第50話 鍵が回る音:境界線の融解
深夜の静寂が、私の部屋を優しく包み込む。外の街灯の淡い光が、カーテンの隙間から床に斑模様を描いていた。スマホの小さな画面が、私の心を瞬間的に震わせる。
「会いたい」
Lineに浮かんだその文字。送り主は、もちろん星野翔——星野 翔。練習が早く終わったのだろう。衝動的で、それでいて真摯な言葉。私は画面を握りしめ、深呼吸する。悠斗との決着から数日。もう、罪悪感はなく、揺るぎない覚悟だけが胸にある。
「……来てくれるの?」
私は返信を打ち、送信ボタンを押す。数分後、玄関のチャイムが静かに鳴った。ドアの向こうには、練習着のままの星野 翔が立っている。疲労の色が顔に滲むが、瞳は私だけを見つめている。
「入って……」
私はドアを開け、彼を部屋に迎え入れる。いつものカフェや映画館のデートとは違う、この私的空間——私の生活の一部に彼が足を踏み入れること自体が、関係の質を一変させる。
部屋に入った星野 翔は、少し息を整え、肩の力を抜く。その瞬間、私の中で何かが緩む。彼はまだ、誰の前でも見せない弱さを、私の前で見せ始める予感に胸が高鳴った。
「遥……今日、練習中にさ、……腕の張りが取れなくて……」
彼は言葉を濁しながらも、身体の疲労やプレッシャー、未来への不安を正直に吐き出す。普段は光の中で輝く星野 翔が、今は肩を少し丸め、私に寄りかかるようにして座る。
——言葉は少ない。だが、そのすべてが「僕が頼れるのは君だけだ」という依存の証。
私も自然と、彼の手を握り返す。指先が触れるだけで、心臓が跳ねるように温かい。抱きしめるわけでもない、軽く肩に触れるだけの距離感なのに、伝わるものは深い。
「……遥、君がいないと……」
未完成の告白。まだ「愛してる」という言葉は出ない。しかし、そのニュアンスと熱量が、私の胸を強く打つ。彼の光の英雄の仮面の裏側にある、素の弱さ——その影が、私の存在を求めているのだ。
私は彼の肩にそっと頭をもたれさせる。息遣いが、指先の温もりが、言葉以上の安心と幸福を与える。
——彼の温もりは、すべての言葉を超えていた。
部屋の明かりは、私たちだけの世界を映し出すかのように、静かに照らしている。外界の雑音は届かず、時間もゆっくりと流れる。星野 翔の腕は、まだ私を包むわけではないが、存在そのものが私を守る。
「ここに……いてくれるだけで、十分だ」
私の心の中で呟く言葉。Lineでのやり取りでは伝わらなかった、この温度。この空間でしか得られない親密さ。
手を握る指先から伝わる震えに、私は微笑む。悠斗との境界線はもう存在せず、新しい曖昧な境界線——星野 翔との私的な空間——が形成されつつあることを感じる。
——この部屋は、私たちだけの、新しい境界線だ。
彼の額が、私の髪に触れる。軽く、静かに、だがそれだけで心臓が跳ねる。まだ言葉はない。告白も、愛の言葉も、まだ形にならない。しかし、私たちは確かに、互いの存在に触れ、認め合っている。
深呼吸すると、星野 翔の息遣いが私の耳に届き、指先の温もりが全身に伝わる。胸の奥がじんわりと熱くなる。
——言葉はなくても、この温もりが全てだ。
部屋の扉の鍵が回る音が、私の心に重なる。七年間、遠くから見つめていた扉が、今、静かに開いた瞬間だ。星野 翔の存在が、私の生活に溶け込み、光と影の境界線を柔らかく溶かしていく。
私はそっと彼の背中に寄り添い、肩を抱くわけでもなく、ただその温もりを感じる。言葉はいらない。未完成の告白は、私たちの静かな合意となった。
——星野君が求めたのは、私の愛ではなく、私の存在だった。
夜の静けさの中で、私は胸の奥から湧き上がる幸福を噛みしめる。未来の不確かさも、今日の温もりには勝てない。
そして、心の中で呟く。
「もう、無理じゃない」
この呪文は、星野 翔との関係のための現実的な証明でもある。悠斗との過去の縛りは完全に消え、新しい曖昧で親密な世界が、今、静かに始まったのだ。
夜の光が、二人の影を部屋の壁に揺らす。揺らめく光と影の中で、私は初めて、彼と「私だけの世界」に立っている実感を得る。
鍵が回る音。それは、七年間の扉が開く音だった。




