第21話 彼女の居場所、私の影の位置
グラウンドに射す午前の光が、白線を輝かせている。放送室の窓ガラス越しに見る翔の姿は、いつもより大きく、そして遠く感じられた。私は机の前に座り、マイクに向かって原稿を置き、手のひらに微かに汗を握りしめる。
「……星野 翔選手、ピッチャー交代です。」
声は冷静だ。平静を保とうとする自分に、わずかな誇りを覚える。公的な場で、彼の名前を呼ぶこと——それは、私だけに与えられた特権のようで、胸の奥で小さく光る。
でも、目線は自然とグラウンドのベンチ前へ向かう。
そこに、明里が立っていた。ユニフォーム姿で、汗を拭き、タオルを差し出し、翔の動きを細かくチェックしている。指示を出す姿勢は堂々としていて、彼の隣に存在するというだけで、光に包まれているようだった。
——彼女の居場所は、光の中。彼の隣。
——私の居場所は、ガラスの向こう側。影の中。
胸がぎゅっと痛む。嫉妬が、甘い毒から、冷たい現実へと変化した瞬間だった。公的な声を持つ私は、翔の試合の進行を記録する役割に徹している。しかし、彼の世界に直接触れられる明里とは、物理的にも心理的にも、決定的な距離がある。
「……でも、私には無理だから。」
小さく呟く。今、この言葉は、ただの自己否定ではない。私は彼女の勇気を持てない。翔の傍に立ち、汗を拭き、声をかけることはできない——でも、私の影の愛は諦めない、そう自分に言い聞かせるための呟きだ。
翔は試合に集中している。誰の存在も意識せず、ただ目の前のボールとバッター、チームメイトに向き合う。無関心の強さが、私の嫉妬の虚しさを際立たせる。
明里は笑わない。黙々と仕事をこなす。光の中にある彼女の背中は、力強く、安定して、私が持てないものすべてを体現していた。私は、胸の奥で息を詰め、手元の原稿を握りしめる。
——佐倉 明里の愛は公然の事実。
——私の愛は、誰も聞かない声と、隠された刺繍だけだ。
窓ガラスに映る自分の姿は、淡く揺れている。放送部員としての冷静な顔、マイクに向かう私の影は、試合の熱に呑まれる翔と、彼女の光の影に立つ私の位置を正確に映していた。息が詰まる。
リストバンドやタオルに込めた私の影の愛。悠斗くんを経由して翔の手に届いたそれは、今、彼の腕や額に触れているはずだ。私が直接触れることはできない。でも、確かに、そこにある。
心の中でそっとつぶやく。
「私は……ここから、見守るしかない。」
明里の動作は正確で、迷いがない。タオルを差し出す指先、指示を出す声、呼吸のリズム——すべてが翔に直結している。私の心臓は、嫉妬と羨望で高鳴りながらも、冷静な声を保つために口を押さえる。
原稿に視線を落とし、次の呼び出しを淡々と読む。声は平静。内心は嵐。
——私が持てなかった勇気。
——私が踏み込めなかった世界。
それを、彼女は自然に手にしている。嫉妬は胸を締めつけるけれど、憎む気にはなれない。なぜなら、彼女は私が持てなかったすべての勇気を持っているからだ。
マイクの向こうで響く自分の声は、確かに翔に届く。だけど、影の愛は、静かに、無言で、彼の存在の隅に潜む。私は公的な声と影の愛の二重構造の中で、ひそやかに自分を慰めるしかない。
試合が進むにつれ、明里はさらに翔に近づき、指示を出し、タオルを差し出す。光の中で動く彼女の姿を、私は窓越しにただ見守る。影の中の私には触れることもできず、声をかけることもできない。
でも、私は知っている。
——私の影の愛は、静かに、翔の世界に宿っている。悠斗くんを通して、確かに届いた。
視線を戻し、マイクに向かう。次の選手交代を読み上げる。声は冷静。心の奥は、明里への嫉妬と、自分の影の愛への誇りで満たされる。
胸の奥で、小さく繰り返す。
「……でも、私には無理だから。」
この言葉は、今、こう変わった。
——私は彼女のようにはできない。
——でも、私の影の愛を放棄することはない。
窓越しの光と影、翔の汗と私の刺繍、明里の勇気と私の内向的な努力。すべてが交差するこの瞬間、私は静かに自分の居場所を確認する。光の中ではなく、影の中で——でも、確かにここに、私の愛は存在している。
放送室の空気が、少しだけ重く感じる。胸の奥で、嫉妬は冷たい現実として居座った。でも、その現実の中で、私は自分の影の位置を守る。
翔は気づかない。明里は気づかない。私だけが、この影の愛を知っている。
——そして、それでいい。




