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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

人工知能搭載ゴキブリ

作者: はぐれ犬

 実験用テーブルに取り付けられた鳥籠ほどのカプセル。その中から取り出したマウスに、男は慎重に謎の液体を注入し始めた。



 5分後──



「くそ……! また失敗、か……」


 男は右手に挟んだ注射器をステンレス製のトレイに置く。静かな研究室にガタッ──という鈍い音が木霊した。


「おっ、いたいた」


 ほぼ無音に近い自動扉をくぐってやって来たのは別の男。彼も研究者だが、帰り間際か、白衣は身に纏っていない。


服部(はっとり)、早く帰ろう。もう残ってるの俺らだけだ」


「……」


「んん? なぁおい、どうした?」


 落胆する服部を覗き込むように肩に腕を回す。当然、男の視線は実験用テーブルに向けられた。


「……ったく。お前まだあの実験やってるのか? いい加減もうやめとけよ」


「いや、あと少しだと思うんだ……」


 服部は、動かなくなった被験用のマウスに視点を落としながらぽつりと呟いた。


 注射器の中にはエメラルドグリーンの液体。極め細やかな気泡が立ち上っている。同僚は、その注射器を横目にため息を吐きながらテーブルに凭れかかる。


「あのなぁ。いくら人工知能のナノ化が進んできたからって、生物に人工知能を搭載するなんて無理に決まってるだろ?」


「……」


 無理に決まっている──それは服部自身、薄々感じていたことではあった。


 同僚の彼が諭すように、服部の研究は誰がどう見ても無謀なもので、既に結論付けられている分野でもあるからだ。




 "生物に人工知能(スーパーA I)を搭載する──"




 きっかけは数年前。


 世界には、人工知能搭載の機械が溢れていた。家電製品に電子機器、乗り物やPC、そして人型アンドロイドなどだ。


 だが便利な世の中になったと歓喜する人々の傍らで、このままでは人類は人工知能に乗っ取られてしまうと警鐘を鳴らす科学者達。


 研究者の卵であった服部も当然、その危険性を唱える内の一人だった。


 そんな折に、服部はある一つの科学雑誌を手にする。着目した記事には、"人工知能を生物に"という見出しで次のように綴られていた。



『人生などたかが一世紀。モラルやマナーを学ぶことは大事だが、果たして言語を、文字を、数式を、一から学ぶことが有意義であると言えるか?

 人工知能を生物に搭載出来るのなら、学力差のない社会……否、子供達は勉強すらする必要はなくなる。誰しもが学ばずとも平等の知識を身に付け、幼少期から家庭教育以外の全ての時間を有意義に使うことが出来るのだ』



「……確かに!」


 当時の服部は今までの考えが全て吹き飛び、まるで頭を強く叩かれたような衝撃を受けた。


 そこからは生物に人工知能を搭載する研究に勤しむ日々が続く。


 その想いに応えるように、人工知能のテクノロジーはマイクロからナノへ、日々目覚ましい進化を遂げていく。


 服部は早く成果を出したいという、高揚にも似た逸る胸の内を必死に抑えながら研究を続けたのだった。



 そして季節は流れ、幾留目かの春──


 服部は晴れて研究者となった。



 だがその年、無情にも生物への人工知能搭載は物理的に不可能であるとの論文が外国の研究者から発表されることとなる。


 しかし彼は、服部だけはその事実を否定し、無駄と蔑まされながらも研究に没頭する。必ずや、自分が証明してみせると。



(ま、少し言いすぎたかもな……)


 その事実を知る同僚は、落ち込む服部に再び腕を回した。


「悪かったよ、否定するようなこと言って。でも何事もやりすぎは体に毒だ。今日はもう上がって飯でも行こうぜ?」


「ああ……」


 彼なりの気遣いのようだ。

 

