はじまりの刻
「あれは何時のことだったか」
魔王の玉座の傍に置かれている丸くかわいいモフモフの猫人形の頭を撫でながら、40歳を優に超えているかと思しきナイスミドルは低く優しい声色を発しながら自身に起きた出来事の顛末に思いを馳せようとしていた。その瞬間、
「魔王様大変です。神に召された勇者が引きこもりました!!」
これはもう大変です。天地がひっくり返ります。世界の終わりですと言わんばかりの慌てぶりで秘書が魔王のいた部屋に駆け込んできた。
あぁ、手足も同時に出て、そんなに慌てたら、普段から綺麗に整えたスーツがさらに乱れてしまうよ。ナイスミドルなオジサマ魔王は額に手を当てて暫し悩んだ後、混乱状態に陥っている秘書に優しく声をかけた。
「ありがとう。少し早めの休憩を取ろうか」
オジサマ魔王は胸ポケットからハンカチを取り出して秘書に渡すと気を使いながら秘書を部屋から退出させた。
オジサマ魔王は、勇者の引きこもりがどうしてそんなに慌てることなのか分からなかったため、魔王担当の政策秘書を呼び鈴を鳴らして魔王の執務室に呼んだ。
「急に呼び出してすまないのだが、勇者の引きこもりがどうしてこんなにも問題となっている?」
「幾つか理由が御座います。一つ目は我が国を含んだ周辺諸国とのバランスの問題です。いま勇者を輩出した国は数十年前は経済的に大きく成長していましたが、現在ではその面影はありません。人口も逆ピラミッド型で、引きこもっていてもいまのところは生きていけますが、数十年後にはそれが出来ず、周辺諸国との各種の力バランスも大きく崩れることが確定です」
「人口をピラミッド型にする政策などは取らなかったのか?」
「はい。誠意ある専門家はその問題を指摘していましたが、既に政治は腐敗しておりましたので有効な政策は取れていません。彼の国の立法府の代表者の内には女性を子を産む機械だと思っている人もいたのです。そんな国に未来はありません」
政策秘書は事前に準備しておいた人口統計に関する資料を魔王様に渡す。
「二つ目は非正規労働者となる勇者が引きこもるほどの酷い社会構造ということです。特に会社経営において適材適所に人材を配置出来ず低い収益となるため低賃金で長時間労働となっています。心身共に酷い有様であるため引きこもりの要因の一つとして問題視すべきところではあります」
「公的な労働の監督機関は存在していたと認識していたが」
「はい。しかし、企業の経営陣及び管理職が正しい判断を下せないことが問題であるため、この問題は解決しません。勇者においては、下請けの下請けのさらに下請けの下請けの下請けの形で勇者をさせられていることも確認しております。各下請けで管理費という名目で多額の費用が取られているため、実際に投入された予算の数%しか勇者の手元には入っていません。この構図は、彼の国の研究開発への費用においても大学の運営費を競争的資金という形に変えることで導入が進んでいるとの噂があります」
「酷い話だ。ところで勇者は何に適性があるのですか?」
「正確なところは不明ですが、情報技術(IT)のようです」
「確かに勇者ではなく周辺諸国のGAFAで望まれそうな適正ではないか」
「言語の壁や専門分野の細分化でGAFAで望まれる人材と言えるかは難しいところです。性格的には争いを好まない人のようですし、我が国で調べたところでは数多くの功績を他者に譲っているため、その能力は自国にも知られてはいないようです」
魔王は嘗てどこかで似たようなことを聞いた覚えがあるような感覚に囚われた。
「権力は腐敗しますし、制度を正しく構築できなければその隙を突かれて、修正できないほどの権力基盤が形成されます。既に彼の国では情報伝達機関において公私共に腐敗が進んでおり、修正できないレベルと存じております。この状態では政治も有効に機能せず、伝染病の対策の遅れが我が国に影響を及ぼす確率が日に日に高まっていくことになります」
政策秘書は過去の疫病の統計資料を見ながらため息を吐く。
「三つ目は倫理道徳の崩壊です。彼の国の嘗ての元首のなかには素晴らしい国を作ろうと掛け声をかけました。その掛け声の上で行われた多くの政策は中間層を減らす結果に終わり、大事な文書をシュレッダーで破棄することがまるで正しいかのような振る舞いも行いました。このような政府の下での勇者の引きこもりが人々に与えた影響は大きく、正しいことを諦めさせ、勇者と似た境遇を経験した者たちには引きこもることが正しいという印象を人々に与えることになりました」
「この国よりも酷い周辺諸国もあるというのだから頭が痛くなるな」
ナイスミドルなオジサマ魔王は深く腰かけた椅子の上で大きなため息を吐いた。
「説明をありがとう。まだ多くの理由があると思うが、早速にでも政策秘書として対応策の検討に必要な作業を進めて欲しい」
「わかりました」
政策秘書はそう言って恭しく頭を下げると執務室を後にした。
オジサマ魔王は執務室から外を眺め、勇者でさえも引きこもる彼の国が引き起こすであろう惨劇に恐怖した。