4.透き通った世界
住宅街の前を歩いていると、風の向こうからかすかに泣き声が聞こえた。
最初は赤ん坊かと思った。
けれど、その声はどこか低い。
「ママー!」
次の瞬間、男のような野太い声が響いた。
どれも、すべて大人の声だった。
「あー……気持ち悪い世界だな」
男子のひとりが顔をしかめてつぶやく。
「ほんと、気味悪い」
芽衣も眉を寄せ、腕を組んだ。
見渡しても、通りには誰の姿もない。
けれど、どこかの家の中から、あちこちで泣き声や叫び声がこだまする。
赤子のような嗚咽、母親を呼ぶ声、何かをねだるような泣きじゃくり。
「……もしかしたら、そもそもほとんどの人が家から出ていないのかもしれないですね」
長谷川が静かに言う。
誰も返事をしなかった。
空気がひやりと重く、言葉が落ちる音まで聞こえそうなほどだった。
そのとき、茜がふと立ち止まった。
目の前には、白い壁に囲まれた小さな幼稚園があった。
入り口の看板には、見慣れた文字――「ひかり幼稚園」。
芽衣が振り返る。
「あ、そういえば。弟くん、ここの幼稚園通ってるんだよね」
長谷川も足を止めた。
「せっかくだし、幼稚園も見ておきましょうか」
長谷川は門の横のインターホンを押した。
ピンポーン、と間の抜けた音が響く。
やがて小走りに駆け寄ってくる影が見え、出てきたのは朝にも見かけた佐藤先生だった。
高校生を十人も引き連れた集団に、一瞬驚いたような表情を浮かべる。
「どうしましたか?」
長谷川が一歩前へ出た。
「今、僕たちは高校生と先生でチームを組んで、街の調査をしています。もし可能でしたら、幼稚園の様子を少し見せていただけないかと思いまして」
「ああ、なるほど。……変ですもんね」
佐藤先生は苦笑いした。
「幼稚園に何か変わったことはありましたか?」
長谷川が尋ねると、佐藤は間髪入れずに答えた。
「めちゃくちゃあります」
その声には、どこか混乱と戸惑いが混じっていた。
「子どもたちの様子が妙に“大人っぽい”んです。もちろん、できないことはできないんですけど……表情とか、言葉の使い方が、大人っぽくて」
「大人だけじゃなくて、子どもにも異変がある……?」
長谷川が呟く。
「はい。意味がわからないんです。たとえば、私がちょっと困った顔をすると、 “先生、顔色悪いよ。ねんねしてて”って気を遣ってくれたり。今日の園児たちは、まったく手がかからなくて、逆に助けられてるような感じなんです」
佐藤先生の声は、笑いながらも少し震えていた。
「入っても大丈夫ですか?」
長谷川が尋ねると、「どうぞ」と頷いて門を開けた。
園庭には、砂場とブランコがあり、数人の園児たちが平和に遊んでいた。
茜がそっと口を開く。
「……大輝も、朝のときと変わってないですか?」
佐藤先生が顔を上げた。
「あ、大輝くんのお姉ちゃん……。はい、変わってませんよ。すごくいい子です。いつもより、ずっと静かで、優しくて」
園庭の端で、ひとりの小さな男の子がじっと空を見上げていた。
砂場の城、ブランコの揺れ、すべてが絵本の中のように整っていて、風までもが優しい。
長谷川は園庭を眺めながら言った。
「見た感じ……確かに大人っぽいですね。でも、話す言葉とか、行動の範囲はあくまで子ども。できないことはちゃんとできない、という感じなんですか?」
佐藤先生は頷いた。
「そうですね。行動そのものは幼児なんですけど……でも、言葉や態度がどこか成熟していて。 “バランス”が変わったというか……心の重心が少し大人寄りになってる気がします」
茜は園児たちを見つめながら、どこか落ち着かない様子で指先をいじっていた。
大輝の姿を探しているのだ。
そのとき――
「えっ、なにー? なにしにきたのー?」
声がして、数人の園児たちがゾロゾロと近寄ってきた。
その表情はにこやかで、どの子も目を輝かせている。
高校生たちは思わず笑ってしまった。
「こういうとこは、ちゃんと子どもなんだな」
男子生徒がつぶやく。
「調査だよ」
別の男子が笑いながら答えると、園児のひとり――髪を短く刈り上げた男の子が、目を丸くした。
「ちょうさ! かっこいい!」
その瞬間、園児たちは「ちょうさ!」「かっこいい!」と口々に繰り返し、拍手までしはじめた。
純粋な歓声が園庭に弾ける。
その光景を見て、芽衣が思わず笑った。
「……なんか、こっちまで元気出るね」
「ほんとだね」
茜も笑い返した。
久しぶりに、心の奥に明るい火がともった気がした。
外の世界はあんなにも不気味なのに、ここには穏やかで、まぶしい光が満ちている。
そのとき――
「お姉ちゃーん!」
園庭の奥から、大輝が笑顔で駆け寄ってきた。
茜は思わずしゃがみこみ、両手を広げる。
「大輝、いい子にしてた?」
「もちろん!」と胸を叩く大輝。
泣き虫で、すぐ癇癪を起こしていた昨日までの面影が遠くに感じられ妙に大人っぽい大輝に、少しだけ恐怖を覚えていた茜だったが、大輝が顔を上げて無邪気に笑った瞬間、その感情はふっと溶けていった。
太陽を映したような瞳。心の底からの、茜に向けるまっすぐな笑顔。
全然泣かなくなっても、堂々とするようになっても、その目の温かさだけは変わらず茜を見つめていた。様子は違っても中身はしっかり大輝だ。茜は思いきり大輝を抱きしめた。
「お姉ちゃん痛いよー」
大輝はジタバタして逃げようとする。
「街はめっちゃ気持ち悪いし地獄みたいだけど、ここだけは逆に天国みたいだな」
後ろで男子生徒がぼそりと呟いた。
確かに、外の世界が軋むように狂っていく中、この幼稚園の空気だけはやけに穏やかで、どこまでも優しかった。