 服部本人も一日の成果が"失敗"に終わり疲弊していたのだろう。珍しく素直に頷き、研究室の電源を落とそうとスイッチが並ぶ自動扉横に向かった。


「うおっ!!」


「な、なんだよ!?」


 突然、悲鳴をあげる同僚。

 何事かと慌てて振り返ると──


「なんだ、ゴキブリか……」


「くそ……っ! マジで苦手なんだ!! どっから入って来やがった!?」


「どっからでも入って来るだろ? 別段、隔離された研究室でもないんだし。ほっとけよ」


「ほっとけるか! おい、殺虫剤は!? 新聞紙でもいい!」


「……ないって」


「くそっ!! こうなったら!」


 同僚は血相を変えて片方の靴を脱ぎ、右手に持ち替えた。その表情は殺意に満ち満ちている。


(おいおい……何も殺すことは)


 心ではそう思った服部だが、なぜか口からは出なかった。単にどうでも良かったのかも知れない。たかがゴキブリ一匹の命より、今は研究の疲れが……


須々木(すすき)! ちょっと待ってくれ!」


 服部は何を思い立ったのか、語気を強めて同僚の須々木を静止させる。


「な、なんだ、どうした!?」


「そいつだったら……もしかしたら成功するかも」


「そいつだったら?」


「何せ生命力の塊みたいなヤツだ。ゴキブリになら人工知能を搭載出来るかも知れない!」


「な、何馬鹿なことを言ってるんだ! ゴキブリに人工知能だと!? してどうする!」


「どうするって? 生物に人工知能を搭載することが俺の研究だろ?」


「そ、それはそうだが……! もし成功してしまったら!」


「ブレイクスルー賞、だ」


「そうじゃなくて!!」


 須々木の困惑じみた制止を笑顔で振り切り、服部は無菌性の布で素早くゴキブリを捕獲。


「よくやるよ……。っていうか今からカプセルに入れてたら一時間以上は掛かるぞ?」


「……それもそうだな」


 帰宅間際がそうさせたのか、服部は、今まで自身が確立してきた手順をすっ飛ばし、液状化されたナノサイズの人工知能を注射器で直接ゴキブリに注入し始めた。


 だが、ものの数分でゴキブリは仰向けに転がり、動かなくなってしまった。ま、当然の結果だろう。歪んだ表情で終始を傍観していた須々木のため息がそう物語る。


「ま、なんちゃら賞は諦めるんだな。ほら、もう行こう」


「……ああ」


 服部も然程落ち込みはせず、死亡したと思われるゴキブリをティッシュで──



 カサカサ……



「うおぉ!! まだ生きてやがる!!」


「何!? まさか、成功した!?」


 二通りに別れた驚愕を並べる服部と須々木だったが、ゴキブリは嘲笑うかのように隙を見て二人の元から姿を消した。


「びっくりさせやがって……!」


「須々木、今の見たか!? もしかして成功したんじゃ──」


「まさか。馴染ませてもいないのにいきなり注入したんだぞ?」


「でも、生きて……!」


「アイツらは生命力の塊だってさっき自分で言ってたじゃないか。その内死んでしまうさ」


「そうか……、そうかもな」


 どこか納得してしまった。そうなれば重たい棚の裏に逃げたゴキブリなど探す気になれない。二人は何事もなかったように研究室の電源を落として静かにその場を後にする。


 これが悲劇の幕開けになるとも知らずに。



 ──3年後



 都内を中心に、にわかに家庭内でのゴキブリの目撃例が激減していると一部のメディアが報道し始めた頃、時を同じくして、その報道に矛盾するかのように、生後まもない赤ん坊が数百のクロゴキブリによって窒息死させられる事件が勃発する。


『ゴキブリが意図して人間の赤ん坊を狙っているだって? ハッ、そんな馬鹿な』


『過去にも睡眠中の人間の指や耳に齧りついた、なんて事例はいくらでもありますから。彼らは雑食ですし、可能性としては十分でしょう』


 TVや新聞紙などで掲載される意見は様々だが、"ゴキブリが人間を襲う説──"、これは一部のSNSで盛り上がりを覗かせる程度で、誰もそんな説に信憑性がないことは理解していた。


