海月少女は今日も逝く 後編
「幽?」
翌朝。水面を割って降りてきた乃亜の声に、幽はゆっくりと振り向いた。海の中では珍しい少し腫れた目元をしていた。自分でも気づかないうちに泣いていたのかもしれない。
「どうしたの? 眠れなかった?」
「ううん……少し、考えてたの」
「……考えるなんて、珍しいじゃない」
乃亜がふっと笑った。それにつられて幽も、少しだけ頬を緩める。
「姉さん。もし……囮役じゃなくても、私がここにいていいって言われたら、何をすればいいのかな」
その言葉に、乃亜の表情が変わった。驚きと、それに続く深い安堵。それは、まるで長い間待ち続けた言葉をようやく聞いたかのような表情だった。
「幽、それは……」
乃亜は言いかけて、そっと幽を抱きしめた。
「それは、自分で決めていいんだよ」
「自分で……?」
「うん。誰かのためじゃなくて、自分の心が『これをやりたい』って思うこと。それを探してもいいって、私はずっと思ってた」
幽は、初めてその考えを受け取るような感覚を覚えた。ずっと自分は役目の中にいた。役割だけが自分の存在理由だった。でも、もしも――。
「私、何かを“したい”って思っても、いいの?」
私は姉さんの顔が、感情が見たくて少し離れた。乃亜は大きく頷いた。
「もちろん。それは、生きてるってことだよ、幽。何度だって生まれ変われるんだから、そのたびに少しずつ探していけばいい」
(探す……私の、“生きたい理由”を)
幽の胸に、初めて芽生えた小さな欲求があった。それは役割でも義務でもない、“自分自身の願い”という名の、かすかな光。
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その夜、幽は珍しく乃亜に提案をした。
「姉さん、明日から少し……海の外に出てみてもいい?」
乃亜は驚いたように目を見開いたが、すぐに笑って頷いた。
「ええ、一緒に行こう。陸の風を、また感じよう。あなたの目で、世界を見て」
幽は、その言葉に背中を押されたように感じた。
――そうだ。私はまだ、自分の世界を知らない。知らないまま、何度も死んで、囮になって、ただ“繰り返して”きた。
でも。
これからは、“選ぶ”ことができる。
私は私の意志で、生きてみたい。
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海の底から、水面へ。
そこにはまだ知らない世界と、知らない風と、知らない感情が待っている。
幽は小さな触手を広げて、水を蹴った。
――それは、初めて“囮役じゃない自分”として、生きようとする、小さな一歩だった。