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其の五

翔太しょうた! 翔太!」


 私は息子の名前を呼びながら、しゃがみ込んでその体を抱き締める。

 ポケットからスマホを取り出して、ガタガタ震える手で119番をタップした。なのに――液晶画面は何も反応しなかった。何度発信ボタンを押してもかからないのだ。呼び出し音すら聞こえてこない。


「お願い、救急車を呼んで! お願い!」


 私は廊下の端で突っ立ったままの匡子きょうこさんに縋った。彼女は悲しそうに私を見下ろしている。


「残念だけど、もう遅いわ。今日も……引き止められなかったわね」

「何言ってんの!? 意味分かんない! お願い救急車を……」

「もう少し、お話をしましょうか」


 匡子さんは結んでいた髪を解き、気だるげに首を掻いた。私から視線を逸らし、覗き込んでいるのは壁に吊られた姿見だ。緩慢なその仕草に、激しい怒りが湧いた。


「子供が死にかけてるのよ! あんた頭おかしいの!?」

「あのね、ここの家賃、安いのは三階だけなの。それには理由があってね」


 彼女は私の剣幕になんか気づいていない風情で、ゆるゆると話した。掠れているのに、その声は混乱した私の耳によく響いた。


「幽霊が出るのよ」

「ゆ、幽霊?」

「血塗れの女が、毎晩毎晩同じ時刻に三階の廊下に現れるの。ドアの前に佇んでぶつぶつ独り言を言って……そのうちどこかへ行ってしまうんだけど、そんな気味の悪い階には誰も入居したくないわよね。住んでた人もみんな越してしまったって」

「何……何を言って……」

「その幽霊は、たくさん荷物を持って、胸に赤ちゃんを抱いているんだって」


 匡子さんの両腕が、そこにいないものを抱えるように胸の前で交差した。ワンピースに染みついた血糊は円く、ちょうど子供の頭くらいの大きさだ。


「私はそんなもの信じてなくて、ただ家賃が安いからここに入居したのね。実際、何事もなかった――つい七日ほど前までは。万里まりさん、あなたが訪ねてくるまでは」


 匡子さんは私の手を取った。私は逆らえなかった。

 促されるまま彼女の隣に行くと、壁の姿見の正面に立つ格好になった。


 長方形の鏡の中には、血塗れの女がいた。

 

 頭からペンキでも被ったように、顔から腹の辺りまで真っ赤に濡れている。ベージュのパンツは辛うじて地色が分かったが、土らしきものでひどく汚れていた。半袖ブラウスから伸びた腕は黒く鬱血し、折れた骨が肘を突き破っている。その両腕に抱き締めているのは、首がちぎれかけた赤ん坊。


 自分の姿だと理解するまで、数秒かかった。 


「あ……あぁ……」


 私は言葉にならない声を上げた。喉の奥から生温いものが逆流し、鼻と口から溢れた。血と脂と胃液の混じった吐瀉物は、汚れたブラウスをさらに汚して床に飛び散る。私の足元には血溜まりができていた。


 そうか……血を流していたのは私。部屋や匡子さんの服を汚したのは、何のことはない、私と翔太だった。この腐敗臭は体の中から湧き上っているのだ。


「帰らないと……私、帰らないと……」


 私は裸足のまま玄関に降りた。そこに私の靴はない。最初から履いていなかったのかもしれない。

 あっさりとドアは開いた。


 廊下に出た私は、隣の三○二号室――自分の部屋の前で立ち止まった。

 見慣れた自宅のドアは、キーボックス付きの錠でロックされていた。新聞受けはテープで目張りされている。空き部屋の証拠だ。


「ご主人、引っ越されたそうよ。あなたが亡くなってすぐに」


 茫然とする私に、隣室から顔を覗かせた匡子さんがそう教えてくれた。

 私はその場にしゃがみ込んだ。


 もう私は、永遠に家へ入れない。





 ドアの前でいくら鍵を探しても見つからなくて。

 誰も助けてくれなくて。

 私はぐずる翔太を抱いて、あの夜、とぼとぼと駅まで戻ったのだ。

 とても暑い夜だった。気温は下がり切らず、猛暑日の熱気がアスファルトやコンクリートに残っていた。どこか涼しい場所で翔太に水分を摂らせないと――そう思いながら、国道沿いの歩道を歩いている途中、頭がぼうっとしてきたのを覚えている。

 それから――どうしたっけ。





「きっと暑さと脱水症状で意識を失ったのね、あなたはふらふらと車道に転がり出てきたそうよ。運悪くスピードを出した自動車に跳ねられたの」


 匡子さんの言葉は何の抵抗もなく受け入れられた。皮膚が削れ骨が砕けた私の体は、自動車と接触したあと路面に叩きつけられた結果だろう。


「思い出しました……私の不注意で、翔太も一緒に……」


 私よりももっと脆い翔太は、一瞬で潰れてしまった。

 どうして庇ってやれなかったのか。守れなかったのか――私は人相も分からなくなった息子を抱いて、泣いた。口の中に流れ込む涙も鼻水も、血の味しかしなかった。さっき飲んだ麦茶と同じに。

 匡子さんは廊下には出て来ず、自室の玄関先から身を乗り出したまま、私を眺めていた。彼女とは立っている世界が違うと、今やはっきり分かる。


「……今、何月ですか?」

「十二月よ」


 彼女の答えに、冷え切った室温の訳を知る。乾いた冬の夜気が私から熱を奪っていった。


「ここが空き部屋になっても、あなたは毎晩帰って来てた。でも中に入れないから、ひとしきり鍵を探して……その姿が目撃されるようになって、三階の住人はみんな逃げちゃったのよ。三○三号室の『いぬいさん』もね」

「匡子さんは……いつから?」

「私はその後に入ったんだけど、この話は二階の人から聞いたの。私には何も見えなかったから気にしなかったわ。まではね」

「私、もう七回も匡子さんの部屋にお邪魔してるんですね。ご迷惑おかけしてすみません」


 私や翔太のことをよく知っていて当然だ。私は毎晩毎晩同じ話を繰り返しているのだろう。辛抱強く聞いてくれたものだと思う。いやその前に、よく家に入れてくれたものだ。


「私も寂しかったから……」


 匡子さんは掠れた声で呟いた。

 いい人だ、彼女は。本当にいい人。もっと早く、生きているうちに出会えていたら、私たちは友達になれたのかもしれない。でも、親切な彼女をこれ以上私の未練に巻き込むわけにはいかなかった。


「本当にありがとうございました。もうここへは来ないように……努力します」


 私は深く頭を下げた。彼女への感謝の表現であり、自分へのけじめでもあった。

 匡子さんは何も言わず、ただ、泣き笑いのような表情を作った。

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