 しかし続けざまに、別の事件が各メディアを賑わせることとなる。


「またか!? 一体どうなっている……!!」


 幼児を乗せた幼稚園バスが都内各地で交通事故を引き起こしたのだ。それも一件や二件ではない。過去に類を見ないほどの台数が、短期間にだ。


 信号無視に急な車線変更。時には対向車線侵入、稀に歩道に突っ込んだケースも見られたという。


 警察による検証の結果は、勤怠や労働時間に問題が見られなかったことから、ほぼ全てが脇見運転や前方不注意によるものであると結論付けられた。


 だが大破したバスの中から、貴重にも車内を映した一件のドライブレコーダーが見つかった。


 これにより事態は急変する。



『うわぁぁぁぁぁぁ!!』


 なんの前触れもなく、突然運転手の悲鳴が車内を揺るがせたかと思うと──


『きゃあぁぁぁぁぁ!! 嫌ぁぁぁぁぁぁ!!』


 続けて、保育士と思われる女性の発狂じみた叫び声が覆い被さるように響き渡った。


 その様子を固まった表情でじっと見つめる園児、釣られて泣きじゃくる園児が車内の騒然さを物語る中、平然とその様子を口にする一人の園児がいた。



『すげぇー! ゴキブリだぁ!!』



 乱れた映像では不確かだが、どう見ても百や二百の数でない。最終的には運転手や保育士の体躯を黒で覆い尽くすほどの数だったのだから。


 この映像が全国のニュースで流れたこの日、全国民は恐れ戦き、固唾を飲んだ。幼い命が奪われた死亡事故にではなく、その原因に。


 困惑する政府関係者は狐につままれた顔で、生物学者も挙って首をひねる。本当にゴキブリが意図して人間を襲っているとでも言うのか?そう言いたげに。


 現時点で、その答えを知る者は誰もいない。



 ただ一人、彼を除いて──



「ま、まさか……。そんな…………」


 TV画面の前の服部は、青ざめた表情に加えて瞬き一つしない。脳裏には、ふとした拍子で人工知能を注入してしまったあの日の出来事が鮮明に蘇っていた。


「もしもし、もしもし!!」


「おお、久しぶりぶりだな服部。どうしたんだ急に。てかこれ国際電話だけど大丈夫なのか?」


 居ても立ってもいられなくなった服部は、海外出張中の須々木に助けを求めた。


「聞いてくれ、須々木。俺は……もしかしてとんでもないことを仕出かしたかも知れない!」


「なんだって? とんでもないこと?」


 現在、日本都内で巻き起こる、数十件にも及ぶ幼児バス死亡事故。そして赤ん坊の喉を塞いで窒息死させるこの二つの事件について、服部は唇を震わせながら静かに語り始めた。




「嘘、だろ……」


「出来れば嘘であってほしい……。だが、もうそれしか思い付かないんだ」


 服部の重苦しい口調が嘘ではない、ただならぬ緊張感となって電話越しに伝わる。沈黙を置いた須々木は思わず息を飲んだ。そして──

 

