目の前にいる「彼」は――
私の知らない、太陽の下の彼。
誰もが憧れる「光」の彼。
その光を支えているのが、私の影なら、私はそれでもいいのだろうか。
夜。
シャワーを浴びて髪を乾かしていると、スマホがまた震えた。
――「お疲れ。今日、見てた?」
――「少しだけ。」
――「恥ずかしいな。あんな顔、あんまり見られたくないのに。」
その言葉に、私は小さく笑った。
――「でも、かっこよかったよ。」
――「ありがとう。……今、少しだけ、会ってもいい?」
心臓が、跳ねた。
部屋のドアの鍵が、また回る音がしたのは、それから二十分後だった。
彼は練習帰りで、まだ少し汗の匂いがした。
Tシャツの袖からのぞく腕が、夜の灯りの下で影を落としている。
「また来ちゃった。」
照れくさそうに笑うその顔を見て、私は何も言えなかった。
彼は靴を脱ぎ、当たり前のようにベッドの端に腰を下ろした。
「ここ、落ち着くんだ。……なんでだろうな。」
そう言って、私の手を軽く握る。
その温もりが、あの日よりも自然で、そして危うい。
「今日も、ありがとう。」
「何が?」
「見ててくれたこと。」
彼の指先が、私の頬に触れた。
その仕草があまりにも優しくて、胸の奥がきゅっと痛んだ。
「星野くん……」
「なに?」
「ねえ、私たちって……何なんだろうね。」
一瞬、彼の目が泳いだ。
けれど、すぐに笑って、私の髪を撫でた。
「そんなの、決めなくていいんじゃない? 今は、これでいい。」
――偽りの約束。
その言葉が、頭をよぎった。
彼の手が、そっと私の背中に回る。
温もりが伝わり、息が触れる距離まで近づく。
唇は触れなかった。けれど、心は確かに交わっていた。
その夜、彼は帰る前に小さく囁いた。
「おやすみ、遥。」
それは世界で一番甘い嘘だった。
彼の「おやすみ」が、私にとっての朝のように新しい始まりを告げる。
でも、同時に気づいていた。
明日、彼はまた太陽の下で、私に手を振らないのだと。
そして私は、影の部屋でその光を見上げ続ける。
――「私的な幸福と、公的な距離。私たちは、曖昧な恋人になった。」
それでもいい。
今だけは、この嘘のぬくもりを、真実のように抱きしめていたかった。
> 「告白がない関係は、ガラス細工のように脆い。
> 触れれば壊れる。
> それでも私は、壊れることより、失うことのほうが怖い。」




