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其の二

 中に入った途端、ひんやりした空気が肌を撫でた。

 異様なほど冷えている。玄関先ですらこの涼しさなのだから、室内のエアコンはそうとうに設定温度を下げているのだろう。外気で火照った体には心地よかったけれど、翔太しょうたが風邪をを引かないか心配になった。

 夏だと言うのに、匡子きょうこさんが長袖のワンピースを着ている訳が分かった。寒いのなら温度上げればいいのにと思わなくはなかったが、口には出せなかった。


 当然ながら私の住む三○二号室と同じ間取りである。細長い廊下の右手に水回り、左手に六畳の洋室があるはず。突き当りがリビングダイニングだ。


 匡子さんに続いて廊下を歩く途中、ふと――うなじの辺りを奇妙な感覚がくすぐった。

 触覚でもなく痛覚でもないそれは、見られているという直感。私は思わず足を止めて振り向いた。

 洋室のドアがほんの少し開いている。照明がついていないので中はよく見えないが、その奥から視線を感じた。人の気配というか。


 ご主人がいるんだったら挨拶を――と考える前に、隙間は閉じられた。

 思いがけず大きな音がして、私はハッとする。やや乱暴にドアを閉めた匡子さんは、何事もなかったかのようにリビングへ向かった。

 寝室なのかもしれない。そりゃ他人に覗かれたくはないだろう。

 私は特に気に留めなかった。変な感覚もそれきり消えた。


「散らかってますけど、どうぞ」


 匡子さんの言葉は謙遜に聞こえた。

 白い壁紙に合わせ、薄い色の家具で統一されたリビングは素っ気ないほど整頓されている。常にごちゃごちゃと物に溢れた我が家とは大違いだ。

 お子さんはいないんだな――染みひとつないソファや白いラグを見て、私はそう思った。引っ越しの挨拶の時、夫婦二人暮らしだと言っていただろうか。子供中心の煩雑さに慣れた私には、かえって居心地が悪く感じられた。


「ああ、そんな床になんか座らないで、どうぞ上に座って下さい」


 勧められて、私は遠慮がちに綺麗なソファに腰掛けた。抱っこ紐を外すと両肩が浮くようだった。覚悟していたほど部屋が寒くなかったことにホッとする。


「翔太くんは寝かせる? タオルケットか何かあった方がいいかしら」

「あっ、お気遣いなく……膝に抱いてますから。こうしてた方がこの子、機嫌がいいんです」

「お利口さんないい子。確か八ヶ月だったわよね」


 よく知ってる……引っ越しの挨拶に行った四ヶ月前、年明けに出産したんですと話したのを記憶しているのだろう。私ときたら、そんな会話があったことすら忘れていた。

 私の人間関係は、職場と、あとは保育所のママたちとの情報交換くらい。ご近所づきあいなんてこれまで意識していなかった。どうせ賃貸だし、いずれ出ていくからと割り切っていた。こういう事態になって、初めて日常の交流の大切さを痛感する。


 匡子さんはキッチンから冷たい麦茶を運んできてくれた。喉がカラカラに乾いていた私は、お礼を言って一息に飲み干した。


 ――何だこれ。


 顔をしかめずやり過ごすのに、かなりの気力を要した。出された麦茶は妙な味がしたのだ。生臭いというか……古くなっているのかもしれない。口中には気持ちの悪い後味が残っている。

 翔太には飲ませられないと思ったけれど、文句をつけられるほど匡子さんと親しくはない。私は何度も唾を飲み込んで、誤魔化すようにスマホを見た。

 みのるからの返信は来ていなかった。送ったメールに既読すらつかない。仕事中だから気づいていないのかも。

 匡子さんに改めて頭を下げた。


「ありがとうございます。お忙しい時間帯なのにご迷惑をおかけしちゃって」

「そんなの気にしないで」

「もうほんと、何とお礼を言っていいか……」


 言い淀む私のかわりに、翔太があううと声を上げた。匡子さんは翔太の頬っぺたをつついてから、もう一杯麦茶を注いでくれた。でも、お茶に手をつける気にはなれなかった。

 匡子さんは不審がる様子もなく、麦茶のボトルをローテーブルに置いて、私の隣に腰掛けた。夕食の準備とか大丈夫なのかな、という疑問がチラリと脳裏を過ったが、キッチンで調理をしている形跡はなかった。

 そうか、夜の八時前といえば、一般的には食事が終わっている時刻なのかもしれない。いつも自分が炊事をしている最中だから、他の家庭も同じだと決めつけていた。改めて、今の生活リズムがぎゅうぎゅうなのだと思い知る。空白の時間なんて、ここ数ヶ月、一分だってなかった……。


 話が途切れて、ソファに並んで座ったまま数秒の沈黙が続いた。匡子さんは積極的に喋るタイプではなさそうだ。押し黙っているのは間が持たなくて、私は会話の糸口を探した。


「ええと、匡子さんのご主人もまだお帰りになってないんですか?」

「私、独り暮らしよ」


 さらりと答えられて、私は口を押えた。何てことだ。


「ごめんなさい、お二人暮らしだとばかり……別の方と勘違いしてました」

「いいのよ。今までほとんどお付き合いがなかったんだから」


 匡子さんは苦笑して、翔太の頭を撫でた。翔太は笑いこそしないものの、大人しく私の膝に抱かれている。ぐずらなくて本当によかった。 


「世帯向けのマンションに独身女なんて、贅沢だと思ってるでしょ?」

「い、いえそんなことは……」

「ここ、他に比べて家賃が割安なんですよ」


 そうなのかな……そんなに安いとは思えないけど。引っ越しの時に散々物件を比較した私は、彼女の言葉には賛同できなかった。

 とはいえ、今の失言はかなり気まずい。おかしいな、ちゃんと挨拶したはずなのに、どうして夫婦だと思い込んでたんだろう。


 ――私も旦那も朝が早いから。

 ――前のご夫婦は静かだったのよ。

 ――マナーは守ってね。


 一見気さくな、でも底に冷たい感情を秘めた声が甦る。とても不安な、嫌な気持ちを思い出した。


「ご夫婦共働きで子育てなんて、大変よね。この地区も待機児童が多いと聞いているし、保育所に入れるだけで一苦労だったんじゃない?」


 しみじみとした匡子さんの口調が、悪い方に振れる私の気分を払拭した。相変わらず声は聞き取り辛かったけれど、社交辞令以上の労りを感じた。


「はい……前に住んでた所よりはまだ空きがあると聞いて越してきたんですけど……」


 彼女の思いがけず親身な姿勢に、強張っていた気持ちが和らいで、私は話し始めた。

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