第46話 鍵を開けた世界:私的な初デート
週末の朝、私は鏡の前で深呼吸をした。
スマホの画面には翔からのLineが残っている。
「週末、映画でもどう?大学生活や将来について、もっと話したいんだ。」
その一行が、私の胸を小さく、しかし確実に震わせる。美奈に相談したとき、彼女はにっこり笑って言った。
「遥ちゃん、これってただの演技じゃなくて、あなた自身の時間でしょ?最高のあなたを出すチャンスだよ。」
その言葉を反芻しながら、私は慎重に服を選ぶ。昨日までの自分より少し大人びたワンピース、控えめでいて肌を美しく見せる色合い、そして香水はごく薄く——これらはもはや「演技」ではない。自分自身のための選択だ。
化粧も、眉の形、リップの色、まつ毛のカールまで丁寧に確認する。鏡に映る自分を見て、思わず小さく笑った。
——私は、もう影の私ではない。
待ち合わせは街の映画館。人ごみを掻き分けて彼の姿を見つけた瞬間、胸が高鳴る。翔は、以前より少し大人びた表情で、でもやはりあの柔らかい笑顔を浮かべていた。私を見つけると、微かに眉を上げ、少し照れたように手を振る。
「遅くなってごめん」
その声だけで、私は心臓の奥が熱くなる。二人で映画館に入る。暗い館内は外の世界を遮断し、私たちだけの小さな空間になる。座席に腰を下ろすと、隣に翔の存在が近く、空気がわずかに揺れる。
映画が始まると、スクリーンの光が二人の顔を淡く照らす。だが、私の視線は映画には向かない。横で微かに動く彼の肩、息づかい、そして時折こちらに向ける視線。それだけで、胸がきゅっと締め付けられる。
そして、手が不意に触れた。肘が重なり、柔らかい腕の感触が伝わる。
——彼の腕の温もりが、七年間の距離を一瞬で溶かした。
映画のラストロールが流れ、周囲が明るくなると、私たちは自然にカフェへ向かう。人の少ない角の席に座ると、翔は少し照れくさそうに言った。
「映画は……あんまり覚えてないかも。君の話を聞いてたから」
私は笑いながら、自分の心臓の音を意識する。高校時代、放送部の活動中にこっそり見ていた彼との距離とは、全く違う。今は、目と目を合わせて話せる。私が話すと、彼は真剣に耳を傾ける。
「大学生活は、まだ少し不安だな……将来のこととか、何も決まってなくて」
翔の声には、外向的な野球のエースの姿では見せない、柔らかさと内面の迷いがある。私は思わず、肩を少し前に出して、彼の視線に応える。
「わかる……私も、新しい環境で自分がちゃんとやっていけるか、不安だった」
その言葉を交わすたびに、高校時代の私はどこか遠くに置き去りにされている気がする。あの時は、彼を見つめるだけの影だった。今は、光の中で、自分の言葉を持って、彼と向き合える。
カフェの静かな時間。二人で同じラテを前に座り、ふと手がまた触れる。指先が触れ合うその感覚が、心の中でゆっくり火花を散らす。
——私は、もう『放送部の春日遥』ではない。彼の隣に座る、『春日遥』だ。
笑いながら、将来のこと、大学生活のこと、好きな映画や食べ物のことまで、二人は会話を重ねる。言葉を交わすたびに、七年間の片想いの影が溶け、心の中に新しい光が差し込む。
帰り道、街灯に照らされた歩道を並んで歩く。彼の距離は近く、でも決して侵入してこない絶妙な間合い。私は心の中でそっと呟く——
——Lineの小さな一文字が、私の世界への鍵を開けた。
彼との初デートは、私の中で単なる「映画」でも「カフェ」でもない。七年間の片想いを経て、初めて光の中で会話をし、触れ合い、互いの存在を確かめ合う儀式のような時間だった。
帰宅後、ベッドに沈み込み、今日一日の余韻を噛みしめる。手のひらの感覚、肩の触れ合い、彼の声——すべてが胸の奥でじんわりと温かく広がる。
——私は、もう影の私ではない。彼の光の中で、私自身の言葉を持っている。
スマホを手に取り、昨日のLineをもう一度開く。文字が、画面の中で淡く光る。
——これからの時間、私は自分の世界を、自分の手で開いていく。
深呼吸して目を閉じ、微かに笑う。心の中で、私の呪文を繰り返す——
——もう、無理じゃない。
新しい自分と、翔との距離を丁寧に感じながら、私は夜の静けさの中で、初めて心からの安堵と幸福を味わった。