「服部、すぐに保健所と行政機関に連絡するんだ。もし本当に人工知能を持ったゴキブリが原因なら、もう俺達だけじゃどうしようもない」


「し、しかし……! 生物への人工知能搭載は不可能だと結論付けられているんだぞ!? 俺が真相を話したところで頭のイカれた研究者がって叩かれるのがオチだ!」


「そうかも知れないが……」


「須々木、当分こっちには戻れそうにないのか?」


「仕事が山積みだが、事態が事態だ。……1週間、1週間で日本に戻る」


「すまない……」


「お前の研究室で落ち合おう。但し、それまでに何の解決策も見つからないようだったらすぐに行政へ連絡だ。約束してくれ。これは未曾有の危機に陥り兼ねない」


「わかった……」


 須々木の助言と約束を安定剤に、服部は何度も頷きながら電話を切った。



 1週間後──



 ニュースで流れるどの事件・事故も、もはや服部の目には全てがゴキブリの所業に映るまでになっていた。


 中でも酸鼻だったのは入院患者による死亡事故。重篤の患者に繋がれている管を噛みちぎり、呼吸困難や循環不全を引き起こして死に至らしめるというものだ。


 だが世間の関心はそれら個人の事件ではなく、一見すると関係性のないようにも思える、都内各地で引き起こされている停電事故にあった。


 この停電事故は一部の報道でテロとまで騒がれる大惨事だったが、どうやらこれすらも服部はゴキブリの仕業と考えているようだ。


「その根拠は……?」


 須々木は訝しい顔で腕を組む。

 着手していた仕事を切り上げて、約束通り服部の研究室に顔を出したようだ。

 

「この1週間、様々な可能性を考察したんだが……」


 服部は語る。停電事故よりも先に、なぜゴキブリが赤ん坊や幼児を狙うのか、その理由を。


 人工知能を搭載したゴキブリは人間を外敵と見なした。根拠は様々浮かぶが、自分がゴキブリ側だったらと想像するとそう考える他ない。


「何せ発見されただけで殺しに掛かって来るんだ。ヤツらからすれば人間は害獣でしかない」


 だからゴキブリは人間を殲滅しようと考えた。そしてそれには数がいると。だから最初はじっと我慢して子孫を増やした。あの日から3年もの月日が経過していたのは、謂わば殲滅を実行するまでの猶予期間であったと。


「狙い易いという理由もあるだろうが、人間の寿命を80年とした場合、これから育まれていく個体を狙ったほうが繁栄に大きく関わってくる」


「だから赤ん坊や幼児達を狙ったというのか……! しかし、いくら人工知能を備えてるからって!」


「それだけじゃないんだ。幼稚園バスの死亡事故の際、車内映像がニュースで全国に流れた。ヤツらは視力は悪いが、きっとどこかで見ていたんだろう。翌日からバスの事故はぱたりと止んだんだ」


「……どういうことだ?」


「たぶん、自分達の仕業であることを隠したかったんだと思う。ゴキブリと特定されれば警戒され、対策を練られるからな」


 服部の解答に須々木は固唾を飲んだ。自分の知るただの害虫と、知能を持った害虫との差に。まるで恐怖心と違和感を同時に抱えたような顔だ。

 

 その一瞬の沈黙を境に、話は各地を襲った停電事故に切り替えられる。


 これはあくまで服部の想像だが、停電を起こせばそれだけ自分達の活動がしやすくなる。加えて、人間の関心はいつの世も話題性を重視する、ということらしい。


「いや……すまないが、さっぱり意味がわからない」


「個々の死亡事故より、皆に関連する停電事故のほうがニュースになりやすいってことさ。交通機関の麻痺は経済の損失に直結する。つまり、その間はどれだけ犠牲者を出そうともニュースにはなりにくいってことなんだ。自分達の所業をカモフラージュすると同時に、"停電"という不意を突かれた人間が一体どのような行動を取るのか。おそらくパターン化して分析してるんだと思う」


