其の四
それはまるで切れたケーブルが繋がるように。
消えていた液晶画面が息を吹き返すように。
私は唐突に思い出した――ほんの数ヶ月前、引っ越してきた時の記憶を。
昼間の内に荷解きを終え、夜になって両隣へ挨拶に行ったが、最初に訪ねた三○一号室は留守だった。それで次に三○三号室に行った。
――隣に引っ越してきた重森です。よろしくお願いします。
――あらあ、お隣、また人が変わったのね。その子何ヶ月なの?
――年明けに出産して、もうすぐ四ヶ月です。あの、泣き声が響いたらおっしゃって下さいね。ご迷惑にならないように気をつけますから……。
――そうしてくれると助かるわ。私も旦那も朝早いから、夜眠れないのは困るのよね……あ、意地悪で言ってるわけじゃないのよ。マナーは守ってねって話。
嘘っぽい笑顔で牽制してくる隣の奥さんが脳裏に甦った。最後に取ってつけたように、乾ですと名乗られたっけ。
明らかに歓迎されていないのが分かったから、お隣とは意識的に接触を避けていたのだ。だからはっきり分かる。今目の前にいるこの人は、あの時の乾さんじゃない。
私は混乱した。
じゃあ誰? 三○三号室の住人のように振る舞うこの女性はいったい誰なんだ?
想像したのは最悪の事情だった。
理由は考えたくないけれど――この人は私や穣に恨みを持っていて、うちの現状を調べ上げた。それで隣室に忍び込んで、私を待ち構えて。
今日や昨日の話ではないだろう。偶然を装って私を家に招き入れるチャンスをずっと窺っていたのだ。
さっき、廊下で感じた視線を思い出す。
あの部屋にいたのは。
「もう失礼します。お邪魔しました」
私は翔太を抱いて立ち上がった。もう一秒たりともこの場にいたくなかった。
想像の中で、本物の乾さん夫婦が六畳の洋室に押し込められている。乾さん夫婦の、遺体が。
もう何日も前に殺されて、ベッドの下でじわじわと腐敗している。瞼が緩み、どろりと濁った眼玉がドアの隙間を睨んで――そう思うと、空気に異臭さえ籠っているように感じられた。
ここにいてはいけない。確証は何ひとつないけれど、とにかくここを出なければ。
翔太を守らなければ。
本当はすぐにでも走って逃げ出したかったが、匡子さんを刺激するのが怖くて、私はいそいそと抱っこ紐を身に着けた。
「もう少し、お話しない?」
匡子さんは名残惜しそうに言った。
「その方が万里さんのためよ。家に入れないんでしょう?」
「いえ、自分で何とかします。放っておいて下さい」
彼女に背を向けないようにして、私はバッグ二つと買い物袋を持ち上げた。
その下に。
「ひっ……」
思わず声が出て、荷物を手放してしまう。買い物袋から卵のパックが飛び出した。
「その辺、あまり見ない方がいいわよ」
匡子さんの言葉は耳に入らなかった。
目が離せない――ソファの足元、白いラグに点々と散らばる染みから。
五百円玉ほどの大きさがあるそれらは、すべて鮮やかな赤い色をしていた。まるでたった今できたばかりのような大きな染みが、いくつもいくつも。
ラグだけじゃなかった。どうして今まで気づかなかったんだろう。私が腰掛けていたソファにも赤い汚れがついているではないか。背凭れや座面や肘掛に、べったりと、なすりつけたように。
突如、強烈な悪臭を感じた。生臭い、どろりと重い臭い。夏場、女性用トイレの汚物入れから漂ってくる臭いを思い出した。これは、腐った血の――。
鼻どころか喉の奥まで刺激を感じて、吐き気が込み上げた。
匡子さんは血で汚れたソファに悠然と腰掛けたまま、顔だけを私に向けている。少し悲しそうな表情だった。
「そう急がなくてもいいじゃない。ゆっくりしていけばいいのに」
ぎこちない笑みとともに差し伸べられた彼女の掌は、朱に染まっていた。地味なジャージのワンピースの胸も、腹も。
私は悲鳴を上げて、翔太を抱き締めた。身を翻そうとして、足が滑る。何とか転ばずに踏み止まったが、私の足先は赤く濡れている、血溜まりを踏みつけたのだ。
「何これ……何これっ……なんっ……何なのよおっ」
叫びながら、とにかく逃げる。リビングのドアノブも血塗れだったが、構わず開けた。廊下も同じだった。何かをずるずる引き摺ったような血の筋が、玄関から続いていた。
こんなもの、来た時はなかったのに!
私はほとんどパニックだったが、翔太の重さが辛うじて理性を繋ぎ留めていた。
逃げなきゃ、逃げなきゃ――ここはマトモじゃない!
赤い汚れを避けて進む余裕などなかった。ストッキングの足裏に気持ちの悪いぬめりを感じながら、私は玄関へ向かって走った。
たいして広いマンションではないのに、廊下はやけに長く感じた。呼吸を止めて走り抜けて、私は玄関ドアのレバーを掴む。
「開かない……やだ! 何で開かないのよ!」
内鍵を開けレバーを回しているのに、ドアはびくともしなかった。まるで外側から誰かが押さえつけているみたい。私はめちゃくちゃにドアを殴りつけた。
「開けて! ねえ誰か! 出して!」
「万里さん、落ち着いて」
耳元にふっと冷たい風を感じた。全身の毛が逆立つ。
すぐ後ろに、匡子さんがいる。
「そんなに乱暴に動くと、翔太くんの首が取れてしまうわ|」
冷たい、骨ばった手が、私の肩に触れる。
それを振り払うより先に、私は自分の胸を見下ろした。さっきから少しも動かず、声も上げない翔太を。
抱っこ紐の分厚いパットに包まれた翔太の首は、真横にほぼ九十度折れ曲がっていた。私が一瞬ぽかんとしてしまったのは、それが翔太なのかどうか分からなかったからだ。
丸い顔は目も口も潰れていた。鼻を中心に激しく陥没し、叩き潰されたスイカのようになってしまっていた。
「い、いやああああーっ」
自分が叫んだことにも気づかなかった。私は引きちぎるように抱っこ紐を外した。
キリンの模様が入った青いカバーオールは翔太のもの、ついさっきまで私の膝で笑っていた息子のものだ。でもそれに包まれた体は冷え切っていた。両手両足はすべて紫色に変色し、バラバラの方向に折れ曲がっている。胸に触るとグズッと柔らかな感触があって、服に赤い染みが浮かび上がった。