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其の一

 ドアの向こうが騒がしい。


 人が忙しなく動く気配がして、ガサガサガタガタ、断続的な物音がする。

 そのうちに女性の溜息まで聞こえ始めた。


「ええ……どうしよう……ほんとにないよ……」


 苛立ったような、泣きそうな声。独り言なのだろう。

 その声を、私は玄関に降りて聞いていた。自然と口元が綻ぶ。


 壁の時計を見ると、午後七時三十五分。

 私はドアの覗き穴に目を近づけた。見なくても、外で何が起きているか分かり切っていたけれど。


 湾曲した視界の隅で、若い女性が動いていた。中腰になってショルダーバッグの中をしきりと漁っている。不自然な姿勢は、胸の位置に大きな荷物を抱えているからだ。

 困り果てた様子が、私の気分を高揚させる。彼女はバッグを引っ繰り返し、さらに足元に置いた別の荷物を開け始めていた。気の毒というより、微笑ましい。

 そう、彼女は微笑ましいのだ。常に一生懸命で、余裕がなくて、だから自分の手にした幸福に気づいていない。本来、嫌いなタイプなはずだった。

 なのに、彼女が来てくれることをこんなに嬉しく思うなんて。


 私は部屋に戻り、注意深く寝室の扉を閉めた。それから、靴箱の脇の姿見で自分の格好を確認する。ちょっと緩んだ襟元を整えて、耳にかかる後れ毛を撫でつけて。

 このドアを開けるのが、きっと私の運命なのだ。


 私は内鍵を回した。十年来の親友を迎えるような気分だった。





 私は焦りまくっていた。


 家の鍵をなくしたのだ。

 マンションに帰りついてから気づいた。通勤用ショルダーバッグの、いつもキーホルダーをしまっているポケットから鍵が消えている。これでは部屋に入れない。

 バッグの底にはなく、財布や手帳の間にも挟まっていない。履いているパンツの腰ポケットにももちろん入っていなかった。


 私が普段とは違う動きをしたからか、翔太しょうたがむずがった。

 私は胸に抱えた翔太のお尻を支えながら、肩からずれそうになる抱っこひもを直した。子供の体温と蒸し暑い空気で、ブラウスがべったりと体に貼りついている。


 もう一度バッグの中身を確認しつつ、自分の行動を振り返ってみた。会社を出る時には確かに入っていた。キーホルダーについた鈴の音を聞いた覚えがある。電車に乗って、降りて、保育園に翔太を迎えに行って、スーパーで少し買い物をして……家に帰ってきたら鍵がなかった。

 定期を出す時に落としたのだろうか。それともレジで財布を出した時?


 無駄とは分かっていたが、他の荷物の中も探した。翔太の着替えやオムツを詰め込んだトートバッグ、食料品の入った買い物袋……もちろん、どちらにも入っていなかった。そんなところに入れるわけがない。


「どうしよう……ほんとにないよ」


 開かない玄関ドアを前に、途方に暮れた。

 間の悪いことに、今日はみのるの帰りが遅い。夕食はいらないと言われている。彼を待っていたら夜中になってしまう。一応状況をメールしておいたが、残業を切り上げて帰って来てくれるとしても、一時間以上かかる距離だ。私はスマホを手をして溜息をつく。


 ここ三階だけど、何とかベランダによじ登れないだろうか。そしたら窓ガラスを割って……などと埒もない考えまで浮かび始めた頃、ガチャッと音がした。

 一瞬、自宅の玄関が内側から開いたのかと思ったが、違った。開いたのはお隣のドアだった。


「……どうかしましたか?」


 三○三号室から顔を覗かせた女性の名前を、私はすぐに思い出せなかった。

 マンションと言っても賃貸物件だから、住人の入れ替わりは頻繁だ。表札を出している部屋の方が少ない。うちもお隣も表札のプレートは白紙のままで、春先に引っ越してきた際に挨拶に行ったっきりほとんど交流がなかった。


「あ、だ、大丈夫です」


 反射的に作り笑顔で答えてしまう。翔太が、あうう、と声を上げた。

 お隣さんは翔太に微笑みを向け、それから顔を上げた。私より十は年上と思える、三十代後半くらいの痩せた女性だ。ジャージ生地のワンピースを着て、長い髪を緩く束ねている。化粧っ気はほとんどなかった。


「中に入れないの? 重森しげもりさん」


 こちらの名前は覚えてくれているみたいだ。幸い、私も思い出した。

 そう確か、いぬいさんといったっけ。


「鍵を……落としちゃったみたいで。でも大丈夫です。管理会社に電話しますから」

「もう七時半よ。営業時間外だから、すぐには来てもらえないんじゃないかしら」


 乾さんはぼそぼそと言った。聞き取り辛い、乾いた声だ。彼女は玄関先から出ようとはせず、ドアノブを掴んだ姿勢で半身を覗かせている。

 迷惑がられてる、と思った、夜に玄関先で他人が右往左往していたら、誰だって嫌だろう。私は翔太の背中を撫でた。


「ご主人は? すぐに帰って来るの?」

「いやそれが……今日は遅いんです。連絡はしてみますけど……」

「いつもお帰りが遅いものね」


 お隣さんにはやはり外出や帰宅の気配が伝わるのだろう。深夜にドアを開け閉めする時には気をつけないと、と改めて肝に銘じた。


「……お騒がせしてすみません。主人が戻るまでどこかで時間潰してます」


 駅前にネットカフェがあったはず。そこで穣を待つほか、選択肢がなかった。

 胸に抱えた八ヶ月の息子がずっしりと重い。さらに重いバッグを両手に持って、私は階段の方へ歩き始めた。暑さと焦燥感で汗だくだった。翔太が泣き出さないのが救いだったが、ドジな母親のせいでこんな目に遭わせてしまい、いたたまれない気分になる。


「うちで待ってれば?」


 予想外に気さくな声が、私を引き止めた。

 振り向いた先で、乾さんがぎこちない笑顔を作っていた。十分に美人と言える顔立ちだったけれど、すっぴんの肌はくすみ、口元は乾燥して荒れていた。あまり整えられていない眉に、失礼ながら、外出が好きなタイプではないなという印象を持った。


「小さなお子さん抱えて、大変でしょ。荷物だってそんなにたくさんあるのに。どうぞ上がって下さい」

「いえ、夜分にご迷惑になりますから……ほんと大丈夫です」

万里まりさんは大丈夫でも翔太くんが疲れちゃうわ。お隣同士、お互い様ですよ。ね、遠慮しないで」


 私の下の名前はともかく、乾さんが子供の名前まで記憶していることに驚いた。私の方は顔もうろ覚えだったのに。


「いや、でも……」

「いいから早く」


 乾さんは強く手招いた。玄関ドアを大きく開けて、さあどうぞと言わんばかりに靴を脇に寄せる。


 これまで付き合いのなかった隣人の親切に、少し戸惑った。

 でも彼女の物腰に他意を疑う余地はなかった。それに正直とてもありがたかったのだ。迷惑がられてるなんて考えた自分が恥ずかしい。


 私は彼女の厚意に甘えることにした。後数時間の不安を覚悟していたからか、安堵のあまり涙が出そうになった。


「すみません、乾さん、助かります……」

「私、匡子きょうこというんですよ。話し相手がいなくて退屈していたの」


 匡子さんは親しげに、いちばんの親友に向けるように、微笑んだ。

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