「分析してる? ……ゴキブリが?」


「ああ」


 このあとも服部と須々木は推察の中で話し合いを続けた。もし自分がゴキブリで、人間を駆逐するとしたら。その方法は、発想は、手順は──そんな風に。


 しかし考えれば考えるほど、限りない可能性と、戦慄したくなる想像が先行するばかり。


 事の重大さは早くも二人の許容を超えた。


「だったら! こんな流暢に可能性を語り合ってる場合じゃないだろ! 一刻も早くなんとかしないと……! 服部、何か案はないのか!?」


「……」


 もちろん、おぞましい想像と平行して色々と解決案は考えていた。だが、問われた服部の表情は険しいままだ。

 その表情が、通常の駆除方法では何の解決にもならないことをそっと須々木に匂わせる。


「よしわかった、もういい。とりあえず各行政に連絡だ。原因がわかれば何かしらの対策が──」


「ま、待ってくれ! もう少しだけ、待ってくれ……」


「何を待つんだ!? 現時点でどれだけの犠牲者が出てると思っている!? 約束しただろ!」


「だけど……このままじゃ俺は、犯罪者に……」


「!! そんなこと言ってる場合かっ!!」


 己の立場だけを身勝手に保護する服部の発言に、須々木は思わずテーブルを叩いて激昂した。


「きっと、行政機関に連絡を入れても対策なんて出来っこない……。何億年も前から絶滅を逃れて繁栄してきたヤツらだ……。人間なんかに……ヤツらを止める術はない……」


「だとしても、だ」


「ゴキブリを駆逐出来るのはゴキブリだけ……。頼む須々木、2日だけ俺に時間をくれないか!? 必ず解決策を用意する!」


「何か糸口があるのか?」


 服部は黙って頷いた。先程の宙に浮いた定まらない視線とは違う、強い眼差しで。


「……わかった。2日後、ここで落ち合おう」


 それだけを言い残し、須々木は一人研究室をあとにした。根拠はなかったが、服部の、研究者になる前の学生の時のような強い眼差しを信じてみたくなったのだろう。


 退室したあと、須々木は独自にゴキブリの生態や人工知能について調べてみることにした。


(無駄かも知れないが、ただ何もせずに待っているだけなんてそれこそ無駄だ!)


 友人の研究に、彼なりの責任を感じていたのかも知れない。



 そして2日が過ぎた──



 状況はまるでいたちごっこだった。この2日間、人々を嘲笑うかのように復旧した側から停電が繰り返される。

 須々木はそのニュースが流れる度に、奥歯を噛む思いで眉間に皺を寄せていた。


 一方の服部はというと、あれから一歩も外に出ず、自身の研究室に入り浸ったまま何かに没頭していた。


 一歩も出ないどころか、おそらく一睡もしていない。目の下の隈が酷く黒ずんでいる。


「で、出来た……!!」


 しかしその甲斐あってか、どうやら解決の糸口を形に出来たようだ。一息入れる間もなく、須々木に連絡を取るため携帯を手にする。


『今日の夕方、研究室に来てくれ──』


 一方的だったのは、留守番電話だったから。

 その一言だけを残して、服部は夕方まで仮眠を取ろうと2日ぶりの自宅に戻った。




「──入るぞ?」


 夕方、須々木は服部の研究室を訪れていた。だがなぜかそこにいるはずの服部の姿がない。

 

(自宅か……?)


 服部の家はここから徒歩5分の所にある小さなボロアパートだ。研究に没頭したくて"近さ"だけを重視した結果らしいが、迎えに行くとなれば好都合。


 そう踏んだ須々木は一旦踵を返し、服部のアパートへと歩みを進めた。



「下がって!!」


 そこには数台のパトカーと一台の救急車が周囲を賑わせていた。一瞬目を疑ったが、間違えるはずなどない。ここは確かに服部のボロアパートだ。

 

 嫌な予感がした。右手に持っている飲みかけの缶コーヒーがするりと抜け落ちるほどの明確な予感が。


「友人だ、どいてくれ!!」


 須々木は警察官の静止を振り切って部屋の扉をこじ開ける。


「え……」


 中に横たわっていた()()は、一瞬、友人であるはずの自分が見ても誰のものかわからない顔だった。


 毛の一本すらない頭皮に、中央付近から食い破られている飛び出した眼球。そして開いた口の中には、体内への侵入を阻止しようと決死の抵抗で噛み砕いたと思われるゴキブリの死骸が溢れていた。

