3.仮説
体育館には、不安げなざわめきが渦巻いていた。
そんな中、ステージの脇の扉の前では、正常に出勤している先生たちが集まって一つのパソコンを取り囲み何か話し合っていた。
やがて、再びステージに上がった長谷川が、マイクを握って口を開いた。
「皆さん、静かに聞いてください。今、国の研究チームから正式にメールが届きました」
生徒たちは一斉に息をのむ。
「現在、全国で“大人が子供化する現象”を調査中とのことです。攻撃性はないようですが、原因はまだ特定できていません。ただ――」
長谷川は一度言葉を区切り、スクリーンにメール文面を映した。
『現時点で、“心の膜”のようなものが関係している可能性があります。何かを諦めた瞬間、人はその膜を厚くし、やがて純粋さを失う。しかし今、その膜が逆に壊れ始めているのかもしれません。』
体育館がざわつく。
“心の膜”という言葉が、妙に生々しく響いた。
茜は無意識に胸のあたりを押さえた。
「メールには、もうひとつ書かれていました。全国の高校で、正常を保っている先生と高校生をチームにし、各地域の状況を調査してもらいたいとのことです。僕たちの学校でも、協力できる人を募ります」
長谷川の声が、体育館の高い天井に反射する。
「僕と小原先生、中町先生の三チームに分かれて動きます。各チーム、最大十名。来てくれる人はいますか?」
一瞬の沈黙。
次の瞬間、数人の男子が勢いよく手を挙げた。
その中で、芽衣が隣の茜にささやく。
「ここにいても、考えるだけで何も変わらないでしょ? 一緒に行こ?」
「うーん……でも……」
茜が言葉を濁していると、芽衣は手を挙げた。
前方のステージから、長谷川先生の声が響く。
「お、女の子も参加してくれた方が助かります。女性陣の調査はそちらの方がいいと思うので。ありがとう!」
芽衣がちらりと茜を見る。
「もう、分かったよ」
茜は渋々、右手を上げた。
周囲でも、次々に手が挙がっていき、定員まで集まった。
その瞬間、体育館の空気が少しだけ変わった。
誰かの中で「恐怖」から「使命」に変わる瞬間だった。
そして、チーム分けが始まった。
茜と芽衣は、長谷川チームに入ることになった。
体育館を出ると、秋の乾いた風が吹き抜けた。遠くでカラスの鳴く声が響き、校庭の砂がざらりと靴の底にこすれた。
誰もが少し緊張している。息を呑むような静けさの中で、長谷川がスマホの地図アプリを見せながら大きく円を描いた。
「僕たちはこの左側の区域を担当します」
その線の内側には、見慣れた住宅街と、商店街の一部が含まれていた。
地図を覗き込む生徒たちの影が地面に揺れる。
「行き帰り合わせて一時間程度で戻って来れたらと思っています。はぐれたらいけません。個人で行動しないこと。何か気づいたことがあれば、必ず僕に報告してください。僕のスマホから国家の研究チームに情報を送ります」
その「国家」という響きに、生徒たちは唾を飲み込んだ。
この異変はもう、ひとつの街や学校の問題ではないのだと実感させられた。
茜たちは校門を抜けた。
掃除をしていた老清掃員がまだほうきを動かしていた。
「いつもありがとうございます」
長谷川が声をかけると、お爺さんは目を細めて笑った。
「いえいえ、こちらこそ」
その様子は、どこかこの世界の異常から取り残された“日常”そのもののようだった。
「清掃員さん、異変とか感じてませんか?」
チームの男子が聞くと、お爺さんは首を傾げた。
「異変? どういうことですか? いつも通りですよ」
長谷川は少し考えてから、スマホを取り出した。
「一応、これも送っておこうか。……清掃員さん、おいくつですか?」
「八十五です」
「ちゃんと大人なのに、普通の人もいるんですね」
芽衣が不思議そうに言った。
長谷川先生は頷き、少し空を見上げる。
「これも“心の膜”ってやつが関係してるのかもしれないですね」
「心の膜って……さっきも言ってましたけどどういうことですか?」
男子が尋ねた。
「僕の考えではね」
長谷川先生は少し間を置いて話し出した。
「心の膜っていうのは、歳を重ねるにつれて自分を守るために張っていく“見えない層”のようなものだと思う。それが厚くなるほど、純粋に何かを信じたり、挑戦したりする心が鈍くなる。逆に、その膜が薄い人は誰かを思い続けていたり、夢を諦めていなかったりする人。まだ透明なままなんだ」
風が一瞬止んだ。芽衣の髪が頬に張り付く。
「だから子供や若い人たちは影響を受けにくい。そして、ある歳を超えた人たち、清掃員さんのように、何かを見つめ続けて生きてきた人もまた、その膜が剥がれて膜が薄いのかもしれない」
おー、なるほど、とチーム内で生徒たちの感嘆の声が次々と漏れ出た。
「……え、もうそれが、答えなんじゃないですか?」
芽衣がぽつりと言った。
「国家も同じ仮説を立てているし、結構な人がこの考えには辿り着いてると思う。ただ、まだ“なぜ”が分からない。だから僕たちはそれを探るんだと思います」
チームの間に、静かな決意のようなものが広がった。
「……行こう」
長谷川の声が響く。
チームはゆっくりと歩き出した。




