其の三
不慣れな土地で保育所探し――いわゆる保活が大変だったこと。
ようやく空きを見つけた保育所に入れるために、子供が一歳になる前に育休を切り上げざるを得なかったこと。
また両親ともフルタイム勤務が入所の条件だったから、復帰してすぐに定時まで勤務していること。
そして、夫の穣は残業が多く、私がほぼワンオペで育児をこなしていることも。夫婦とも実家は遠く、親は頼れない。さりとて、私が専業主婦になれるほど家計に余裕はなかった。
ずいぶんプライベートな内容まで話し続けてしまったのは、匡子さんがまったく自分の意見を差し挟まないからだった。その態度はむしろありがたかった。「そう」「へえ」「それは大変だったわね」などとタイミングよく相槌を打ってくれるので、つい訊かれていない話まで喋ってしまう。
「今の保育所、立地はいいし新しくて綺麗なんですけど、保育士さんがちょっと頼りないんですよね。この間なんかオムツ替えを一回忘れられちゃって……」
そんな愚痴を漏らしてしまって――私はふと口をつぐんだ。この話を以前に誰かに話したことがあるような気がしたのだ。
もちろんその日のうちに穣には話した。夜遅く帰ってきた彼は生返事で、私の憤りはまったく解消されなかった。
ママ友たちには黙っておいた。ミスした保育士さんの悪口大会になるのが目に見えていたからだ。
職場の同僚には……話したけれど、笑い話っぽくアレンジしたはずた。残業ができないばかりか、子供の急病でしょっちゅう早退する私は彼らに迷惑をかけている自覚がある。保育所の愚痴なんて零せるわけがない。
だから、こんなふうに一対一で誰かに聞いてもらっていたら、絶対に記憶に残るはずなんだけど……そんな機会、あっただろうか……。
「それは困ったものね」
驚きもせず、非難もせず、匡子さんはただ同情を示してくれた。それ以上の感想を述べようとはしない。私の既視感は宙ぶらりんなまま残ってしまった。
スマホが振動した気がして、画面を確かめた。通知は何もない。穣へのメールはまだ既読にならない。スマホを見る暇もないほど忙しいとしたら、これはますます絶望的だ。
「ね、翔太くんちょっと抱っこしてもいい?」
匡子さんが遠慮がちにそう言った。私は一瞬戸惑ったが、断る理由もなかった。
重いですよ、と言いながら翔太を抱き上げると、匡子さんは意外と慣れた手つきで受け取った。翔太はまじまじと彼女を見上げている。
「うふふ……翔太くん、誰のお膝にいるの? おばさんだーれだ。万里さん、お幸せよ。お子さんて可愛いだけじゃなく、他の人との繋がりにもなるものね。羨ましい」
「そう……だといいんですけど、正直今は落ち込むことの方が多いです。どうしてもっとうまくやれないんだろうとか、もっと助けてくれてもいいのにとか……」
今日だってこんなヘマをやらかしてしまった。仕事と家事と子育て、何ひとつ満足にこなせていない気がする。同時に、何で私一人が全部抱え込まなくちゃいけないのかと腹が立つ。
翔太は大事だけど、産んだことに何ひとつ後悔はないけれど――ぎゅうぎゅうの生活の中では、自分が幸せかどうかなんて考える余裕がなかった。
「お幸せよ、あなたは」
匡子さんは断言した。口調は柔らかだったが、反論を許さない強さがあった。
そこに一種の棘のようなものを感じ、私は身構える。彼女の口元に浮かんだのは自嘲的な笑みだった。
「少なくとも、何ひとつ手に入れられず、誰からも切り離されて、一人で引き籠ってる女よりはずっと幸せ――私のことだけどね」
「そんな……」
「私もね、結婚したいと思った人がいたのよ。でもその人は最初からそんなつもりはなくて……はっきり言うと騙されたのね私。お金を失くして体も壊して……まあ散々な目に遭ったの」
ひどい男よね、と彼女は翔太に話しかけた。
金銭的な問題が絡んでいたのなら、単なる恋愛関係の破綻ではなかったのかもしれない。詐欺とか……。
うかつに相槌が打てなくなった私に、匡子さんは視線を流した。白目が充血し、深い隈ができている。
翔太の夜泣きが酷かった頃、寝不足の私もこんな目をしていた。ほとんど一日中家に閉じ籠って、世界に自分と子供しかいなかった頃の、私。
あの時期に比べれば外の空気が吸えるだけ今はまだマシだと思える。
「だからね、ささやかな仕返しをしてやったの」
「仕返しって……どんな……?」
ごくりと唾を飲み込む。室温は低いのに背中に汗が湧いて、またもや喉が渇いてきた。
匡子さんは、まだ外に出られないのだろうか。そのひどい男を引き摺って……。
「その人の大事なものを奪ってやればどうかと思ったわ。たとえば、家族、とか……」
匡子さんはにっこり笑った。翔太の頭を愛おしげに撫でる。
「お子さんがいちばん効果的かしらね、やっぱり」
夕食のメニューを思いついた、みたいに軽やかな言い方で――私はゾッとした。
その相手には家庭があったのか、不倫だったのか。そんな疑問が浮かぶ前に、反射的に翔太に手を伸ばしていた。だけど、匡子さんは何気なく体の向きを変えた。
「あの、もうこちらに引き取ります。その子眠くなっちゃったみたいなので」
「大丈夫よ。ご機嫌よ――ねえ。ほら笑ってるわ」
「いえ本当に……返して下さい」
「少し皮膚が弱いんだっけ? かぶれると大変なのに、オムツ替え忘れられるなんて酷いわよね。私だったらその場で『こばと園』にクレーム入れるわよ」
「な、何で……」
翔太の皮膚が弱いことや保育所の名前を知っているのだ。
そんな話はした覚えがない。絶対にない。
冷たい血液が、頭から内臓を流れて脚の先まで、一気に下りてゆく気がした。
ろくに付き合いがないのに私や子供の名前を知っていた。いつも穣の帰宅が遅いのを把握していた。翔太が八ヶ月だってことも……自分が無関心なだけだと思っていたが、彼女の方が知りすぎているんじゃないだろうか。
親切な隣人が、急に得体の知れない監視者に思えてきた。
それに、さっきの話。
「匡子さん、その人に仕返ししたんですか……実際に」
渇いた喉は弱々しい声しか絞り出さなかった。
匡子さんは曖昧に首を傾げて、したわよ、と答える。翔太をあやしながら、
「彼はまだ知らないだろうけどね。ほんと可愛い子……将来さぞやハンサムに育ったでしょうに」
「返して下さいっ」
私は強引に子供を奪い取った。匡子さんはあっさりと手放す。私を――というより翔太を見詰める眼差しは優しく、憐れみすら籠っているようだった。
心臓が苦しいほど高鳴っていた。恐怖のためだ。この人は危ない、普通じゃない――別に何をされた訳でもないのに、本能のシグナルが鳴り響く。
同時に、根本的な疑問が湧いた。
この人、ほんとに乾さん?