 

 おそらく転げ回って抵抗し、もがき苦しんだ結果だろう。周囲には、数え切れないほどの踏み潰された死骸が服部の亡骸を覆い尽くしている。



「うっ……! おぇぇぇ!!」



 ここで須々木は膝から崩れ落ちて嘔吐した。せり上がる嗚咽と涙はそのグロテスクな光景からか、それとも、友人を亡くした無念からか。須々木自身、もうわからなくなっていた。




「なぜ服部が狙われたんだ……。産みの親だからとでもいうのか、馬鹿馬鹿しい……」


 事情聴取や遺体の身元確認を済ませた須々木は、服部と落ち合うはずだった研究室で肩を落としていた。ため息も出ない。つけっぱなしのPCの前で虚脱状態だ。


 そんな風にしばらく定まらない視点を泳がせていたが、ふと、服部が自分に見せる予定だったと思われるPC画面の『改良型人工知能』のプログラムに焦点が合う。


「これは……!」


 おそらく、進化の促進とも呼べる自滅コードだ。

 服部ほどの専門知識はなかった須々木だが、すぐ横に残された走り書きのメモだけは空虚な頭でも理解する。



"これを人工知能搭載ゴキブリに注入すれば個体数の減少が望めるはず──"



 希望の光に思えた。友人が死んだばかりだというのに思わず微笑がこぼれるほどの。



"だが、人工知能を持ったゴキブリを捕獲することはやはり難しいか……"



「いや、そんなことはない服部。恩に着る……!」


 須々木は早速電話を手に取った。

 各行政機関に、直ちに世間を賑わす元凶の報告とこの解決案を提供するために。


「もしもし! もし──」


 プッ……。


 繋がったと思った電話だったが、よく聞くと途中からコール音が鳴っていないことに気付いた。


(まさか、この研究室付近も停電したのか!?)


 一瞬、そんな考えが過る。


 だが慌てることはない。携帯ならポケットの中だ。須々木は厚生労働省から再度コールを鳴らした。





 カサカサ……カサカサ……カサカサ……。




 一体、いつから研究室(ここ)にいたのか。

 一体、どうやって潜り込んだのか。

 そして、いつの間に囲まれていたのか……。


 須々木はまだ振り返っていなかったが、瞬間的な冷や汗が頬を伝っているあたり、すぐに自分の置かれている状況を理解したようだ。


『……もしもし?』


 その間に携帯から漏れ出した女性の声。知らぬ間に繋がっていた。須々木は覚悟を決め、すっと耳に押し当てる。


「よく聞いてくれ。この携帯にはGPSが内蔵されている。この電話が途絶えたら、すぐに私の居場所を検索してほしい。世間を賑わす停電事故と、ゴキブリの仕業と囁かれる事件の真相がここにある。その解決方法もだ」


『あの、失礼ですが御名前を……』


「私は──」


 ガサガサ!!


「ぐぅあああ!! やめろ、やめてくれぇぇ!!」


 携帯をスライドさせる暇などなかったのだろう。電話口に出たコールセンターの女性は、その後しばらく須々木の断末魔を耳にすることになった。



 一月後──



 日本政府は、人々を震撼させた数々の事件の真相と共に、正式に人工知能を持つゴキブリの存在を世に発信した。

 

 効果は絶大だった。逆の意味で。唯でさえ恐怖心を煽るゴキブリが『人工知能(スーパーA I)』だ。もはや煽る煽らないではなく、恐怖でしかなかった。


 案の定、人々はパニック状態に陥った。政府の思惑に反して、在庫切れになるほど飛ぶように売れる捕獲器や殺虫剤の数々。


 だが国民は、すぐにこれが間違いであることに気付く。


「人工知能を持つゴキブリが捕獲器に捕まるばすないでしょう? そもそも殺虫剤を手にしたところで全く人前に現れないんですから」


 この一人のコメンテーターの発言に、思い当たる節のあった主婦から順に世間はようやく頷くことに。

 平行して、これまで鼻で笑われてきた政府の注意喚起も信憑性を得られたのか、国民の認識が徐々にそれまでの常識から一変した。


 "ゴキブリとは、害虫ではなく人間に殺意を持った外敵であり、人類の脅威となる新たな知的生命体である"


