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届かなかった名前を、今、呼ぶ  作者: 朧月 華


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第2話 彼の名前、私の罪

翌日の教室。

 蛍光灯の光は、昨日の夕陽に比べて無機質で冷たかった。

 机の列が規則正しく並び、窓の外の桜の枝が微かに揺れている。

 日常の光景なのに、私は胸の奥で小さなざわめきを感じていた。


 ——昨日の夕日のことを思い出してしまう。

 あの光、あの音、そして——彼の名前。


 「星野……」


 心の中で、ひそかに何度も呟く。

 その二文字が、頭の中で音を立てる。

 私の視界は、まるで窓越しのグラウンドをもう一度追うかのように、無意識に彼の姿を探してしまう。

 隣の席の悠斗くんが、ノートに向かって鉛筆を動かしている気配さえ、ぼんやりしか捉えられなかった。


 ——知ってしまった。

 彼の名前を。それは、もはや単なる憧れではない。


 名前を知った瞬間、胸の奥が熱くなる。

 心臓が跳ね上がり、息が少し詰まる。

 同時に、小さな罪悪感が生まれた。

 名前を知った私は、もう彼に無関心ではいられない。

 遠くからそっと眺めるだけの存在ではなくなった。

 それは、静かな罪だ。


 「星野。たった二文字が、こんなにも私の心を占める。」


 ノートの文字が目に入らない。

 黒板の文字も、先生の声も、頭に入らない。

 窓の外の桜の枝が揺れるたび、彼の走る姿を重ねてしまう。

 視線が勝手に彼を追う。

 無意識に、呼吸までが彼の影に引き寄せられているような感覚。


 その時、隣で鉛筆の動きを止めた悠斗くんが、ちらりと私を見た。

 優しい目。けれど、何も言わない。

 ただ静かに、私の視線の揺れを受け止めてくれるだけ。


 ——隣にいる悠斗くんの優しさが、今の私には重い。


 胸の奥で小さく謝る。

 私の意識は、悠斗くんに向いていないのに、優しさだけが押し寄せる。

 利用してしまっている罪悪感。

 ——でも、彼がいてくれるから、呼吸を整えられる。

 私は、ほんの少しだけ彼に依存しているのかもしれない。


 教室のざわめきの中、私は小さく息を吐いた。

 心臓の鼓動はまだ速く、手のひらにはうっすら汗がにじんでいる。

 視線は、窓の外、隣の校舎の方へ、無意識に引っ張られる。

 昨日、あの光の中を駆け抜けた彼を、また探してしまう。


 「……でも、私には無理だから。」


 小さな声でそう繰り返す。

 私には届かない距離。

 触れられない距離。

 見ることしかできない距離。

 その距離を、私は守らなければならない。


 放課後の教室で、ちらりと掲示板を見たとき、偶然耳に入ったクラスメイトの会話が、私の胸を強く揺さぶった。


 「星野翔って、あの野球部のキャプテンだよね?」

 「うん、昨日の練習見た?めっちゃ速かったよ。」


 ——あ……やっぱり。


 心臓が、飛び出しそうなほど跳ねる。

 知ってしまった——彼のフルネームを。

 「翔」——その一文字まで、私の心を侵食していく。


 背筋がぞくりとした。

 私は、遠くから見ているだけでいい。

 それなのに、名前を知ったことで、私の心はもう彼に向かって開かれてしまった。

 この罪悪感と、甘い期待の混ざった感覚に、胸が締めつけられる。


 悠斗くんがまた、私の手元のノートに目を落とす。

 けれどその視線には、何の問いも含まれていない。

 ただ、静かに、優しく、私の動揺を受け止めてくれるだけ。

 その存在に、救われている自分がいる。

 ——でも、そのことすら罪の一部だ。


 授業が進み、先生の声が遠くなっていく。

 周囲のざわめきが私の耳に届くたび、私の意識は星野翔に引き寄せられる。

 心の中で、何度も繰り返す。


 ——私は、ただの背景。

 私は、遠くから見るだけでいい。


 それなのに、窓の外の風景に彼を重ね、無意識にその名前を口にするたび、罪の感覚が胸を刺す。

 ——知ってはいけない。

 知ってしまったことで、私の心は彼に盗まれてしまった。


 昼休み、教室の窓から差し込む光に目を細める。

 春の日差しは柔らかく、昨日の夕陽の強烈さとは対照的だ。

 けれど、どんな光も、私の目には彼の影を映してしまう。

 意識しないと、胸が締め付けられるような、甘く痛い感覚が広がった。


 悠斗くんが、ふと微笑んでこちらを見た。

 小さな視線のやり取りだけで、私はまた心の奥を揺さぶられる。

 ——彼の優しさを頼ってしまう自分、利用している自分。

 その罪悪感が、ますます私の中で膨らんでいく。


 授業が終わり、教室の扉が開く音が響く。

 足元に集中し、ゆっくりと立ち上がる。

 それでも視線は、無意識に教室の外、遠くの校庭方向へと引っ張られる。

 昨日、彼が光を背負って駆け抜けた場所を、再び探してしまう衝動。


 ——でも、私には無理だから。

 私は、遠くから見ているだけでいい。


 胸の奥に、熱と罪悪感と、甘い期待が入り混じる。

 その三つを抱えたまま、私は教室を後にした。

 静かに、でも確かに、昨日とは違う自分の足取りを感じながら。


 暗黙のルール。

 遠くから眺めるだけ。

 触れられない距離。

 知ってしまった名前が、私に課せられた、最初の「恋の罪」。

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