 ──そんな風に。


 そして政府はこのタイミングで、とある研究者のデータを元に作られた『改良型人工知能』によるゴキブリの撲滅案を展開。人々の"希望の光"となるように、名称はそのまま『AI-HIKARI-』と名付けられた。



「何が"希望の光"よ!! あの子を返して!!」



 一人の母親が嘆くように、この時からゴキブリは見境なく人間に牙を剥くようになった。


 停電のような間接的な攻撃に加えて、群れを成して堂々と人々を襲って来たのだ。


 ゴキブリは既に人間の心理、特性を十分に理解していた。人工知能に加えて、自分達のフォルムそのものが武器になることも。


 人は死を恐れるが、彼らは死を恐れない。

 繁殖力の違いか、生命力の差か。百の命で人間一人を殺せるなら御の字と考えて行動しているように見えた。


 だから手段を選ばずにいる。


 走行中のバイクや自動車が次々と襲われ、自身も死ぬが、狙い通り、人間の乗り物はそれ以上の二次被害を招く。


 そして間接的な被害と言えば、日本の血液と称される物流業。ゴキブリのターゲットとなった大型トラックは、挙って日本各地で大事故を引き起こした。



「狙いは物流の停止と、自分達の活動範囲を日本全域に拡げていくことでしょう。今後は間接的な攻撃ではなく、直接人間を狙ってくるかも知れません」



 生物学の権威と人工知能の専門家はそう指摘する。


 だがその指摘は的外れだった。

 ゴキブリ達は自らが保有する病原菌、後ろ指を立てられる不潔さを最大限利用して、物流業に引き続き、今度は生衛業を破綻させていく。

 

 これにより、飲食店や理髪店は軒並み営業停止の決断をせざるを得なくなった。


 その他にも、県庁や市町村の役員、政治家や医療従事者は当然狙われた。医療崩壊、社会福祉の混乱が凄まじいスピードで現実と化す。



「くそ……ふざけやがって……!」



 対して、現時点での人間の武器は『改良型人工知能』だけ。それもすぐに効果が発揮される代物ではない上、未だ人工知能搭載ゴキブリの生捕りも未達のまま。


 もはや新たな対抗手段を講じる他ない状況に立たされていることは、誰の目から見ても一目瞭然だった。



「どうしますか、総理!?」


「国民は?」


「これまでにないほど、殺意と恐怖が拮抗している状況にあるかと……」


「私もだよ。──科学者と各都道府県の知事をモニターに集めてくれ」


「いよいよ緊急事態宣言ですか!?」


「いや、抹殺宣言だ」



 人間は遂に本気となる。


 目に見えぬウイルスではなく、元より恐れていた害虫を前にして、自分達の生活や経済が脅かされていく様子を人間がただじっと指を咥えて見ている訳がなかったのだ。


 そう、人工知能(ゴキブリ)は知らなかった。


 自分達を守ると決断した時の人間の団結力を。

 敵と見定めた者に向けられる人間の残虐性を。

 容赦ない手段で悪魔にも外道にもなれる、人間の底知れぬ悪意を……。


 

「戦争だ」



 これより、人間とゴキブリの存続を賭けた本気の戦いが始まる──

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― 新着の感想 ―
[良い点] え?続きは?続きは? 読みたい!ものすごく読みたい! はよ!続きはよ!
[良い点] この後どうなるのか考えさせる演出、こういう終わり方も短編の魅力の一つだと思う。 [一言] 鳥肌たった
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